狂気・エヴァンゲリオン
*決定的なネタバレはありませんが、とある要素への記述があります。物語のエンタメ性を損なうものではありませんが、気になる方はお控えください。
エンドロールが流れる間も、僕は一時も油断していなかった。劇場の明かりがつくまで決して立ち上がってはならないと思った。そして、僕以外のほとんども、どうやらそうらしかった。
もはや、誰もが画面に縛られていた。ただ流れる文字列を必死に眺める様は「狂気」以外の何でもない。
この空間は隅から隅まで狂気で満たされていて、狂気さに誰もが溺れている状況がさらにその純度を高めていっていた。
シン・エヴァンゲリオン劇場版は狂気の映画である。
1.0 座席
思えば、この映画の狂気さは上映前から始まっていた。
緊急事態宣言によって二度も公開が延期された本映画は、人々の期待を異常なほど膨れ上がらせる、所謂「焦らし」の効用をもたらした。そして、人々はそれにまんまと応えた。
ニューノーマルを唱える時代に逆行するかのように、映画館の座席は全席開放され、なおかつそれらは満席であったのだ。
押し込められた座席で、隣人が唾液を飲み込む音を聞く。
遅れて来た客のために一度座席を立ち上がる。
そんなオールドノーマル的な光景が違和感もなく繰り広げられる狂気さがそこにはあった。
2.0 欠損
あるいは、劇中の登場人物であってもそうだ。
エヴァのパイロットが14歳から成長しない「エヴァの呪縛」を誰もが自然と受け入れている様にふと気づいた時、僕は純粋に彼らは狂っていると思った。
エヴァの登場人物たちは我々と共鳴するような感情の動きを有している、とよく言われる。確かに、我々はシンジに、アスカに、ミサトに、ゲンドウに感情移入する。
だが、確実に彼らには感情の何かが欠けている。
恐れるはずの何かや、気持ち悪いと思う何か、美しいと感じる何かへの反応が明らかに我々とはズレている。
それはまるで不気味の谷に放り出されているようである。親しみのある対象に感じる違和とその狂気さがここにはある。
3.0 水と油
あるいは死に対してあまりに無抵抗なことも、現代人の感覚で言えば奇妙なことこの上ない。
しかし一方では、登場人物はいつまでも生に希望を見出している。エヴァに乗ることが人類を救うと考えるのだ。
この壮大な自己矛盾を抱えたまま映画は進行してゆく。絶望と希望とに何の折り合いもつけることなく、ただ淡々と。
そしてそのうちに両者は混ざり合ってしまう。絶望か希望かもわからない境地へと我々は誘われていく。混ざり合うはずのない水と油が、庵野秀明という界面活性剤のせいで、すっかり混合されてしまう。
視聴後にただスッキリとしない感情だけを抱えて佇んでしまうのはきっとこのせいである。
絶望と希望とをまとめて押し付ける狂気さだ。
3.0+1.0 創作
そしてこれは僕を今も苦しめ続けている狂気。創作への狂気である。
いつの時代にも最高傑作と謳われる創作物が世の中に存在する。
SFアニメの金字塔、アキラ、攻殻機動隊、そしてエヴァンゲリオン。
今、ひとつの物語が完結した。次の最高傑作となる創作物は何か。エヴァンゲリオンの次の名を連ねる作品は何か。
何も僕はSFアニメ作品を作ろうとはしていないが、しかしこの映画の示した「創作への狂気」は全ての作家・クリエイターに影響しただろう。
書きたい。人の心へ衝撃を落とし込むような作品を書きたい。そうでなければならない。
そういった狂気的な欲望が僕を包み込んでいる。僕の理性が届かないところに煌々と輝いている。
*
人は本物の狂気に晒されると、恐怖を感じないらしい。僕は帰りの電車で焦点の合わない目を窓の外に向けながら、これから何をすれば良いのかわからなくなっていた。それは10年先でも1か月先でも明日でもなく、1秒先でさえわからないという状態だった。
ただその時には、目の前のリーフレットに目を落とすのが精一杯だった。
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