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06 日本人と稲作について

皆さんこんにちはコバチバです。

今回は日本と馴染み深い稲作について記事を書いていきたいと思います。

ちなみに私は小学校5年生の時の稲作体験でヒルに噛まれました 笑

稲作の伝来

日本に稲作が伝来したのは紀元前2~3世紀の弥生時代と言われています。まずこの稲作によって縄文時代に狩猟を中心として移住を繰り返す生活様式から稲作は年間を通して穂を育て育てるため、定住型の生活様式に転換するようになりました。

そうして稲作によって狩猟に比べて食料の確保の安定化が図られ、開墾して田を増やすことによって単純に食料の供給が増加することから人口の増加することとなり、田への水の必要性から主に河川の近くに大規模なムラを形成するようになりました。

稲作による人の集団化

稲作の伝来によってムラとしての集団的意識が高まり、肥沃な土地を求めてムラ同士が争い始め倭国大乱などの争いが起きるようになり、邪馬台国や大和朝廷へと国家形成が進むようになった。

また稲作と一緒に朝鮮半島から武具や農具がもたらされ、毎年の豊作を村の長を筆頭に神に願う「祭り」を行うようになり武具や農具は祭具や神具として扱われた。

この「祭りごとが」が「政ごと」となったことから、村での稲作の豊作を神に願い、感謝することの重要性が伺える。この稲作伝来によって日本国内の集団化を促し国家を形成することに至り、稲作への祭りごとによる宗教的権威によって支配者層が確立され後にこの宗教的権威を取り込んだ天皇を中心とする統治が確立されることになりました。

日本神話によると食物・豊作の神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)です。倉稲魂命は天照大御神を始まりとする天皇の系譜であり、全国の稲荷神社の主祭神として全国各地で今でも祭られていることから、稲作による国家形成は非常に天皇による国家形成に密接に関わっています。


稲作と歩む日本

ここまで稲作が日本の国家形成に深くかかわっているのは古事記に「水穂国」と書かれているように、稲作伝来の前から天然の河川に恵まれた日本民族は水による身と心の清め、禊や手を洗う事の神詣を尊び、「水神」としての水への恩恵と感謝の文化が根底にあり、そこから水の恩恵で育つ稲作は日本の風土、水への宗教観と合致して受け入れられ、その恩恵も大きかったことが由来と考えられます。(ちなみに水穂(みずほ)はみずほ銀行の由来です)

その後日本の税金は現在の通貨が普及するまでは米で税を納め、後に歴史に台頭する武士の給料は米であったことから日本は稲作と共に歩んだ国と言えます。


日本の文化形成の特徴

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日本は地理的に極東の位置にあり、欧米・中東・中国から伝わるすべての文化伝来の最終地点であることから他の地域に文化を伝えることよりも自分たちで外来の文化を取り入れ活用していくことに集中できる環境であったと言えます。

そのことが上記で述べてきた「漢字」や「稲作」などを、時間をかけて日本人の風土と気質に合うものへの改良できた事につながります。

また日本は島国であったことから大陸の違い国家間の戦争に巻き込まれることは古代から近代の間を見ても元寇くらいしか無く、戦争に負けて技術・文化・民族が根絶やしにされるようなことは起きませんでした。

そのため、日本が古来より継承されてきた文化・技術を遣隋使や貿易を通して外国の文化・技術が国内に入ってくるたびに融合させ発展させることを可能としました。

そうして今の私たちが世界に誇る和食、日本語、武術、建築などの長い時間をかけて洗練された日本文化を形成することになりました。

この外国文化を取り入れ独自改良していく姿勢は日本を車産業などの工業技術力を飛躍させ経済大国に押し上げた反面、ガラケー・ガラパゴス化と言われる日本国内に留まり、商品・サービスを世界普及化できない弱点になっていると考えられます。


最後まで読んでくださった方ありがとうございました。

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