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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。

【トラペジウム感想#2】東ゆうを理解したい【ネタバレあり】

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おい、東ゆう。


どうしてくれんだよ。


今日、トラペジウムを観に行った。二回目だ。同じ映画を、同じ場所で、二回だ。俺は一体どうしちまったんだ?普段の俺からして考えられない。俺は都内のアラサーだ。ソウルシリーズを嗜み、図書館で死んだ人間の本に囲まれて暮らしてきた。それが、どうだ?平日、仕事終わりに映画館に通い詰めている。そしてずっと、お前のことを書き続けている。多分今週中に三回目を観に行くだろう。TOHOシネマズのマイレージ会員にもなった。入会費ワンコインの代わりに、映画六回につき一回が無料になるんだってよ。お得だよな。無料特典にありつくまでは、確実に観に行き続けるだろうよ。トラペジウムだけを、ひたすらに。東、お前に会うために。


本当にどうしてくれるんだ。俺はこんな人間じゃなかった。


何のためか分かるか?お前を理解するためだ。お前の心が、俺には本当にわからない。どうして仲間を、善意を、そんな無下にできる?なぜその状況でそんな顔が、そんな発言ができる?なぜ最も身近にいるはずの人間の違和感が、苦しみが、恐怖が、理解できない?手遅れになるまで放っておける?いないものとして扱える?その上でなぜ、人間みたいに泣くことができる?


東。お前には、何が見えている?


お前を単なる異常者と切り捨てるのは容易い。でも、俺はお前を理解できる気がしてならない。俺の中には確実にお前と同じものがある。俺の中に、お前を理解するための機能が眠っている気がしてならないんだ。俺はそれを取り出したい。


これを書き終わったら原作小説も読むよ。すぐに読んでもいいけど、今の思考の断面を保存しておきたい。映像だからな、どうしても内面の描写はおろそかになりがちだ。活字を取り込めば、お前のことが少しはわかるのかもな。



―――――はじめに―――――

筆者はトラペジウムを映画館で二回視聴しただけのにわかです。(2024/05/23時点)
記憶力の関係で、台詞の引用等は正確でない箇所があります。悪しからず。

読者はトラペジウム既視聴勢を想定しています。作中の人名、固有名詞等は特に説明なく使います。
観よう、トラペジウム。

公式サイト 正確な引用はすべてこちらから。
映画『トラペジウム』公式サイト (trapezium-movie.com)


2024/6/1 一部訂正。


―――――始まります―――――


まずは視座を確認

前回、流石にあることないこと書きすぎた(今回もそれなりに書いてるけど)。反省として、この独断と偏見に満ちた文章を書いている人間の属性について晒しておく。

現実世界のアイドルについてはあまり詳しくない。片手に収まる数のビッグネームと、全国ニュースになるような(主にネガティブな)出来事をいくつか押さえている。あとはRTでTLに流れてくる情報程度。相互フォロワーにKPOPファンが二人、地下アイドルファンが三人ほどいる。二次元だと、シャニマス歴3年、シャニソン歴半年(サービス開始日から)。アイマスの有名楽曲をいくつか知っている。

トラペジウムは映画で触れたのが初で、二回観ている。

一回目:2024/05/20

二回目:2024/05/22

原作小説はまだ読んでいない(購入済)。この文章を投稿したら読む予定。



前回の復習

トラペジウムの感想を書くのはこれが二回目。一回目はこちら。
【トラペジウム感想】夢の擬人化・東ゆう【ネタバレあり】|とつげきチョッキ (note.com)

まとめると、作品の解釈は次の通り。

東ゆうは、現実世界のアイドル業界を擬人化した存在である。

東の非人間的な言動は、その特性上不可避に人間を商品として扱うアイドル業界の非人間性をそのまま反映したものだ。

作品の流れを整理しよう。東というフィクサーの元、あくまで友情の延長として、アイドルという職責に確たる信念もないまま舞台上と導かれた少女たちは、それぞれの理由で悩み、傷つき、絶望し、やがて限界を迎える。彼女らは東のもとを去る。すべてを失い空っぽになった東は、その隙間に人間的で年相応な情念と不安を取り込み、自己批判によって、人間へと回帰する。東は過ちを認め、自分の身勝手で夢に彼女らを巻き込んでしまったことを謝罪する。だが、東の懸念に反し、東に向けられた三人の女の子の友情は、一貫して陰ることがなかった。彼女らにとって、東は最後まで友達だった。アイドル活動は失敗し、二度とやるつもりもないが、彼女らはアイドルをやってよかったと思えている。そして東が、それでもアイドルを目指し続けることを、心から期待し、応援している。

これを私の解釈に従い翻訳すると、次のようになる。

ある日、普通の女の子のもとにアイドルのスカウトがやってくる。集められた少女たちは、ユニット予備軍としてトレーニングを積みながら友情を育む。だがそのシナリオは、誰かが描いたものである。姿の見えない何者かがどこかで糸を引いている。すべてが準備されている。彼女たちは訳も分からず、大きな流れに身を任せる。だが、業界の喧伝する夢と、現実との乖離に、彼女らは戸惑い、悩み、傷つく。やがて限界を迎え、彼女らは業界を去る。プロデュースすべきアイドルを失い、空っぽになったアイドル業界は、自身のやり方を顧みる。過ちを認め、体制を改め、自らの元を去った少女らに詫びる。だが、業界の懸念に反し、彼女らからアイドルという夢に向けられた思慕は、決して揺らぐことがなかった。アイドルの世界で、あらゆる感情は一方通行である。ファンからアイドル。アイドルから大人。返ってくることがないと知りながらボールを投げ続ける、ひたむきな情熱と狂気によって、アイドル業界は今日まで存続してきた。かつてその片翼を担った少女たちは、たとえ自身が散々辛酸を舐め、巨大な憧れを一切顧みることなく放逐されたとしても、アイドルへの憧れを捨てることがなかった。打算で満ちたこの世界は、打算を超えた尊いものに支えられている。だから世界も、その想いに報いる形をしていてほしい。

トラペジウムは、アイドル業界に横溢する非人間的なモラルへの痛烈な批判であると同時に、どんなに傷ついてもアイドルという営みを決して否定できない人間の普遍的な憧憬と情熱を肯定し、それらを包摂するアイドル業界の適正な人道路線への回帰を願った人間賛歌である。


二周目感想

二回目の視聴を経て、上記の主張は一部修正したいと思う。

結論は変わらない。アイドル業界の人道路線への回帰を願う人間賛歌。総評はそのままでいい。

今回は、東ゆうをあくまで人間として掘り下げてみたい。前回の記事は記憶違いや誇張が多く、東の非人間的な側面ばかりが肥大化してしまった。彼女を悲観的に捉え過ぎていた。今回は記憶が少し正確になり(まだ不足はある…あとで補足したい…)、言動の背後に人間的な「心」が見えてくるようになった。そのせいで逆に混乱し、余計東のことがわからなくなった気もするが、改めて東について考えたいと思う。


東ゆうとは何者か

修正点として、まず東は「個人」であるということ。東は、アイドル業界の具現化などという大層なものではなく、自身のエゴの為に東西南北をアイドルの世界で振り回す暴君であると同時に、アイドル業界という巨大な渦の中で無数の利害関係に翻弄される、矮小な一個人に過ぎない。

東が取り込んでいるのは、あくまでアイドルとしての理想的な行動原理に留まるということ。そして東のインストールした行動原理は可変で、きっかけ次第で交換可能なこと。東は行動原理の容器であること。東は変わることができるということ。

この東が取り込んだ行動原理には、嘘が含まれること。東は自分自身に嘘をついているということ。だから視聴者の目に届く露悪的な東は、東が困難な夢に挑みかかるために長年かけて築き上げてきた鎧の一番外側なのだ、ということ。


これらを踏まえて、現状の私の解釈は次の通り。

東ゆうは、現実世界のアイドル業界が喧伝し、期待するところの「アイドル」の行動原理を完璧に内面化したサイボーグである。


トラペジウムは、東ゆうの成功と破滅と再生を通して、アイドル業界の嘘と不条理を告発する。一方的に注がれ続ける巨大な感情のベクトルの歪さを描く。アイドルたるもの斯くあれ、と理想を喧伝し、個人の行動に厳しい制約を課しながら、その忠実な遂行に報いることはない酷薄な姿勢を、報われないと知りながらそれでも努力を続ける、ひたすらにアイドルに憧れ続ける個人の苦しみを、悔しさを、嘆きを、明らかにする。




各論

東の嘘

物語の最初から、東は心に嘘をついている。絶対アイドルになるという過酷で非現実的な目標に立ち向かうために、生身の東は意識を捻じ曲げ、心に重厚な鎧をまとう必要があった。一番大切にしたいものを守るために、何かを考えないことにする必要があった。何かを切り捨てる必要があった。そこで東から切り離されたのが「他者」だったのではないか?そして生じた余白に、アイドル世界の行動原理を取り込んだのではないか?その取り込んだ行動原理の中には、「嘘(=アイドル、偶像性)」が含まれていたのではないか?

(ダリもそんな人だったらしい。自らを天才と称し、奇天烈な言動で知られる人物だが、心を許したごく少数の親友の前では、物腰丁寧で落ち着いた常識人だったという。彼の破天荒なキャラクターは、社会の荒波を生き抜くための鎧だったのではないか。)


儀式

東の癖。左手を首に添えて深呼吸(東は左利き)。これは全編通して繰り返し見られる仕草である。蘭子とくるみをスカウトに行くとき。真司の前で初めて夢を語るとき。東西南北のコーナー初出演時。デビューライブ直前。学校のトイレ。美嘉に会いに行く前。(まだあるかも…)

思うに、これは東が仮面を被る儀式である。上手に嘘を吐くための下準備である(英語圏の夢分析で、left(right(=正しさ)の対義語)は疚しさの象徴として頻繁に登場する。まあ日本語圏の映画だし流石に違うか、、)。美嘉の思い出話にある通り、東は元々、言動と性格に問題がある。「用があるから話しかけているのに、文句を言われる意味が分からない。私は尊敬できない人の指図は受けない。」だったか。かわいくて勉強ができて、絶対に泣かない。それがかつての東。
東はどこかで学んだのだろう、そういう人間はアイドルになれないと。そういう人間に人はついてこないと。東が認めた通り、生意気なのは昔から、である。
蘭子とくるみに会いに行ったとき、東は嘘をついていた。東は、蘭子に接近した目的を、城州の東西南北に友達を作りたいからと言った。くるみには、ロボット好き女子という偽りの共通項を提示した。東の表情はくるくる変わる。彼女が気にしているのは、アイドルにふさわしい可愛い女の子と仲良くなれるかどうかだけ。嘘をついていることへの引け目は一切見受けられない。
逆に、東は自身の関心をその一点に絞り込む必要があったのではないか?繊細さは迷いだ。蘭子はアイドルに興味がないかもしれない。くるみは人前に出たくないかもしれない。自分のワガママのせいで、人生を大きく変えてしまうかもしれない。嘘をついて近づいたことがバレたら、嫌われるかもしれない。それがどうした。夢の実現という絶対的な原理に照らせば、そんなものはノイズだ。下らない情念だ。だから考えない。そうやって、夢に伴う途方もない責任を見ないことにしたのではないか?そのくらいの強さがなければ、叶わない夢だったのではないか?

テレビ出演直前。デビュー直前の舞台袖。舞台に出る直前に、仮面を被る。ここで、アイドル=嘘の等式が成り立つ。アイドルがその偶像性を守り、煌びやかな要素だけをファンに届け、職責を全うする様は、東が東西南北のメンバーの前で、あくまで友人として振舞おうとした様とオーバーラップして見える。逆に言うと、アイドル=嘘を行動原理として取り込んだ東には、友情の育み方がもうわからなくなっているのかもしれない。さらにこの構造は、アイドル世界の友情の実態を逆照射しているのかもしれない。

東西南北が解散した後、学校のトイレにて。東は儀式の後、鏡に向かって笑顔を作る。だが、笑顔はすぐに崩れてしまう。儀式は失敗したのだ。その後、教室でダル絡みしてきたいじめっ子に、ついに東は本心を吐露する。仮面の下に慎重に覆い隠してきた、生意気なガキが顔を出す。東は無人の下駄箱に座り込み、自らの行いを悔いる。

こう考えると、儀式の後、真司に明かした夢は一体何だったのか。真司の前での露悪的な言動は何だったのか。むしろ、あれらは東が夢のために自らに課した制約の確認、強化だったのではないか?恐らく自分に好意を寄せる、真司という他者の視線を利用し、夢のため自身を戒めるギプスを育てようとしたのではないか。
真司との二回目の作戦会議。ボランティア活動に便乗してアリバイ作りを画策する東の口調を、真司は咎める。最後の作戦会議、アイドルデビューした東は、真司の踏み台という言い方を咎める。この構図は対比になっている。当初、真司によって監視される側だった東は、夢を叶え、その立場から降りたのだ。

そして最後、高台の練習場所で、四人が再会したとき。このとき初めて首に手を当てる所作が中断する。東は初めて、仲間に対して仮面を脱いだのだろう。そして本心から自分の非を認め、謝罪した。
あそこには人間の東ゆうが立っている。



翻弄し、翻弄される個人 東

東ゆうの矮小な個人性について整理する。

テレビ出演に至るまでの東西南北において、東はフィクサーである。裏で手を回し、三人を様々なイベントに巻き込み、密かにアイドルとしての経験を積ませる。一見友情と見せかけて、その実腹の内では無数の計算を巡らせている。が、事態を完全には制御できない。振り返ってみれば、東の計画は失敗の連続である。過程まで含めて計画通りに事を運べたのは「城州の東西南北から女の子を一人ずつ見つける」ことだけである。

登山を通して四人の結束が強まったのは東にとって偶然の産物だった。くるみと蘭子は同じグループでひとりでに結束を強め、美嘉は東のためにくるみと蘭子を昼食に誘った。東の関知しないところで、ひとりでに三人の交流が発生している。

この次のイベントである高専の学祭でも、ライブ鑑賞という当初の予定はさっちゃんの介入により頓挫する。が、さっちゃんのおかげで、写真撮影ができる。この偶然は十年後にまで波及する。

黄龍城のボランティアも、当初の想定とは異なるルートで古賀さんのコンタクトがあり、東西南北はテレビ出演に漕ぎつける。

東西南北、さっちゃん、伊丹老人、古賀さん。利害関係者が増えるに従い、東は予想外の方向へと翻弄され、だが結果的にそれらは東の夢に向かって結実する。


要件:主体性の放棄

デビュー後の東ゆうは、アイドル業界そのものの具現化と呼ぶにはあまりに非力である。東がアイドルに向ける感情は、一切報いられることなく棄却され続ける。東が、東西南北のメンバーの抱える違和感に気付くことができなかったように。東に向けられる恐怖の視線に気付くことができなかったように。

東をとりまく世界は、次第に加速する。作戦は東の手を離れ、ひとりでに動きだす。

東西南北アイドルデビュー企画発足直後。東の独白より。

全てが準備されていた。これが大人の世界なんだ。

デビューライブ直後、真司との会話より。

「最後に東さんとデートできてよかったよ」
「はあ?デート?」
「だってもう、作戦は必要ないでしょ。ただ会ってるだけ」

作戦=鎧(嘘)=真司の視線。真司とはこれ以降会う機会がなくなる。もう東を見咎める視線はない。だが、東は鎧を脱ぐことができない。夢の為に見ないことにしたものを、思い出すことができない。


東は、アイドル業界という巨大な渦の中に飲み込まれていく。

だが、その中を能動的に泳ぎ回れると思ったら大間違いだ。

確かに、この世界には大きな力がある。東ほどの行動力を持ってさえ、この流れに抗うことはできない。だがそれは、同時に東の望むことでもある。流れに身を任せていれば、普通の女の子だったら絶対に経験できないことが、無数に与えられる。蘭子が繰り返し述べていることだが、「大きな流れに身を任せていれば、きっとうまくいく。」

ここで注意。流れに身を任せることは、アイドルたる前提条件だ。流れに身を任せれば、ではない。身を任せなければならないのだ。アイドルに主体性はいらない。アイドルに求められているのは、周囲への妄信的な信頼。全力で環境に寄りかかって、やるべきことをやり通すこと。そこに主体性は、将来の不安は、本当の自分は、求められていない。
くるみは、この選別に耐えられなかった。

一方通行の感情

ライブ出演の際、マイクが四本中三本ダミーで、東だけが歌わされるシーンがある。

東は理想を語る。歌を届ける、ダンスで魅せる、それがアイドルじゃないんですか?プロデューサーは答えず、小さく肩をすくめている。何らかの大人の事情があると思われる。

(事情とは?

・東以外の歌唱レベルが実用に耐えない。(多分そんなことない。方位自身のアカペラ歌唱は全員まともだった。蘭子が歌うのが苦手と言ったのも、場の緊張を和ませるための嘘だと思う。)

・単純に音響設備の都合。屋外ライブ、手持ちマイク、しかも踊りながら歌うとなると、音粒が乱れて聞くに堪えない可能性がある。しかもマイクは複数。PAの負担は凄まじい。果たして人員を調達できるのか?東西南北はそこまでのコストを割くに値するほどの演者か?これはアイドルフェスではなく、一般の音楽フェスにアイドルが出演するのである。一応アイドル用のステージではある(一つ前の出番の三人組アイドルが映っている)ようだが、専用の機材セットを組んでいない可能性は大いにある。主催側としては、別に全員ダミーマイクでも構わなかったが、東は口パク出演に決して納得しないだろう。東一人分であれば、本物のマイクを使ってもどうにかなる。そういう思惑と調整の産物ではないか。私は現状この説を推している。

東は誰よりもアイドルであろうとしている。高い理想を持ち、それに見合う努力を着実に積み上げている。でも、この世界は不平等だ。努力だけでは足りない。何が必要かも教えてくれない。ライブの帰り道の電車内。東はライブの評判をエゴサする。東の歌唱力に対する批判的なコメントが多数。「東の歌だけひどい。あれなら口パクの方がまだマシ。」

だが実態は異なる。東は誰よりも努力している。素の歌唱力も、四人の中でなら多分東が一番だろう。だが、そんな事情は誰も知らない。東は誰よりも努力しているからこそ、誰よりも損をしなければならない。東がアイドルに向ける真摯な情熱は、努力は、誰にも届いていない。

「私だけ口パクじゃないから必死にやってるのに、私だけ損してるのずるい。」東は虚ろな目でSNSに投稿する文面を打った後、何かに気付いたように目を見開き、それを全部消す。脳裏によぎったのは、恐らく美嘉の失態だろう。

報われない悔しさを噛み殺し、それでもまた現場に向かう。なぜならアイドルが好きだから。アイドルが好きであることを、アイドル業界が期待しているから。その価値観を、東は完璧に内面化しているから。その価値観を、自分の感情より優位に置いているから。


このすれ違いの蓄積は、やがてアイドルを無感動にするのではないか。自分の努力を拾い上げないファン、自分の意図しない一挙手一投足に勝手に感激し、持ち上げるファン。彼女はまさに偶像。伝えたいことが伝わるのではなく、受け手が自分を媒体に勝手に想像を巡らせ、勝手に何かを分かった気になる。彼女が交流を諦めるのにそう時間はかからないだろう。感情が一方通行に整理されていく過程は、ファンとアイドルの一種の共犯関係といえるかもしれない。そして似たようなことが、アイドルとアイドル業界の間でも起きているのかもしれない。アイドルが持つ偶像性は、アイドル業界という虚像から生れ出たものなのだから。アイドル達は、業界の喧伝する夢と希望と光に満ちた世界に何かを期待し、あるべきアイドル像を見出し、それを内面化している。業界は、関係が一方通行に整理されていくのを静観している。その胸中には何があるのだろう。



要件:東ゆう

前の章より、東の行動原理を引用する。

なぜならアイドルが好きだから。アイドルが好きであることを、アイドル業界が期待しているから。その価値観を、東は完璧に内面化しているから。その価値観を、自分の感情より優位に置いているから。

東は傷ついている。苦しんでいる。巨大な意図に翻弄され、誰にも理解されず、それでも決して弱音を吐かず、悔しさを噛み殺し、舞台に立ち続ける。なぜなら、アイドルが好きだから。東はアイドルが好きだから、耐えられる。作中で身体を張る系の企画(大食い、バンジー)をこなしていたのは東ただ一人である。

そんな東を作り出すことは、アイドル業界が日常的に行っていることではないだろうか。

スカウトによって、オーディションによって、素体を調達する。素体には魅力的な個性が備わっていることが前提である。そして、素体にアイドルの行動原理をインストールすることで、商品として活用可能なアイドルが生み出される。芸能界は素行一つのリークで簡単に失脚する。男がいたとか。未成年飲酒喫煙とか。

新たな行動原理のインストールには、当然に痛みを伴う。本来の自分なら絶対にやらないような、意にそぐわない仕事をこなさなければいけない。日常のあらゆる行動に、無数の制約と周囲の視線が付きまとうのに耐えなければならない。自分の言動が、他人の人生に影響を与え続ける恐怖と戦わなければならない。

東が見出した通り、蘭子、くるみ、美嘉には魅力があった。だが、三人は、先述した行動原理のインストールに耐えられなかった。

で、ここから残酷なのだが、あくまで行動原理を搭載することはあくまでアイドルたる前提に過ぎない。それだけでアイドルにはなれないのだ。東は完璧な行動原理を最初からインストールしてあった。その痛みに耐えることができた。だが、耐えられただけだ。完璧なアイドルサイボーグであるはずの東の人気は、他メンバーに比べて見劣りがする。

事務所の提案でSNSを始め、東が自室でメンバーのSNSを確認するシーンがある。いずれもフォロワーは六桁、コメントは六百相当。

東は三人のSNSを確認する。投稿、コメント数、シェア数、コメントの中身。だが東自身については、コメント数が他のメンバーの約半分に留まることを確認したのみ。中身を読んでいるかは定かでない(コメントの文面はそもそも画面に映らない。視聴者は、アイドル・東ゆう評から徹底的に遠ざけられている)。
作中に、アイドルとしての東を評価する視線はほぼ登場しない(口パクライブのエゴサ結果くらい)。

東の努力は空回っている。東がアイドルに向ける一方的な思慕は、報いられることがない。

この構図は現実でも普遍的なものらしい。かつてのトップアイドルまゆゆのドキュメンタリーの切り抜き画像が、定期的に私のTLに流れてくる。「アイドルって、公平な世界じゃないから。普段努力している子が、ちゃんと報われるような世界ではないから」だいたいそんなことを言っていた。

アイドルの世界は、不条理に満ちている。


共同体という病理

最後の論点。東のインストールしたアイドルという行動原理の中身について。
安部公房「笑う月」より引用。安部の創作ノート断片から、私の好きな警句を一つまみ。

共同体のモラルに解消してしまえば、いかなる個人の罪も許される。

平時に人を殺すことは罪として裁かれるが、「戦時中」に「敵国民」を殺せばどうなるか?有事に限らず、そのへんの会社であっても、「金銭の稼得量の最大化」という組織のモラルのもとに正当化されている傍若無人な振る舞いに見覚えはないか?一歩でも外に出たら即刻お縄になるようなとんでもない行為が、「内輪のノリ」としてなあなあに処理されている光景に心当たりはないか?

テレビ局で暴れるくるみを抑え込むシーンより(あれ何回見てもきつい。)。

テレビ局の論理で言えば、くるみを抑え込む行動自体は「正しい」。くるみは契約に違反し、職責を放棄しようとしている。止めるのは当然だ。

くるみは部屋へと引きずり込まれ、静かになった廊下で、東はやれやれと言わんばかりにため息を一つ。そしてくるみを説得しようと踏み出す。東に迷いは一切ない。なぜなら、アイドルという職責に照らして、東の態度は「正しい」から。

その後の蘭子の言葉も、東を止めることはできない。美嘉の涙に気付くまで、東は止まることができない。東は自分の「正しさ」ゆえに、自分に疑いを持つことができない。

この、構成員に与えられる無制限の免責特権こそが、あらゆる業界、あらゆる共同体の病理の根幹。モラルである。自分一人が信じているだけの世界の真理では、人はここまで強くなれない。共同体に承認されて初めて、無限の力の源泉たることができるのだ。


ミクロな共同体

東という個人に覚える違和感も、同じものを共同体のモラルに投影すれば、きっと霧散する。彼女が犯し続けている道義上の罪も、彼女が内面化しているアイドル業界という共同体のモラルに解消してしまえば、許される。

現に、東は許されている。物語の都合上、東西南北(仮)解散後、東はアイドルでなくなり、一見罰を受けているように見えるが、東の個別の行為自体は裁かれていない。美嘉を詰ったことも、くるみを壊したことも。

いちいち東の行為を振り返ることはしない。では、最終的にこの暴走を止めたのは何だったか?

「私ってさ、嫌な奴、だよね」

共同体のモラルを裁くのは、その共同体自身によって以外ありえない。東は自身を裁くために、一度アイドルという自身の全てと言って過言でない巨大な要素を排し、別の要素を内面に取り込む必要があった。かつて見ないことにしたものを、再び取り戻す必要があった。

東は「絶対にアイドルになる」というミクロな共同体の内部にいる。構成員は、東と「アイドル」という抽象的な観念。より正確には、アイドル業界が喧伝する理想的なアイドル像、その行動原理、である。

東は恐らく、人並みに人の気持ちが分かる。自身の反社会的な言動に自覚がある。それらが周囲の心象を害することを理解している。だが、物事には優先順位がある。正しさにも優先順位がある。複数の論理が干渉した場合、優先度の高い論理が採用されるのは当然だ。そして東にとって、アイドルとの共同体の論理は、すべてを差し置いて最優先に適用される。東は他のあらゆる論理が見えていないのではなく、それらを余すところなく見据えたうえで棄却している。美嘉を傷つけても、真司の反感を買っても、くるみを壊しても、世界が許さなくても、アイドルは、内なる共同体は、東の罪を許すだろう。だから東は戦える。だから東は変われない。これもまた、東を夢へと挑ませる鎧の一つである。

(この個人単位のミクロな共同体については、端的に権威と言い換えてもいいかもしれない。権威の後ろ盾があれば、大いなる目的のためならば、人間はどこまでも酷薄になれる。心理学の実験でそういうのがあった気がする。我々は、医者の権威と許可があれば、赤の他人に即死レベルの電気ショックを与えることができる。)


更生の展望

東がそうだったように、共同体のモラルを批判できるのは、その共同体自身をおいて他にない。東は一度空っぽになり、生じた隙間に人間的な情念を取り込むことでかつての自分を客体化し、「嫌な奴」と批判することができた。では、アイドル業界はどうか?

プロデュースすべきアイドルがいなくなることなど、業界が空っぽになることなど、考えられない。この先、アイドル業界が自らの行動を顧みて何かを変えることなど、果たしてあり得るのだろうか?

某事務所の創始者による積年の犯罪行為を、業界人は黙殺し続けた。それと関知しながら、経済的利益優先で付き合いを続け、長年問題と被害者を放置した。ようやく事態が明るみになった後も、煮え切らない対応が続いた。事務所、マスメディア、その他利害関係者の中途半端な態度を見ていれば、色々と察することはある。

五年前、山口真帆さんの事件を思い出す。あれはスキャンダルですらなく、彼女は組織的な傷害事件の一方的な被害者だった。本来味方になるべき周囲の大人は、誰一人彼女の側に立たず、それどころか彼女を黙らせようと、精神的、物理的に追い込みを続けた。

ここでつんく♂氏の言葉。確か、事件と同時期にTLに流れてきたものだ。「アイドルって結局、女の子たちが周囲の大人をどれだけ信用できるかだから。それが全てだから」

これらの事件でアイドルの世界は世間からの信用を大きく損なったが、所詮外部からの批判など、共同体にとっては屁でもない。

そもそも、共同体全体の規模から見て、「罪」の比率は相当に小さい。組織の評価は、そこに属する最もレベルの低い構成員によって決まる。大きければ大きいほど、得てして組織の評価は悲観的になりがちである。問題があると言われる組織も、現場に出てみればまともな人が大多数だ。

罪は、共同体のモラルによって免責される。だから、罪の自覚のあるものほど、自分を許してくれる共同体に一層強く依存する。歪みは再生産される。罪を犯した人間が、自身の罪を正当化するモラルに縋り、拡大再生産を繰り返す。自分の身を守るために。罪のない個人を傷つけ、抱き込み、罪に加担させ、あわや内に取り込もうと画策する。

もちろん、否定的な側面ばかりではない。共同体に属することで、楽しいこと、嬉しいこと、普通の生活をしていたら絶対に手に入らない幸福も、きっとあるだろう。(これはちょっとわかる。私は学生時代バンドでずっとベースをやっていたが、部室で仲間と集まった時、一回だけギターボーカルをやらせてもらったことがある。ギターを掻き鳴らしながら気心の知れた仲間の前ででかい声を出すのは、めちゃくちゃ気持ちよかった。世界にこんな楽しいことがあるなんて知らなかった。六畳の床が見えないほど汚いスタジオ、聴衆は三人。たったそれだけの、ステージとも呼べない空間ですらあんなに楽しかったのだ。本物のアイドル達が見る景色は私には想像もつかない。)


だが、罪は引き算できない。


いくらプラスの要素を積み上げたところで、負の側面が消えてなくなることはないのだ。



まとめ

だからこそ、トラペジウムは輝く。

人間へと回帰し、夢を掴んだ東は美しい。


十年前の私は、どうしようもなく幼くて、身勝手で、馬鹿で、カッコ悪くて、カッコよかった。

夢を叶えることの素晴らしさは、夢を叶えた人だけが知っている。

だから、私ははっきり言える。

あのときの私、ありがとう。

私には、このラストシーンの東は、人道主義への回帰を経て生まれ変わったアイドル業界を再び内面化した存在に見えている。

アイドル業界に横溢するモラルは、どうしようもなく幼く、身勝手で、馬鹿で、カッコ悪くて、でもカッコいいのだ。未だ多くの情熱を惹き付けてやまないのだ。


世界は、変われる。東が変われたように。




結語 アイドル・東ゆう

東ゆうは俺にとって初めてのアイドルだ。俺がここで書いていることは、東には絶対に届かない。東は架空の人物だ。実在しない。俺は東の言動を勝手に解釈し、勝手に盛り上がり、勝手に混乱し、挙句こうしてどこにも届かない長文を延々認め続けている。これは余すところなく、徹底的に、俺の一人遊びだ。


だが繰り返すが、俺はお前を理解したい。

そしてお前を通して、俺自身を理解したい。


俺たちはひょっとすると、似た者同士かもしれない。



明日の上映チケットを予約した。それまでには、原作小説は読み終わっているだろう。


それにしても、俺はアイドル業界についてあまりに知らなすぎる。あることないこと書きすぎてる。そこはもうちょっと調べてみたいと思う。




俺は狂えるうちに狂っておきたい。引き続きよろしくな。東。

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