「偸盗」感想

芥川龍之介の「羅生門」を高校の授業で取り扱ったので、芥川作品に興味をもって読んでみたのでシェアしたいと思う。

そもそも「偸盗」?なんて読み方だよって思ったけど、「ちゅうとう」らしい。意味は人のものを盗むこと、また、その人。ぬすびと。らしい。

妖艶な美女、「紗金」の描写とか、轍にただ残る蛇の腹とか、本当に表現が美しいと思ったのは、この小説が初めてかもしれない。

私の読書経験の乏しさ、偏りと言ったらないから、あんまり参考にはならないかもしれないけれど、ウェブサイトなどで無料で読めるので、ぜひ。

ちょっと調べてみたら、芥川本人も認める「駄作」らしい。
私も、物語の内容よりも描写の美しさに気を取られてしまった感が否めない。この物語は、猪熊のおばばから猪熊の爺への「愛」、太郎と次郎間の「愛」、阿濃の腹の子に対する「愛」、猪熊の爺から新生児への「愛」
などなど、荒廃した世界の中で浮き彫りになる人間的な愛の美しさを描いた作品なのかな、とは思ったけれど。

太郎が野良犬の群れに襲われる次郎を思わず助けてしまった場面とか、それで二人を誑かした女紗金を殺しに行くのとか、私はあまり共感できない部分が多かった印象。
窮地で兄弟愛が発揮されてそれを確認しあう、というのは理解できたけれども、それが兄弟二人の紗金に対する男女の情愛に勝る所以があるのか、それはわからない。

「家族、友達、恋人が溺れていて、一人しか助けられないとしたらどうする?」的な質問よくあるけどさ、私はどうするんだろうか、とこれを機に考えた。
家族って結局はただの血のつながりだし、なんか「情け」的な要素が強い感じがして積極的に家族を選ぶ気にもなれない。
友達は友達でその三択で選ぶか??って感じ。大切な友達はいるけど15年そこらの人間が作る友達関係なんてたかが知れてるし。
恋人も性欲に支配されてる感というか、ああただ脳が必死に作り出すホルモンに支配されてるだけなんだろうな感というか。

「家族」「友達」「恋人」
役割だけで見たら、どれも甲乙つけがたい。
だから私は、自分との関係とか、役割とか度外視で、「溺れてる中で一番好きな奴を助ける」んだと思うんだよね。

だから、太郎と次郎の兄弟愛が紗金への男女の情愛に勝ったのは、兄弟愛が美しいからでもなく、ただ、太郎や次郎が紗金よりも互いの兄弟のことが好きだったからにすぎないと思っていて。

兄弟愛、恋人に対する愛、親子愛などさまざまな愛の形が描かれて、それらの重みが明確に区別されていくこの物語の構成にはあまりしっくりこなかった。

…ごめんね龍之介。悪しからず。

世の中に当たり前のように区分けされる「役割・間柄」と「愛」の関係について考えさせてくれる良作だったと、私は思います。

皆さんも「偸盗」を読んでみて、あるいは僭越ですが私が勝手に関連付けた「家族、友達、恋人が溺れていて、一人しか助けられないとしたらどうする?」という質問から、愛の様々な形、その相関について考えるきっかけにされてみてはいかがでしょうか。


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