温度のある文章
まえがき
「塩沼亮潤大阿闍梨のstep by step」を聴いての感想と、そこから派生して考えた内容をつらつらと書いていきます。
だいすきな安田章大くんが3/7、3/14放送の2週に渡ってゲスト出演されるとのことで、もうね、秋田でやってないから速攻でradikoプレミアム登録しました。ありがとうradiko。
以下の文章は、コーヒーをすすりケーキを食べながらラジオを聴き、手帳にばーっと書き出した荒削りです。悪しからず。
ちゃんと生きる
ちゃんと生きる、と聞いて「うん、わかるよ」と思うか、「ちゃんとってどんな風に?」と思うか。
わたしは前者だった。自分の中でのちゃんと生きるがあって、毎日そうできるように生きている。これは決してグータラ生活をしてはいけない、こうしなきゃいけない、とかじゃなく、心持ちの問題、向き合い方の話だと私は考える。
温度のある文章
今回のラジオで安田くんは「温度の伝わる文章」の話をしていた。
これは、自分用の手帳メモだけでなくnoteにも残しておこうと思い、かなりざっくりとではあるが、メモと所感を記しておく。
要約すると「温度を感じる文章とそうでない文章とがある」「どうやらそれは、単語の難しさじゃないらしい」とのことだった。
先日、わたしはnoteにこんな記事を書いた。
要約すると、小説やエッセイなどを読むと、その人の温度が伝わってきて、多くの場合で脳内で勝手に人が話している感じで聞こえるというものだ(ものによっては、説明の多い自己啓発系の本でも声が聞こえることも)。
ラジオを聴きながら、安田くんも文章の温度を感じ取るタイプだったのか~となんだか嬉しくなった。私が書く文章(目にすることは無いだろうが)を読んだ時、ちゃんと温度が伝わるものが書けているだろうか……
わたしは、温度がある文章が好きだ。ありがたいことに上司から「コナカの文章には温度がある」と言っていただくこともあった。私自身も、仕事やプライベートの文章にこめた温度感が意図通りに届いていたらうれしいなと願っている。だからこそ、文字から温度感がある、という感覚の持ち主だったことにかなり嬉しさを覚えたのであった。
技術としてのライティングスキルだけでなく、温度をそのまま伝えられる文章力をブラッシュアップしていこう)しよう。ね。
ピックアップされない、普通の生活
毎日は、普通の生活の繰り返しだ。メディアは「ニュース」「変化」「ターニングポイント」を追うものであろう。
持病のあるわたしにとって「痛みがある」のは普通。服薬が多い」のも、「くすりで寝付けない日がある」のも普通の生活だ。もうそこに慣れてこれが「普通」になったから、あえてしんどいという程ではない。むしろいつもしんどそうだったら家族が苦しくなるだろうと、なるべくあからさまに表情や言葉で伝えることは避けてしまっている。
ラジオからの安田くんの声に集中してみる。「病気がある自分に慣れてしまった、それが普通になってる」というもの。また「大病をすると『それを機に』『あれ以来』と言われることも多い、自分の中ではひと続きのことだから特別な何かとか辛かった何かだと思っていないのに」と話していた(ざっくり)。
赤べこのごとくうなづいた。そうなの。私たちの生活は地続きで、あれほ単なる通過点でしかないんだよね。その前後にはいくつもの普通の日々がある。
あー、だからわたし安田くん好きなんだな、と再認識したラジオでした。