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つい、ネタがねえ、というネタで書いてしまう人に向けたTips、そして自己分析

前口上

 ありがちではあるなあと思いつつも、ネタがねえ、で書いてしまう。
 いや、ネタがねえわけではねえんだけど、noteにわざわざ書くべきことがない、という意味の「ネタがねえ」だ。そこで今回はnoteに書くべきネタ、ということを考えていこうと思う。


読まれる記事の要素

有用性

 このnoteは役に立つだろうか。
 この記事を書く、一番の動機は「みんなの役に立ちたい!」とそう思われることではない。この記事を最後まで読んでみればわかるかもしれない。または、分からないかもしれない。
 読まれたいのであれば、有用である、ということを意識して記事を書くのが大原則ではある。
 役に立つ、ということを考え、深堀してみると、自分が有用であるかどうか? ということに意識を向けなければならない。自分が有用である、という認識は、他者評価にほかならず、それを乞うように書き続けることは精神衛生上、あまりよろしくないのでは? などと思ってしまう。
 有用であることは多くの人に読まれる、という点において大事ではあるが、承認欲求を満たしたいがあまり、自身を捻じ曲げすぎることのないように気を付けたいものである。どこから目線かはわからない。

説得力

 有用であっても説得力がなければならない。
 説得力がなければ、なんかそれっぽいことを言ってるな、ということに終始してしまう。
 説得力という言葉を考えてみると、想像できるのは、裏付け、データ、調査などのいささか堅苦しいワードだ。なんだか、肩が凝り固まってしまいそうだ。
 私は小説を書いているので、それにおける説得力、ということを考えてみる。ファンタジーを書くならば、魔法、そして、それを裏付ける理論が必要だ……というところから出発してみる。
 私の意見はこうだ。
「うるせえ! こう言ってんだから、こうなんだよ!」である。
 説得力の欠片もない、トンデモ理論でも、「こう」であれば「こう」なのである。その作品世界においては。
 困った。主張と持論が食い違っている。
 これ以上恥をさらすことは本意ではないので、この項目はここでお終いにする。

おもしろい

 おもしろいって……なに……?

終わりに

 こうして、改めて読まれる要素を取り出してみると、自分の記事にはない要素ばかりだ、という反省がある。だけれど、私は読まれたいわけではない。あらゆる読者に有用性や説得力や面白さを誇示したいわけではなく、自分のセンスを誇示したいのだ。なぜかって?
 そっちのほうがかっこいいからだ。
 そんな、人目をはばかって、記事のいいねや反応を見ることが生きがいな人間になりたくない。
 私の主義は私だけのものでいい。

そして

 おわかりだろうか、私が批判している要素は逆説的に語られる、自分のことである。自己嫌悪と承認欲求強めな私は逆張り的にそう語ることで自己の安定を図るのであった。悲しきモンスターである。

 文章を書くことは本当に怖い。自己の奥底の汚ねえ部分を見つめてドブでもさらうかのようにひとつひとつかき集めてまとめて積み上げるような。
 それでも書きあがった文章は、確実に蓄積していく。そこに達成感がある。達成感はあるからこそ、タチが悪い。また文章を書いてしまう。薬物の類なんじゃねえかとも思う。

 なんだか、「ネタがねえ」というところから、とんでもないところに着地してしまった気がする……。こんなことを書きたかったわけではないのに、こんなことを書いてしまう「サガ」みたいなものの存在の片鱗を垣間見たような気分に陥る。

 「ネタがねえ」でもネタにできる、ということ自体が、ネタなんかなくたっていい、そのまま書いてみると面白いところに着地するかもよ、という主張である。そういう事例を残す意味でもこの記事は残しておきたいし、結局のところ、それが終着点なのかもしれない。
皆さんも「ネタがねえ」くても、とりあえず書いてみてほしい。それがあなたの個性なのだから。そして私はあなたの個性が見たい。

最後に、前人に倣って、こんなことも言ってみる。

「いかがだっただろうか? 以上が読まれるnoteの要素だ。参考にしてみては?」

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