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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。

【トラペジウム感想#3】不可解の偶像・東ゆう【ネタバレあり】

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原作小説未読勢も読まない方がいいと思います。


―――はじめに―――

筆者はトラペジウムを三回鑑賞し、原作小説を読んだだけのにわかです。
作品の内容については記憶違い等多数あると思われます。悪しからず。
観よう、トラペジウム。
読もう、トラペジウム。


公式サイト
映画『トラペジウム』公式サイト (trapezium-movie.com)

原作小説(紙)
「トラペジウム」高山一実 [文芸書] - KADOKAWA

原作小説(Kindle)
Amazon.co.jp: トラペジウム (角川文庫) eBook : 高山 一実: Kindleストア



参考資料

感想#1
【トラペジウム感想】夢の擬人化・東ゆう【ネタバレあり】|とつげきチョッキ (note.com)

感想#2
【トラペジウム感想#2】東ゆうを理解したい【ネタバレあり】|とつげきチョッキ (note.com)


2024/6/1 一部訂正。
2024/6/21 一部訂正。


―――始まります―――



不可解の偶像・東ゆう


原作小説を読んだ。

その上で三回目のトラペジウム鑑賞してきた。

で、嫌な予感がしてきた。


東ゆうは、そもそも「理解」しうるものなのか?


映画トラペジウムは三部構成だと思っていて、
・東西南北招集~翁流城でテレビ出演
・東西南北の企画始動~アイドルデビュー、解散まで
・解散後~十年後、エピローグ
時計を持ち込んだわけではないので確約できないが、映画は各部に均等に尺を割いているように思われる。

小説の構成は、全九章+エピローグ。古賀と出会い、本格的なテレビ出演の話が動き始めるのは八章から。アイドルデビュー以降は凄まじい駆け足である。実際にアイドルとして活動するのは一章に満たない(10P!)。大きな流れに身を任せ(蘭子談)、すべてが用意された大人の世界(東談)に翻弄され、主体性を保つ余裕を持たない彼女らの内面を反映するかのように、その描写に割かれる紙面は次第に少なくなっていく。

(なぜこうなったか。メタな話はあまりしたくないが、これは「初小説」を「連載」したせいではないか。単純にペース配分を失敗したのではないか。序盤の描写に気合を入れ過ぎて、終盤のエピソードを盛り込む空間的な余裕がなくなったのではないか。時間と紙面さえ許せば、もう一トラペジウムくらいの文章を継ぎ足すことだってできたのではないか。)

とはいえ、映画が原作改変で暴走したとか、そんなつもりは全くない。むしろ、映画は原作の要素を丁寧に拾い上げている。東西南北の交わす会話、真司との作戦会議、重要な会話劇の多くは、映画でも完全再現されている。特に八章以降の再現度は極めて高い。東の心を語る上で必要なピースは映画にも確かに存在している。

だが、やはり不足はある。映画の東ゆうは、原作前半の、丁寧に掘り下げられた心理描写を、東の過去を、取り込まない。東の周囲にいた、東の心理、行動の背景に示唆を与えてくれる幾人かの人物は、かなりどうでもいいモブへと降格されている(馬場さん、伊丹老人、etc.)。
原作の東の計画は、東の意図した通りには進まない。そこには無数の利害、思惑があり、東が事前に立てた不完全な計画が、東西南北のメンバーを一方的に巻き込み、無理やり引きずっていくような強引さは(映画ほどは)見られない。その強引さ、幼稚さゆえにちゃんと周囲の反発を招き、相応に悩む様子もある。まだ子供である東の立場は弱い。周囲には常に大人の事情が存在し、東の計画は現実の中で相対化、矮小化される。

だが、その辺の複雑な群像劇を映画の尺にまとめるのは不可能だ。もがくだけでは、物語にならない。

そこで、序盤七章をコンパクトにまとめるという脚本の都合で、映画版・東という圧倒的なチートキャラを用意する必要があったのではないか?馬場さん、伊丹老人といった強キャラをモブに降格し、あらゆる「意図」を東に一点集中する必要があったのではないか。その結果生み出されたのが、映画におけるサイコ東なのではないか?

となると、映画の東の人格は話を円滑に進めるための装置であって、「理解できる」ことを意図して組み立てられてはいないことになる。


では私は、映画版・東ゆうを「理解」できるのか?


東ゆうは、解のない方程式なのではないか。最初から解けないようにデザインされているのではないか。巧妙に溶着された知恵の輪なのではないか。

しかし、いやだからこそ、私はその魅力に囚われてしまったのではないか。五次方程式の解の公式の導出が、数世紀に渡って多くの数学者を魅了してやまなかったように。




原作版・東

原作を読んでみると、映画の感想は、小説既読勢と未読勢で二分されそうな予感がある。小説を経て、東の内面について事情を分かった状態で観ると、なるほど確かに違和感は減る。表面的にサイコでも、行動には理由があり、不都合な事情から目を背けたり、相応の良心の呵責を覚えていたりする。
だが、腹落ちしたところで、表面的にはカス行動であることに変わりはない。映画版・東のカス行動は絵面的にインパクトがあり、原作に比べて誇張されている箇所、新たに追加された箇所もあるが、原作版の東も大概やらかしている。
原作版・東は、自分の「アイドルになる」夢以外の要素を徹底的に、かつ無自覚に軽んじている。くるみを翁流城に呼びつけた時、くるみはテスト週間だった。だが、東はテスト週間「だから」呼べる、と、まるで学校が早く終わって暇してるかのような扱いをしている。
いや、やることはある。
偏差値66の高専は全国でもめちゃくちゃな上位校である(ググりました)。テスト週間はちゃんと勉強するだろう。映画だと、くるみは歌詞を考えてこなかった理由にテスト勉強を挙げていた。くるみは絶対に暇じゃなかった。
翁流城にテレビの取材が入った日にくるみがドタキャンした件も、東は「連絡つかないからみんな探すって言いだして、危うくテレビに映れないところだった」とくるみの安否ではなくテレビに出演できるかを気にしている。母は「…そっちか」と呟くが、東は意図を汲み取れない。
東は本当に何もわかっていない(蘭子談)。ただそれだけである。それだけがカス行動を説明する。免責はしない。
こういった小粒のジャブがずっと続く。インパクトはないが、リアリティはある。いるだろうな、こういう人。


仮説の撤回 嘘の儀式

前回までの感想で、あることないこと書きすぎたと思うので撤回していく。

東の癖(首筋に手を当てて深呼吸)を「上手に嘘をつくための儀式」としたが、見返したら記憶違いがあり、根拠薄弱のため撤回したい。

東の癖が見られるシーンは以下の通り。

・西テクノ高専、プール横にて。真司の口利きで(今なら話くらいなら聞いてくれるかも)くるみと会話できることになった直後。せわしなく首筋に指をあて、真司のあとをついていく。
・真司との作戦会議にて、東がはじめて夢を明かす直前。「城州の東西南北から女の子を一人ずつ集めて、アイドルグループを作りたいの。」
・東西南北の企画で初めてテレビに映る直前。雷門にて。
・アイドルデビューの初ライブ、スタジオ舞台袖にて。
・東西南北解散後、美嘉に会いに行く直前。ババハウス前にて。
・CDがリリースされた後、高台の練習場で、三人を前にして。このとき初めて所作が中断する。

これで全部。前回記憶違いだったのは、蘭子に会う前、トイレで笑顔を作る前、にも同じシーンがあると勘違いしていた。(訂正!映画冒頭、テネリタスに向かう電車の中でも癖の描写あり!)(追加。OPでバスから降りた直後も癖の描写あり)

単純に緊張したときの仕草なのだろうか。原作でこの仕草が登場するのは一度だけ。計画の始まり、テネリタスに向かう電車中で左手を頸動脈に添える描写がある。緊張で激しく脈打っている。

改めて癖のシーンを振り返ってみる。

・くるみ→地元の有名人。準アイドル。東は、くるみに限っては最初から名指しで東西南北に取り込もうとしていた。絶対に失敗できない。そりゃ緊張する。
・真司→東が夢を明かしたのは唯一真司にだけ。そりゃ緊張する。
・テレビ出演直前、デビューライブ直前→そりゃ緊張する。
・美嘉→写真の件で言うこと言ってあるし、事務所で東に怯えて泣き崩れたのが最後に見た姿。そんな人間にこちらから会いに行くとなればそりゃ緊張する。
・四人再会→東のエゴで人生をめちゃくちゃにした人たちに会うとなればそりゃ緊張する。が、緊張は不要だった(所作の中断)。三人からの友情は変わることがなかった。

うん、そりゃ緊張する。


仮説の撤回 業界どうたらの話

原作だと業界批判という感じでは全くなかった。アイドル辞めた後の再起の場面とかも、一貫して東個人の内面にフォーカスしている。アイドル(不変)対東(可変)という構図が保たれている。
業界云々は私が勝手にそう言ってるだけでした。くるみの言葉「美嘉ちゃんのこと知りもしないで、勝手なことばかり言ってる」そのものである。


利用し、利用される関係

東は夢の為に東西南北のメンバーを利用し、善意のボランティア活動を踏み台にする。この序盤の徹底的な打算ムーブが、映画版・東がサイコパスと言われる所以ではないかと思う。原作でも映画と同様の行動はしているが、東の「あくどさ」は鳴りを潜めている。
というのも、単純に尺が長い関係で詳細な心理描写があるためというのもあるが、欲望のために他者を利用し、同時に利用される関係は多くの登場人物の間に普遍的にみられるからだ。作中唯一の怪物である映画版・東とは異なり、原作版・東の狼藉は他者によって相対化される。
だが、東以外の欲望が視聴者の反感を買うことは(恐らく)ない。なぜだろう。整理してみる。

くるみ 東と出会った当初、ロボコンで優勝したいという強い夢を持っている。だが、初の水上競技にもかかわらず練習場所が汚いプールしかなく、環境の不備に悩んでいる。東の提案で蘭子の家のプールを使わせてもらえることになり、結果的に全国準優勝という成果を残す。原作では詳細な説明があるが、この成果の裏には「整備された水場」という練習環境を提供する助力者の存在が非常に大きなウェイトを占める。今回大会は初の水上競技で、練習環境を得られなかった強豪校たちは次々脱落していった。蘭子のプールがなかったら、くるみがここまでの成果を上げることは絶対にできなかっただろう。結果だけ見れば、くるみは自らの欲望(ロボコン優勝)のために東と蘭子を利用している。
くるみが容認される根拠は主に三点ある。
まず、プールを利用するという話は東から持ち掛けたこと。東が自らの夢(アイドルグループ結成)のためにくるみの夢(ロボコン優勝)を利用したという構図がある。
次に、くるみは自らの夢を周囲に開示していること。ロボコンで優勝したい、そのために練習環境が必要、と。
そして、くるみと二人を繋ぐものが、単なる利害関係ではなく友情だったこと(少なくともくるみにとっては)。だからロボコンが終了した後も、くるみは二人と友人としての関係を継続している。

美嘉  原作だと結構キャラが違い、東並みに暗躍する。読もう、トラペジウム。

蘭子  アイドル活動を通してやりたいことが見つかる。世界中を飛び回って支援活動をするという夢が終盤に語られる。東に言う。「わたくしを見つけてくれて、ありがとう」結果としてではあるが、東が蘭子をアイドルにしたことによって蘭子はやりたいことを見つけた。東の夢を利用して、自分の夢をみつけた、とこじつけることはできなくもないが、所詮結果論。蘭子に反感を覚える余地はない。

真司  くるみの説得を口実に東のLINEを入手する。構図としては弱みに付け込んでいるので東と同レベルだが、くるみを説得したとき以外、個人的なLINEは多分していない(原作だと東が計画の進捗を逐一電話報告している)。翁流城のボランティアも、「人に感謝されて」「カメラの技術も磨ける」「僕にとってはいい環境」と言ってずっと続けている。ここにあるのは一方的な搾取やフリーライドではなく、相利共生の関係である。

古賀さん 同期が次々ディレクターに出世して焦っている。先輩にも才能ないと言われる。古賀さんもまた、東西南北を利用して自分の夢を掴もうとしている。映画だとさっぱりした善人だが、原作だと人物描写の端々にテレビ業界人の嫌なところが見え隠れする。


東は免責事項にどれ一つとして当てはまらない。
東は自分の夢を隠している。東は真司以外の誰にも夢を明かしていない。
東西南北と友人として付き合っていない。表面的な付き合いは友達のそれだが、内心は定かでない。原作だと、東が東西南北のメンバーを明確に「友達」と表現するのは、解散後に美嘉に会いに行くシーンが初である。
翁流城はOA後一度も訪れていない。原作では伊丹老人からの電話を黙殺し続け、良心の呵責に耐えかねてついに電話に出た、という経緯らしい。映画だと、OAから電話までの時間がどれだけ飛んだか不明(東はいずれのシーンも緑のジャージ姿)。仮に時間が連続しているなら、取材以降は用が済んだとばかりにばったり行かなくなったということである。テレビ番組の収録からOAまでのラグは、番組の性質にもよるだろうが、バラエティ番組の一コーナーだし1~2週間くらい?伊丹老人の第一声「やっと出てくれた」と言わしめるにはそれくらいの時間が必要だろう。
東母の指摘で明らかになった通り、東西南北解散後、東はメンバーと連絡を取っていない。利用価値がなくなったから、とかは本当にやめてくれ。単に気まずいだけであってくれ。頼むから。
ただ、その直後「私ってさ、嫌な奴、だよね」が来る。どこが嫌な奴なんだ?まさか、利用価値の有無でしか付き合う人間を選べないところか?それが嫌な特性だという自覚があるのか?
そんなことはない。東は既に利害を超えた関係を築けている。真司との最後の作戦会議は、「ただ会ってるだけ」だった。利害を超えた同盟関係だった。東はそういうことができる。見えてないだけだ。気付け、三人からお前に向けられる視線の正体に。



アイドルと感謝

アイドルの世界の特徴として作中で反復されているものは二点あると思っていて、
・感情の一方通行
・感謝なし

感情の一方通行については前回まで散々書き散らしてきたので割愛。今回は感謝なしについて。
最後の作戦会議にて。東が翁流城のボランティアを踏み台にしてテレビに出るようになった話から。
東  真司君はやめないの?
真司 元はといえば自分で言い出したことだし。人に喜ばれて、カメラの腕も磨ける。僕にとってはいい環境だよ。
東  いい環境、か。羨ましい。

東が羨ましがっているのは何か?真司の言葉を分解する。
①    元はといえば自分で言い出したことだし。
②    人に喜ばれて、
③    カメラの腕も磨ける。
(総括して)僕にとってはいい環境だよ。

羨望の条件は欠落だ。東になくて、真司にあるものは何だろう。
①     東もまた、自ら望んでアイドルになっている。
②     最も濃厚。現役アイドル時代、東は他人に感謝されることがない(原作、映画ともに描写ゼロ)。
③     アイドルは技術職ではないので単純な比較はできないが、東もまたアイドルの現場に身を置き、日々歌と踊りの研鑽に努めているはずだ。(原作では、歌とダンスのレッスンを自主的にやっているという発言がある。)

現役アイドル時代、東は誰からも感謝されない。

初めて感謝されるのは、映画だと東西南北解散後、番組コンピレーションCDに東西南北の楽曲を収録する件で古賀さんからの電話。そこでの「君らといて色々楽しいことができたわ~!ありがとな~!」である。東の口元のアップで、こみ上げるものがあることが察せられる。アイドルになるために誰よりも努力して、アイドルになってからも必死に食らいついて、でも東は、誰からも感謝されなかった。作中のアイドルは一貫して与える存在であって、受け取る存在ではない(感情のベクトルは常に一方通行)。

もう少し②について。デビューライブ直後、真司との最後の作戦会議にて。
「だってもう、作戦会議は必要ないでしょ。ただ会ってるだけ」
「うん。だから、きょうはお礼だけ言いにきた。ありがと」
この会話を最後に、東は感謝を伝え合う世界(=真司)から離れる。アイドルの職責を全うするために、東はもう真司に会えなくなる。




断片的な感想

映画だと、東西南北の活動期間と、トラペジウム(=オリオン星雲の四重星)が夜空にかかる期間は重なる。原作だとずれる。

最初にトラペジウムが夜空にかかるのは、デビューライブ直前、四人が電車のボックス席で眠っているシーン。


原作版・東はフリートークが苦手。言うべきことを咄嗟に思いつけない。その前提に立つと、映画本編も色々と解釈が変わる。
蘭子との会話で、お蝶婦人というワードに食いついた際、東はガッツポーズしている(その後「私も好きです!以前、母の実家で読んで、それで…」と畳みかける)。くるみとも、タミヤでロボットを買ったという話に反応した際、東はしたり顔である。いずれのケースも、東は何らかの共通の話題を発見できたことに反応している。あれは「こいつ…利用できる!(サイコパス)」ではなく、単純に会話が続く見通しが立ったことへの喜びではないか?
美嘉の「ごめんね、あたしと同じ班になって」に対して、何か言わなければならない、という意識はある。うまく言えないだけで。
まあ、結果として自分の夢の為に他人を利用していることに変わりはなく、彼女らから向けられる友情に東は無関心なので、そこまで擁護にはなっていないかもしれない。
先述の通り、東が三人を「友達」と表現するのは、原作だと解散後はじめて美嘉に会いに行くとき。それ以前は一回も出てこない(多分)。これは原作を経由したことで東が遠ざかった稀有な事例。


美嘉が本屋で読んでる本、「愛に生きない若者たち」!原作再現!細かい!


どっちが好感度高いでしょう?のシーン。
男といる写真が見つかるのと(左手)、ボランティア活動に身を捧げている写真が見つかるの(右手)、どっちが好感度高いでしょう?
Left=疚しさの象徴、right=正しさの象徴、の対比。東は英語ペラペラ設定なので、英語圏の夢分析を適用可能であってほしい。


東とさっちゃんの関係値が不明。
美嘉は去年同じグループで登山した(さっちゃんママとの会話より)。蘭子とくるみは今年さっちゃんと同じグループだった。では東は?原作だとさっちゃんとの直接の交流はほぼない。さっちゃんママに美嘉から「友達です」と紹介されたきり。高専祭でのさっちゃんの東への懐き方が怖い。そもそも懐いてるのかどうかすらわからない。あと、東からさっちゃんへの視線も怖い。さっちゃんから向けられる視線にだけ興味があって、さっちゃん本体のことはなんとも思ってなさそう。
原作版・東と映画版・東のさっちゃんへの態度はそれぞれにカスい点があり、甲乙つけがたい。原作版では、さっちゃんを優先してライブを蹴った三人と東は別行動になり、ひとりライブを聴きながら「そもそも私には、さっちゃんと一緒にいたいという思いがないのだから」と明言する。その後、写真撮影で着替える際、さっちゃんが一人残されてしまうことを気遣い、その場に留まる。でかいマイナスと小さいプラスがある。映画版はさっちゃんと関係値がほぼない状態にも関わらず、何故か向けられる特大の好意をひたすら吸い上げているように見える。不気味。これは映画の解像度を上げれば改善する問題ではない(原作の東も大概だから)。このあたりのシーンは未だによくわからない。


事務所に届いたファンレター。東の山だけ小さい。一番上の「匿名希望ファン」は多分さっちゃん(はがきだとゆうちゃん呼びしてるけど口頭だと東ちゃん呼びなので違うかも)。東、はがきを手に取って溜息(恐らくファンレターの数が少ないことに対して)。中身は見ていない。関心の量には興味があるが、質には興味がないのか?感情の一方通行性。


原作の真司は女子高生の制服がちゃんと好きである。映画だとそういう描写はほぼない。
原作の真司は、肌こそきれいだが東と同じくらいの背丈、芋ファッションの典型的オタク男子(「隠しきれない童貞感」)。直接見るのは刺激が強すぎるから、という理由で、制服姿の東と一度も目が合わない。
わざわざ制服がない高専に進学したのも、理由がありそう。真司の興味の対象は、写真と星と制服。高専、という場とは噛み合わない(一応カメラはメカではあるが、真司はロボット研究会の幽霊部員で、高専という環境を利用してカメラの腕を磨いている気配はない)。となると、ただ「制服がないから」という理由で高専を選択した可能性は捨てきれない。原作の東がテネリタスで制服のダサさを嗤われた際に独白しているが、制服のかわいさだけで進学先を決める女子中学生は約半数に上る。真司にも同種の思考回路が備わっていることの示唆か?まあ本筋には関係ないし、どっちでもいいか…。


デビューライブ直後の楽屋。蘭子とくるみはソファで寝ている。美嘉は誰かと電話している。すごい笑顔。多分彼氏。LINEアイコンは全編通してずっと男女の顔のイラスト。写真流出騒動の後も絶対別れてない。そのまま同じ男と結婚してる。


流出した写真への違和感。
公式が動画を上げているので静止してじっくり見ていたのだが違和感が凄かった。
アカウント名^_^。IDは@niconico_3rd_Anniversary。文面は「3周年記念!」。アイコンは投稿した写真の彼氏の顔部分を切り取ったもの。投稿は一週間前。
投稿した写真から自分の顔を切り抜いてアイコンにするという発想、あるのか?雑すぎんか?捨て垢、なりすまし垢だったら分かる。本人でない以上、他に素材を用意できないのだから。
三周年なのは恐らく交際期間だろうが(原作では彼氏を車で送迎している描写があることから、若くても18歳、高校三年生相当。まあ中三と中一で付き合ったならそこまでヤバくないか…)、それをわざわざIDに設定するのは奇妙だ。この写真を投稿するために新しくアカウントを作ったのか?なぜそんなことをする。というか、まず写真を投稿するのをやめろ。アイドルがどういう商売かわかっているのか?彼女のやってることに理解も興味もないのか?百歩譲って中身が彼氏じゃないとしても、身内なんだったら消してやれよ(消すと増える法則…)。
悪意の第三者の可能性も疑ってしまう。炎上を放置している点も怪しい。ただ、それにしてはIDが凝りすぎている。三周年、ニコキッズの先輩後輩。当事者しか知り得ない情報が多すぎる。
ここでふと思い出す。美嘉がずっといじめられていたこと。田舎なので悪いうわさがすぐに広まってしまうこと。美嘉のすぐ近く、それも交際三周年とかのレベルの個人的な情報にアクセスできるほど近くに、そういう悪意の第三者がいて、彼氏を装ってあの投稿をした可能性はないか?にこきっずの闇…。
原作にはちゃんと答えがあって、彼氏のアカウントとのこと。原作がそういうならそうなのか…。私がTwitter(X)に十年以上入り浸っているせいで感覚が麻痺しているだけで、一般的な高校三年生だったら普通の感覚なのかも…。


くるみ暴走後、静まり返った廊下で東だけが冷静で、やれやれと溜息をつき淡々と説得に向かうシーン。美嘉が言う通り、このときの東は「変」で「怖い」。原作を経由したことで、東の内面についてある程度整理できたので書く。

まずは東の内面について。真司の前で夢を明かしたシーンより。東はくるみの人気に便乗したいと言う。それを受けての真司のもっともな疑問「でも、くるみちゃんって、アイドルやりたいのかな」に東は答えない。自身のアイドル観を語る。
可愛い女の子を見るたびに思う。アイドルになればいいのにって。蘭子もくるみもかわいいのに、本人がアイドルに手を伸ばさない限りはなることができない。それって、すごくもったいないと思う、私はそういう子たちがアイドルになる手助けをしたい。そのきっかけを作りたい。(原作だとさらに進んで、本当は全部の学校を回って可愛い女の子を見つけたいくらいだが、流石に時間の都合もあるからまずは四校から選び抜く、と東西南北に落ち着いた理由を語る。)
原作では、この「アイドルになればいいのに」という思いはさらに先鋭化する。事務所のプロデューサー・遠藤との会話で、「女の子は全員アイドルになりたいに決まっている」という信念は強固に示されている。アイドルグループ結成に熱意を示す東を、遠藤は冷静に観察する。蘭子、くるみ、美嘉本人はアイドルをやりたがっているのか確認する遠藤に対し、東は「アイドルになりたくない女の子なんて要るんですか?」と自信をにじませる。彼は、アイドル業界は「綺麗なことばかりじゃない」し、「アイドルというだけで嫌悪感を示す人もいる」と東を諭す(後者の具体例(?)がくるみである)。が、遠藤の人工的な白い歯越しに語られる業界の現実に、東は耳を貸さない。嘘くさい、と感じる。だが、アイドル業界の輝きは、まさにその人工的な白い歯が持つのと同列の虚構性が生み出しているのだ。東は積年の憧れによって、アイドル業界の語る煌びやかな理想を内面化しているため、最後まで彼の言葉を理解できない(前回も書いたが、私の個人的な解釈・東=アイドルサイボーグ説はここでも一応回収はされている)。

くるみは天性のアイドルである。東がメンバーのSNSをチェックするシーンで、あからさまなメンバー間格差が示され、中でもくるみの人気は抜きんでている(東は最下位)。原作では、東がくるみの無自覚の才能を評価する描写が随所に盛り込まれている。が、そうした評価にかかわらず、くるみは別にアイドルになりたくない。それどころか、アイドルが不可避に晒される他者からの一方的な視線を嫌悪している(蘭子との会話から明らか。「くるみにはわかんない。誰の評価もいらない」)

そして、この思いが東には理解できない。東のアイドル観を反芻する。かわいい女の子(=くるみ)はアイドルになるべきだ。きっかけがないなら私が作る。くるみは緊張しているだけ。きっと慣れていけば楽しくなっていく。そもそも、アイドルになりたくない女の子なんているんですか?
だから、東はくるみを説得しに行ける。東の根底には善意がある(女の子は潜在的に、全員アイドルになりたい。きっかけがないだけ。自分は彼女らがアイドルになる手助けがしたい)。

これ、擁護になってないな。単純に「夢に憑りつかれている」東の狂気を補強してるだけだ。

(2024/6/21追記。この溜息には東によるくるみの悩みの相対化、矮小化が含まれていると思う。くるみはアイドルとして人気も才能もあり、(表面上は)すべてがうまくいっている。方や東は、人気はグループ最下位、メンバーはスキャンダルを起こすわ仕事に非協力的だわ、挙句口パクライブで一番頑張っているはずの東だけが不当に評判を落とされ、と散々である。東もまた、そんな現状に苦悩している。だが態度には出さず、淡々と仕事をこなしている。そんな東の悩みに比べて、くるみの悩みなんて大したことないだろ、何を大袈裟な。そんな呆れが滲んでいるように思える。)


Canvasノートの最後の言葉。「出口。私は」について。これはその前後の東の行動を暗示しているように思われる。

東西南北解散後、久しぶりの教室。アツコに絡まれた際、東はつい本心を吐露する。「裏では私の悪口言ってるの知ってるよ」

ここで「非常口」の緑色の表示が挿入される。次のシーンでは、東が下駄箱でひとりうずくまっている。「なんで、あんなことを。」

「出口」を連想させる場面はここだけと思う(出口、という単語は原作には登場しない)。では、出口とは何か?東は何に囚われ、何から逃れ、どこへ向かおうとしているのか?(追記:もう一つ出口あった!エピローグで未来の東がインタビューを受けているシーン。床付近に非常口の看板がある。まあノートの「出口」とは無関係と思う。時間的な距離がありすぎる)

東が自らに課した四か条がある。映画の紹介ページから引用。
・彼氏を作らない。
・SNSはやらない。
・学校では目立たない。
・東西南北の美少女を仲間にする。
東の行為は、このうち「学校では目立たない」に抵触する。東は、意に反した(?)形とはいえ、自らに課した戒めを破る。こうして空いた風穴が、突破口が、出口である。そこに達成感はない。「なんで、あんなことを。」

「出口」を抜けた東は、巨大な隙間を埋めるように、「私は」何者か探しに行く。伊丹老人らに会いに行き、ことあるごとに「これから将来…」と未来のことを口にするようになる。古賀の感謝を知る。美嘉に過去の自分を教わりに行く。それ以前の東の人格には「現在」という断面と「アイドルになる」という夢だけがあり、過去と未来の描写は徹底的に排除されている(原作には過去の掘り下げが結構ある)。





続く…

アニメの世界に偶然はない。すべてのシーンは人間が描いている。意図がある。意味がある。


ミステリー小説家は、時刻表トリックを使う際、ひとつ間違いを入れる。すると鉄オタが間違いを指摘し、買いまくるので小説が売れる、と言う話を聞いたことがある。編集の妙技である。


だから、私が現にこうなっていることも全て計算済みなのかもしれない。


でも、書く手が止まらないんだ。

先週だけで同じ映画を三回観てる。流石に自分がおかしくなってることくらいわかる。


誰か助けてくれ。俺を止めてくれ。


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