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人生の一幕が完結したような気がする、2021年春

前職の同僚に紹介してもらった素敵な先生のセッションを久々に受けた。
コーチングとはまた少し違って、基本的にはお喋りをするだけなのだがとにかく素敵なセッション。

4年前に初めて受けてからこれまで3回受けて来たが、初回と今回だけすんなり予約が取れた。そもそも人気すぎて予約がなかなか取れないセッション。予約確認は先生のタイミングで不定期に行っているらしいのだが、この2回だけはメールを送ってすぐに予約完了の返信がやって来た。
間の1回は、2週間待った上に予約が取れず粘って粘って勝ち取った回だった。

「きっと先生に会うタイミングだったんだ」とか思ってしまうのは、占いみたいなスピリチュアルなものをがっつり信じるタイプだからなのだろう。

初めてセッションを受けた4年前は今思うと人生のどん底期。毎日色々な感情に襲われて生きていくのに必死な状態だった。しかも全て自分自身の意志ではなく、自分を取り巻く環境や人といった外の世界から受ける不可抗力。

1時間のセッションでは、自分の長所を生かしながら不可抗力とどう向き合って行くかとか、今後の仕事の方向性を一緒に見出してくれた。
ワタシが10年後を考えて行動するようになったのは、紛れもなくその時先生が言っていた「10年後、20年後に”あったら嬉しい”生き方を考えること」がベースになっている。

そんなことを言われるくらいそれまでのワタシは自分を押し殺して生きて来た。ポーカーフェイスだけが得意になって行き、いつだって他人からは何の苦労もなく普通に過ごしているように見えていたと思う。そんな2017年当時のワタシが抱えていたものは恐らく過去最大級のものだった。

最後にセッションを受けたのが2018年。
そこから約2年半の時を経て先週久々に先生に会った。

今回ワタシが開口一番に話したことは「嫌だと思うことを色々とそぎ落としすぎて何をやっても手応えがない」という、文字にしてみるとちょっとふざけた内容。

まず、4年前と比べると自分でもよく分かるくらいに変わった。

結婚や転職といった言葉にして分かりやすい変化もあるが、自分自身で気づいているのは4年前に感じていた息苦しさと生き苦しさがなくなりつつあること。

原因となっていた外からの不可抗力が少なくなったというのが最大の理由なのだが、これまで”誰かの為”に自分を押し殺すのが当たり前だった人生に初めて自分の事を考える余裕が出始めたのが2019年。
そこから自分で自分に改革を起こして来た。その最たるものがnoteにずっと書いて来た転職。

これを機に「生きるステージが変わった」と言うのが分かりやすいだろうか。A面からB面に変わったような感じだ。

色々とそぎ落とす作業というのは転職の際に行った「仕事において”やらない”と決めたこと」で、それをした結果なんだかなんにもなくなってしまったのだ。

そもそもこれまでの人生が怒涛だっただけなのかもしれない。

自分ではどうしようもできない何かが起きていることが常で、とにかくいつも巻き込まれ「自分がやらないと」とか「自分が我慢すればいいや」と思ってしまっていた。いつも「誰かの為」に頑張って、自分のことは後回し。

今だから思うのは、不可抗力とは言えど別に全部が全部自分が関わらないといけない出来事だったわけではない。切り離す勇気がなかったのと、無駄に強い責任感が変な方向に行き「何かが起きている中で生きている」ことが普通になってしまっていただけだ。
更に言うと「何かが起きている中にいないと”自分の存在意義”が分からない」という、少し依存傾向にあったような気もする。精神的にも物理的にも寄りかかられることが多かった経験が、おかしな方向に作用してしまっていた。

ただ渦中の人間はそんなことは全く分からない。だからワタシもずっと気づかなかった。「依存傾向」と書いたのはこういうことだ。外から見たらおかしな事が本人には分かっていない。

表向きには「やりたい事をやっている自由人」に見えていただろうし、実際に自分がやりたいと思ったことはほぼやってきている。がしかし根の深いところでは常に見えない力に雁字搦めにされている感じがいつもあった。ワタシの人生誰のものなんだ?と思うことが過去にたくさんあって、それを証明できるのが自分を犠牲にしている瞬間だったような気がする。

抜け出せるようになったのは、4年前に初めて受けたセッションで先生に言われた「もう背負わなくていい」という一言。「背負っている」という感情が皆無だったワタシにたくさんの気づきを与えてくれた。

先週久々に先生に会って喋って、この2年の出来事を話したら「それでいい」と言ってもらえた。そぎ落としすぎて手応えがないのはこれまでの生き方とお別れしたからだ、と。これからは「手応えを感じない」が正解だと思えとのお言葉。

それを聞いた瞬間「ワタシは過去を乗り越えたんだ」と思った。

これまでたくさんの人に「過去に縛られるな」と言われてきた。
その言葉を言うのは「過去に何不自由なく過ごして来た人」と「過去の出来事を乗り越えた人」に二分され、どちらかと言うと前者が多かった。

もちろんみんながみんなそうだったわけではないだろうし、本当に過去になにかしら経験しているのかもしれない。ただ、渦中の人間にとっては外の世界の出来事すぎてなんの説得力もなかったし、ひねくれ者のワタシは「どうしてアナタにそんな事を言われないといけないのだろうか?」といつも心の中で思っていた。

乗り越えられない過去はあってもいい。それが自分の原動力になるのであれば無理に乗り越える必要も、無理に口に出して誰かに聞かせる必要もない。

ワタシは過去の経験が”執着”や”依存”という形でおかしな方向に行ってしまっていたけど、今「乗り越えつつある」と実感することが出来ている。だからこうして文字にすることができている。
そもそも今までだったらこんな話は誰にもできなかったし、する気もなかった。今も大事な部分は曖昧にして書いているけど、これだけのことが書けたのは過去と決別できつつあるからだと思う。かと言って、乗り越えたからすごいとか偉いということもない。

普通に生きて来た人には到底理解できない内容なのだ。どんなに仲のいい友人でも、とてつもなく気の合う旦那でも、生きて来た土俵が違いすぎてみんなワタシの話に共感はできない。理解はできるけど、共感するまでには至れない。それは別になんの間違いでもなくて当たり前のことなのだ。
例えるなら、ドラえもんを見たことがある人とない人の話が通じないのと同じことだ。
(ちなみにワタシはドラえもん全然好きじゃなかったから、話に混ざれない時がよくあった。笑)

今までは共感されないことや分かってもらえないことに生き苦しさ感じることが多かったが、今は自分のこの経験が自分と同じ気持ちで生きている誰かの力になれればいいと思いこうして文字にしている。おこがましい気もするけど、自分にできることを考えたらこうなった。

そしてセッションを受けた日の夜、趣味で星読みをしている友人に勝手に感想をつらつらと書いて送りつけた。

その返信に「明日は宇宙元旦だから大晦日の今日に色々整理できてよかったじゃん」とあった。

星の流れが切り替わる前日だったらしく、ここから完全に所謂「風の時代」に入るそう。信じるか信じないかは人それぞれだが、ワタシは一線を越えてない人がするこういう系の話が大好きだ。

その前日に先生の予約がすんなり取れたこと、友人に翌日が宇宙元旦だと教えてもらったこと。

何にでも繋がりや意味を持たせようとしてしまうのはワタシの悪い癖なのだが、でもやっぱりこの流れには意味があったと思いドキドキしてしまった。

人生のある一幕が完結したような気がした、そんな宇宙大晦日。

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