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冷めたココアと遠い記憶

もう、交わる点はないのだと冬の気配を纏った風を頬に受けながら思う。じんわり広がっていく冷たくも、そして特段痛くもない確信に、昔から知っていたのだと可笑しくなる。「ホット」の文字が並ぶ自販機の光が眩しい。


そろそろ冬だな…ポケットに手を入れようとして 昼間、寒いと買ったココアを開けないまま鞄に入れっぱなしにしていたことを思い出す。人生なんてそんなものだ。必要だったのはココアじゃなくて温もりだったんだろう。可哀想。でも今は美味しいというよりただアルコールだとしか感じないハイボールが飲みたい、と思う。汗を拭いながら仕事終わりの達成感と、きっと呆気なく終わってしまうであろう夏の儚さを一緒くたにして初めて「美味しい」と感じる、あの飲み物。それを何故か今、欲している。

毎度、どうせ飲み干したところで残るのは苦い後味だけなのに。変だと思いながらゆっくり階段をのぼって玄関の扉を開けた。


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ゆっくり浸かろうと思っていたのに、今日もまた手抜きをした。母からは電話で話すたびにしっかり浸かって体の芯から温まれと言われるけれど、疲れを勢いで流してくれるシャワーも昔から嫌いではなかった。それに、お湯をはったら好きに入れないじゃない。次第に冷たくなっていくのに急かされるようにして入るお風呂は、何だかタスクになってしまう気がする。だからいいのだと自分の中で肯定して、冷たい床のお風呂場にそっと足を踏み入れた。


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適当でいいよね、とブカブカのサンダルを履いてお世辞にも品揃えが良いとは言えないスーパーにお腹を空かせて行ったあの日、「あれ、好きな匂いかも」とあなたが言って無造作にかごへ投げ込んだシャンプーは2本目だか3本目だか、買い足されてもう匂いを感じなくなっている。きっといい匂いだったんだよなと泡だらけになった頭で考える。遠い記憶。


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…熱い。手探りで蛇口を辿り、無理やり目を開けようとした。でも薄ら開けたところで視界を覆う白い物体を確認してやれやれと思う。十分に前も見えやしない…

自分の家の構造をよく覚えていなかった。未だに暗闇の中で玄関の電気のスイッチを押せば違う明かりが灯り、見慣れているはずの部屋の角に小指をぶつける。一般的に左がお湯だと分かっているのに、考え事をしながら入ることの多いお風呂では簡単にお湯と水を間違える。こんなんだから、と思う。水のほうを勢いよくひねると、今度は冷たくなり過ぎて「ひぃっ」と声が出た。ほら、こんなんだから。


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お風呂から上がると同時にピロンと可愛い音がする。今日は何だか携帯が軽かった。愛らしいスタンプにつられて「友達」になったお店から送られてくる新商品のお知らせや、業務連絡と思いきや必ずプライベートに深く踏み込んでこようとする男からの連絡が未読のまま放置されている。きっと「寝てる?」かなんかだろう。今は自分の時間を過ごしているのだ。第一…と壁にかけられた時計をちらりと見る。オレンジ色の温かい光の下で、時計は間もなく0時を迎えようとしていた。


部屋の明かりはいつも暗めにしてあった。これでもかと言わんばかりに現実を突きつけてくるような蛍光灯の白い光が苦手だからだ。仕事中ならまだしも、疲れが溜まってくると少し明るい光は痛く感じることもあった。だからゆっくりと流れる時間を満喫したい家だけは、台所さえも柔らかなオレンジ色の光を選んでいた。でも、そのせいでますます白い光が苦手になっていて、あの日も急に電気を暗めにしていいか唐突に聞いてしまったのだと思う。お皿を運んで来ながら一瞬何事かという顔をしたけれど、優しいがゆえに何でもないことのように流すのが上手いから、にこりと笑って「ん、もちろん」と言う。まるで自分もそうしたかったかのように。ぼんやり覚えていたのだろうか、それとも一瞬の間に何か理由を見つけたのだろうかと考え、前者だといいなと思った。


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一目惚れって厄介だと思う。本当に、本当に、厄介。遠のいたと思っても、存在を確認する度にリセットされてしまう。途端に知らず知らずのうちに募っていた何かが弾けてしまう。そういえばどこかで「一目惚れも上手く言語化できないだけで、自分の中では分析され、何かにおいてヒットしているからそれも立派な恋愛の始まりです。自信持ちなさい」といったようなものを見たことがある。なにが自信持ちなさいだよ。なんだよ、その時湧いて来る自信って。わけわかんない。


髪を勢いの良い熱風でなびかせながら、明日はもう冬かなと思う。冬の始まり。マフラーを使いたくなって、自販機でホットを選んで、息を吸い込んだら鼻の奥がツーンとして。普段なら見向きもしないレジ横の肉まんに目がいく、冬。いつになったら好きになれるのだろう。似合うニット帽を買ってみても、温かいダウンを新調してもどうも好きになれそうにない、冬。早く過ぎ去ってしまえばいい。



The Cinematic Orchestra「That Home」が部屋を優しく包み込む。










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