アポロン神
僕の旧友、アポロンは全く唐突な奴である。ヤツは、十一時過ぎに「飲み行こうよ。」と誘ってきたりする。「ビール一杯奢るからさ。」とも付け足す。僕は大概それに付いていく。でも、バーで自分語りをするのは決まって僕だった。その間、彼は僕の話に、人一倍大きい耳を傾ける。それは物理的な大きさに変わりなかったが、その耳にはニュアンスを全て吸い込んでしまうような精神的な意味も持ち合わせていた。そして、どんなに下らない話をしても、その耳は最後までそれを聞いていた。
先日こんなことがあった。
「最近眠れないだ。」
「どうして?」
「わからない。眠いんだけど、眼を閉じると決まって、不思議な図形たちが踊り出すのさ。僕はただそれをじっと見てるんだ。」
「『図形たち』って一体どんなんだい?」
「実は毎晩違うんだよ。ある時は手前に緑色のキューブが積まれて、奥では河川敷の夕焼けみたいに鮮やかな黄色が一面に広がっている。昨日は、二股と三股の図形がお互いにうまいこと絡み合っていたのさ。」
「それを見物するのは不快なのかい?」
「全く。寧ろ多幸感さえ感じるよ。そうなると僕は居ても立ってもいられなくなって、紙にそのスケッチを殴り書きするんだ。それが眠れない理由だよ。」
ヤツは突然ワッと笑い出した。店内で流れていたスウィングジャズの演奏がほんの一瞬遮られる。
僕は居心地の悪さを相殺すべく、声を潜めて咎めた。
「おい、何がおかしいんだよ! 僕は本気で悩んでいるんだ。」
「いや、実は」
彼はそう言うと、口が擦り切れたリーバイス501のポケットから、おもむろに見慣れないトランシーバーのような機械を出して見せた。
「なんだいこれは?」
「これだよ。」
「なにが?」
「これが君が毎晩眠れない理由さ。」
「どういうことだ?お前がこれを動かしていたのか?」
「その質問の答えはYesでもNoでもあるな。」
「とっとと説明してくれ。」
僕はビールの残りを飲み干してから、語気を強めて言った。
「君も知っての通り、私の父は『創造主』なんて異名を持つ、偉大な発明家だったろう? この間父の遺品を整理していたら、一際古びた真鍮の箱から、こいつが出てきた。一枚の紙とともにね。」
なんだか話が長くなりそうで、僕はアポロンに目配せして、煙草に火をつけた。ジュッ、パチパチという音と共に、心地良い香りが広がる。
「紙には『藝術の衝動を引き起こす装置』と書いてあり、上から赤ペンで大きく『没』と書いてあった。ただ、失敗作としてはあまりに美しかったんだ。だから、私はそれから毎日この機械の使い方を模索した。どうやったらリビドー起こせるのかをね。」
「でも、説明書も何もなかったんだろう? どうやって?」
「そりゃ、大変だったさ。誰かの額に当ててみても何も変わらないし、一日中手に握らせてみても、彼らは藝術のげの字も知らないような顔付きで、普段と変わらない生活を続けるんだ。」
「それがどういうわけか僕には作動した。そういうことか?」
「それはちょっと違う。」
焦るなよと言わんばかりに笑みを浮かべながら、ヤツは言った。僕は彼のこの癖が以前から嫌いだったが、今は話の続きが気になるので呑み込むことにした。
「今から一ヶ月前、私が君に偶然出会った日を憶えているか?」
僕は正直そんなこと憶えていなかった。あの頃は毎日が駿馬のように通り過ぎ、五年付き合った彼女の名前さえ思い出せないほど疲弊していた。
「ああ。」僕は適当な返事をした。
「実はあの時、ポケットにあったこの機械が燃える様に発熱し、モーターを動かし始めたんだ。今までうんともすんとも言わなかったこいつが、君に会ったタイミングでね。それから私は君をバーに誘う度、こいつを服の中に忍ばせていた。そして、君が近くにいると決まってモーターが廻り始めるんだ。」
彼は興奮しながら続けた。
「そしたら今日、君が『居ても立ってもいられなくなってスケッチをした』だなんて言うんだ!」
僕は呆気に取られ、ぽかんとしていた。
「でも、どうして僕に?」
「それはわからない。どうやらこいつは気まぐれらしい。まるでこいつ自身が相手を選んでいるかの様だよ。でも、これが君だけに作動するとは思えない。第一、父は君に会ったことがないしね。」
「じゃあ、もっと他に僕と同じ様な経験をするやつが出てくるってことか?」
「いや、寧ろもういるのかもしれない。それも途方もなく昔からずっと。」
決して広くないバーで、アポロンはカウンターの奥を見つめながら、氷で薄まったウイスキーを喉に流し込んだ。
会計を済ませて外に出ると、朝日が上り始めていた。
「悪いな。こんな朝方まで。」
「いや、いいよ。どうせ家にいても朝まで眠れなかったんだ。誰かさんの機械のせいで。」
アポロンはしんと静まり返った路地をつんざくようにハッハッと笑った
「じゃあ、また。」僕はひとしきり笑い終えた彼に向かって言った。
「ああ。また誘うよ。」とアポロンは答えた。
「もしかしたら」
彼はまた口を開いた。たった今、別れの挨拶をしたばかりなのに。
「もしかしたら?」
「もしかしたら、これは私の存在そのものなのかもしれないな。」
そう言い残してアポロンは去って行った。
訳の分からないことを言いやがって。最後のウイスキーでノックアウトされちまったのか。ヤツも馬鹿だな。そうぶつぶつ言いながら、陽射しに照らされたアスファルトの上を歩いて帰った。
*
日没前に起床して、少しの頭痛と、ブラックコーヒーを片手に窓辺に座り込む。暫く酒は控えようと、弱々しい決意を固めた時、ふとアポロンとの出会いについて考えた。ヤツと出会ったのがいつだったかどうしても思い出せない。大学時代? いや、あの時は既に「旧友」だった。なら、高校? 埃をかぶった卒業アルバムを棚からを引っ張り出してみたが、アポロンはどのページにもいなかった。隣にあった中学校の卒業アルバムに手を伸ばす。ここにもいない。小学校。やはりいなかった。
それから、うんうんと唸りながら僕は、アポロンとの出会いについての記憶を隅々まで探し求めた。
今にも太陽が沈みそうな時、西日が棚の奥からギリシャ神話の本が浮かび上がらせた。存在さえ忘れていた、いつ手に入れたのかもわからなかった。紙は古く、表紙は色褪せている。製本が雑で、角が全く揃っていない。ページを指でめくっていく。懐かしい感覚が指先から脳までゆっくりと伝わった。
本の後ろには、ギリシャ神話に登場するオリュンポス十二神が紹介されていた。そのページを見た時、僕は完全に混乱した。そこにはアポロンがいた。いや、アポロンはオリュンポス十二神であって当然なのだが、写真に写る彫刻のアポロンは紛れもなく、僕の友人、昨日朝まで飲み明かしたあのアポロンなのである。クラスメイトが歴史上の人物に似てるなんて話は、誰でも経験したことがあるだろうが、僕の手元で飄飄とそびえ立つそれは間違いなくアポロンであった。
そして、彼の下にはこう説明書きがあった。
「創造主ゼウスの息子。芸術の神。」
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