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016 日本とウィルタ族

皆さんこんにちは、コバチバです。

少し久しぶりに記事を書きたいと思います。

今回取り上げるのは、少数民族ウィルタ族についてです。

はじめに

日本は大和民族だけの国家でなく、アイヌ民族がいるというのは多くの方がご存知だと思います。

2020年は国立アイヌ民族博物館(ウポポイ)が開館予定であり、今の日本ではアイヌ民族だけでなく地方創生ということで各地域の文化や歴史を尊重する動きが盛んになっているのではないかと思います。

そこで日本には大和・アイヌ民族以外に存在する民族はいないか調べたところ、たまたま見つけたのがウィルタ族でした。


トナカイの民「ウィルタ族」

江戸時代末期、日本が北海道・樺太(サハリン)に進出したころ、樺太にはツングース系のウィルタ族という民族がいました。

「ウラァ」はアイヌ語、ウィルタ語では「トナカイ」という意味。
 「ウィルタ」は、「ウラァと一緒に生活する人」の意味になるのでウィルタ族とはトナカイの民という意味になります。

沿海州のアムール川河口付近を生活領域として古来トナカイと共に移動しながら生活をし、アイヌ人と交易をしていました。生業は元来、トナカイ牧畜や狩猟、漁労を主としていたそうです。


ウィルタ族の特徴

雪のない初夏から秋の間は、トナカイに家財道具を積んでトナカイの好むツンドラを求めて集団で移動しながら、漁猟生活をしていました。

冬場はトナカイを森林に放し飼いにし、自らは冬用の住居(細い木の幹の柱を何本も組んで、外部を毛皮で覆った円錐形の天幕式住居)を作って雪解けまで生活していたようです。樺太アイヌと同様に魚獣の肉や木の実・草の根を食したようですが飼育するトナカイは食せず、移動の手段や皮を衣服や住居に使用したようです。

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北方の他民族と違いトナカイと生活を共にしていたのが、ウィルタの由来だと思われます。

宗教はシャーマニズムで、神の木偶「セワ」を作るなどの独自の信仰があっとようです。

ウィルタ族と日本

明治の初めは千島・樺太交換条約によって樺太全域はロシアの領土でした。

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日露戦争後に日本が南樺太をロシアから割譲してもらい、北緯50度線を境に北がロシア領、南が日本領に分断されました。この時日本の領土内にウィルタ族が組み込まれたと考えられます。

日露間の取り決めにより、遊牧民族ウィルタと狩猟民族ニヴフは自由に移動しながら生活して来た生活形態を考慮して、従来通り南北樺太を自由に移動して良いとされました。

しかし日本政府は太平洋戦争前に、この取り決めを利用してウィルタ・ニヴフに当時の仮想敵国であったソ連内の様子を探らせようと考えました。

トナカイとともにロシア極東各地に移住し、他民族の居住地に一定期間生活するウィルタは、地形、気象に対する勘と他民族族との会話能力に優れていたからです。
ウィルタ族の男子は陸軍特務機関によるスパイ訓練が行われた後、北樺太に送りこまれました。

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このため、第二次大戦が終わった後、ソ連軍に捕獲され、スパイ罪によりシベリヤに抑留されました。

ウィルタ族の一部はソ連から追放されて、本来の生活圏だった樺太に住むことを許されず、北海道の網走郊外に住むことになりました。


ウィルタ族 ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ氏


戦後のウィルタ族の話をするうえでダーヒンニェニ・ゲンダーヌ氏は外せません。

ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ氏(名前の意味は「北の川のほとりに住む者」)はシベリヤに10年近く抑留後、ソ連に追放され、1955年(昭和30年)に網走市に来ました。

ゲンダーヌ氏陸軍特務機関から「召集令状」を受け、北樺太におけるスパイ活動(対ソ情報収集、謀略戦)を行ったため、ソ連軍に捕獲され、スパイ罪によりシベリヤに抑留、特務機関配下60人のうち59人が強制労働にて死亡。ゲンダーヌ氏一人だけが生き残りました。その後ソ連追放となったことから、ゲンダーヌ氏は軍人恩給支給を日本政府に申請するが、国会で議論されたのちに却下されました。

理由はウィルタは正式な日本国籍を有していない→日本国籍を有していない者に対する召集令状は無効→軍人恩給は無効という理由です。

ゲンダーヌ氏は、日本政府に訴える一方、「ウィルタ協会」設立、「ウィルタ文化振興のための資料館」設立の運動を始めました。
 ウィルタ協会は1976年に設立され、彼の呼びかけにより780万円の募金が集まり、1978年、網走市が提供した土地に「ジャッカ・ドフニ」(ウイルタ語で[大切なものを収める物])として資料館が建設されました。

同族の中では、日本人としてウィルタ族であることを隠して平穏に暮らしたい人もいたそうで、ゲンダーヌ氏の活動に反対の方もいたそうです。

1982年5月には網走市天都山に合同慰霊碑「キリシエ」が建立。

1984年にゲンダーヌ氏急逝。その後、建物老朽化などを理由にウィルタ協会はジャッカ・ドフニの閉館を決定し、2010年に32年の歴史を閉じました。閉館後、収蔵資料は北海道立北方民族博物館に移管されています。(クリックすると新聞記事に飛びます)


ダーヒンニェニ・ゲンダーヌの義妹であった北川アイ子氏が2007年に死去して以降、日本にウィルタを名乗る人はいないと言われています。

2002年のロシアの国勢調査によると346人がオホーツク海沿岸の樺太北部および南部のポロナイスクに住んでいたことが分かっています。

最後に朝日新聞からの引用です。(朝日新聞 2010年11月10日 ウィルタ資料館 32年の歴史に幕)

作家の司馬遼太郎も「街道をゆく(オホーツク街道)」の取材で91年秋に訪れた。「私どもの意識の底に、山河に神々を感じる感情が、埋れ火のようにしてのこっている。要するにウイルタもアイヌも私どもも、おなじ仲間なのである」と書いている。 

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感想

あらためて諸外国でみる、民族問題は日本人にとって決して他人事ではないと感じました。民族・宗教・人種の差別が多くの紛争を生んできましたが、私たちの日本にもこのような問題はあるのだと。

奈良時代南九州の隼人など日本各地の古来の諸民族も歴史の中で、大和民族に飲み込まれ数奇の運命をたどったと考えると感慨深いです。

私たちの無知の中で多くの問題・苦しみは眠っているのだと思いました。

こうした過去の問題をどのように捉え、私たちは未来を生きていくのか考えなくてはならないのかもしれません。過去に縛られすぎてはいけないとは思いますが....


最後まで読んでくださった方ありがとうございました。

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