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少し重たくて長い話。温め続けた下書き、自分の話。

眠れない夜、あなたは何をしますか。

6:37
眠れずに明かした夜。寝るのを諦めて素直にNETFLIXに逃げた。
眠れない夜、そんな夜はフィクションの世界にこもるか、日記を書くかする。

新しく公開されたシリーズ、「HEART STOPPER」。
公開前から何となく知っていて、楽しみにしてた。

いくらか誇張しすぎな部分もあるように感じたけれど、性について悩む主人公と中学から高校の頃にかけての自分が重なって、一晩で見終わってしまった。

普段あまりドラマにはハマれない性で、いつも途中で投げ出してしまう。そんな自分にとっては久しぶりの快挙。万歳三唱よろしくお願いします。

で、眠れない夜を過ごした22歳が何を書こうと思ったかというと、「自分について」。
かれこれ1年くらいも温めてきた下書きが実は既にあって、完成させることができずに眠らせていた。

改めて自分ときちんと向き合うこと、自分が今感じていることを文字に起こすことを通して、今の自分がどんな輪郭をもってここに存在しているのか、きちんと確認したい。
そしてこの場で話すことで、自分の周りにいる人たちに「イズミヤ」がどんな人物なのか、ちゃんと知ってもらいたい。

そんな思いからか、はたまた単に寝ぼけた頭が自分を素直にさせているだけなのか。まあ分からないけれど、あるがままの自分を書いて、下書きを冬眠から起こしてあげた。

とかなんとか言いつつ、書いているうちにダラダラと長くなってしまったので、これまた割愛して読んで頂くとよいかも。
それと思いの外重い内容になってしまったのが当初の予定とは違ったけれど、まあそれもいいとして。

では

自分について

初めに言っておくと、僕はこれをカミングアウトとは呼ばないでおこうと思ってる。
具体的にどう違うのか、また今まで明言してこなかったことを話すのだからそれはカミングアウトに当たるのではないか、等々議論の余地はありそうなものだけれど、どうか目をつむってほしい。

カミングアウトって言うとすごく重大なことのように感じてしまう。そうするとひどく不器用な自分は構えてしまって、素直に書けなくなってしまうから。

さてさて、単刀直入に言ってしまうと僕は同性愛者で、ゲイ。
22年の人生で、半分と少しくらいの時間を自分はゲイとして過ごしてきた。
もちろん、自分がゲイであることを最初から受け入れられた訳じゃない。初恋の人は男の子だったけれど、中学2年生だった僕は、それが「自分がゲイであること」を意味するとは思っていなかった。

当時の僕は、自分がゲイであることを拒絶しようとして、無理に「好きな女の子」を探そうとさえしていた。

同性の誰かを好きになるのは「普通」ではない。自分は異常者で、病気のようなものに罹っている。女の子の事が好きなことを証明できれば、自分は正常だと証明できる。

そうした思いから、自分の本当の気持ちを必死に隠そうとしていた。
けれどそんな試みが上手く働くはずもなく、ストレスを溜める日々。隠そうとする本当の気持ちは抗えば抗うほど表に出てきて、夜は眠れず、食欲もろくに湧かない。そんな日々を過ごした。

自分は異常者で、一生幸せになれないんだ。女の子のことを好きになれたら、どれだけ楽でいられただろうか。いっそこのまま消えてしまうのが、誰にとってもいい選択だ。

「自分は生まれてくるべきではなかったんだ。」それが、当時の自分が下した結論だった。

今こうして見ると、自分は相当追い込まれていたんだと思う。それだけ、切羽詰まっていたんだ。

当時の自分にとって、誰かに相談することはひどくハードルの高い行為だった。両親、兄弟、友だち、先生。相談しようと思えば、できる環境ではあったんだろう。
けれど、日々生活する中で出くわす、差別や偏見を含んだ行動、言動を考えると、「自分が同性愛者である」と話すのはとても労力を要することのように思えた。自殺行為とさえ、思っていた。
とてつもない労力を要してようやく話せたとしても、それが相手に受け入れられるかどうかは分からず、むしろ拒絶されるに違いない。そうした思いから、表面上は元気な振りをしながら一人で自分を呪う生活が長いこと続いた。

誰にも打ち明けられずに、一日中自分を責め続ける日々。
僕は、誰も信頼することができなかった。今でこそ腹を割って話せる友人がいるけれど、それは当時の自分にとっては考えられない状況だった。
だからこそ、あのストレスを耐え抜いた自分を今では誇りに思っている。

頼れる誰かがそばにいてくれたらどれだけよかっただろうか。自分の思いや考えを思うままに話せる相手がいるだけで、どれだけ救われていただろうか。そう思わない日はない。

何も周りの環境を責めたいというのではない。誰も信じることができなかった自分にだっていくらか責任はあるのだろう。
ただ確かなのは、否定せずに話を聞いてくれる誰かが近くに居てくれたら、誰かを信じる勇気が僕にあったら、あんなにも自分を否定し拒絶することはなかった、ということ。もっと純粋にあの日々を楽しめたのだろう、ということ。


今生きている世界のこと

14歳頃、自分が同性愛者の傾向を感じ始めてから今に至るまで、僕にとって日本は決して生きやすい国ではない。
今では自分が同性愛者であることを受け入れていて、既に一部の友人には打ち明けてもいる。
それでも、そんな簡単に自分の生きる社会が変わるわけではない。

打ち明けた友人たちが一切否定しないで自分を受け入れてくれたことから考えると、自分はまだ恵まれた環境にいるんだろうと思う。

それに、日常生活の中で頻繁にLGBTQ+について耳にすることが多くなった今、状況は改善してきているのかもしれない。
だけどそれは、日本でLGBTQ+に対する偏見が無くなった訳では決してない。

例えば、友達と何気ない会話をしてる時。
誰かがふざけ合っていて「ホモみたい」と口にする。文字に起こすと残酷な言葉に見えるけれど、何気なくこういうことを言う人は多いんじゃないかと思う。

美容室に行った時。
髪を切ってもらってる最中に、会話しないとしんどいような空気になる。そんなときに多くの美容師に聞かれるのは「彼女いないの?」。「いないですね~。なんでですかね~。」なんて言ってはぐらかすのがいつもの流れ。
これは友達といつも話すことなんだけど、取り立てて話題がないのなら、下手に話しかけようとしないでほしい。まして、人のプライベートに土足で踏み込むような話題しか持ち合わせていないのなら、なおさら。


極めつけは、バイト先で年配の社員と会話している時。
「いつ彼女作るの?もうクリスマスだよ?」
「いや~、できないですよ。」
「あ、もしかしてソッチ系?否定しないよ~。そういう時代だもんね。」
こうしてストレスを溜め続けたバイト先は留学を口実に辞めた。

何も、こうしたあからさまな事ばかりが僕を苦しめるのではない。他の人にとっては「そんな事で?」と思うようなことがストレスの原因だったりもする。

日々の生活で「LGBTQ+」という概念について目にすることが増えてきて、段々と社会にその概念が浸透してきているのを感じる。でも、依然として上に挙げたような質問をしてきたり、心無い言葉、視線を投げかけてくる人は数えきれないほどいる。

知らないうちに誰かを傷つけてしまうことは誰にだってある。それはこの話題に限った話じゃない。だから、僕が誰かの言葉で傷つけられている時、その誰かは必ずしも僕を傷つけようとしてるわけではない、ってことも知ってる。

ただ、悪意がないからから許されるわけではない。自分の言葉が誰かを傷つけてしまうかもしれないのなら、自分の言葉にはきちんと責任を持つべきだ。例えばそれは性的な質問を執拗にするのを避けるとか、人のプライバシーに土足で踏み込むようなことを言わないとか。


確かに、日本でもセクシュアリティの多様性について議論が活発化してきた。ただ、「自分は性的マイノリティの人が世界に存在してることを知ってる」、と結論して完結してる人が日本には多いのではないかと感じている。そうした短絡的な結論が、無意識的なホモフォビアに繋がっているんじゃないだろうか。

彼らの存在が認められるようになってきた、それだけでも大きな進歩だろうとは思う。けれどここで言いたいのは、多くの人はまだLGBTQ+の人が自分の半径1メートル以内にいるのを認識できていない、ということ。
多くの人は、LGBTQ+と呼ばれる人たちはインスタやツイッターの中に存在していて、まさか自分のすぐ近くで自分と同じような生活をしてるとは思っていない。
それが今の日本の現状ではないか。

そうした現状に、僕はずっと違和感を感じている。


望むこと

書いているうちに長くなってしまって、やっぱり結果何を書きたいのかはよく分からなくなってしまった。
ま、いいか。

結局今の僕が一番望んでいるのは、ゲイである僕が、周りからゲイであることを理由に不当な扱いを受けたり、逆に特別扱いされたりすることもなく、当たり前のようにゲイとしての自分で生きること。

恋人ができればデートに出かけたいし、できるなら結婚だってしたい。当たり前のように家庭を築いて、誰かのそばで生きたい。
幸せを一つに定義することなんて不可能だけれど、自分にとっての幸せはそうしたことだと思う。

自分のセクシュアリティを理由に自分を偽る必要のない世界、大切な人たちに嘘をつく必要のない世界で生きたい。
僕が望むのは結局、そうしたごく単純なことだった。

これまで日本で自分を偽り、周りに嘘をついて生きてきたなかで、僕は少しずつ僕を殺してきた。自分がゲイであることが知られれば、この社会では生きていけない。そう思っていたから。

大学3年の春、僕はようやく自分の性を受け入れることができた。自分に嘘をつくのをやめた。それから徐々に周りにも話すようになって、驚くほど心が軽くなるのを感じた。

今まで自分が自分自身にかけてきた呪いが少しずつ解けていくような感覚と共に、僕は少しずつ本来の自分を取り戻していった。

それから2年ほど経った今、僕は日本を飛び出してフランスで生きている。多様な性のあり方が受け入れられている世界で。学校では多様な性を公表している友人が多い。
そんな人たちの中では自分を隠す必要なんてどこにもなくて、あるがままの自分でいられる。
ゲイの人としてではなく1人の人間として、周りから向き合ってもらえる。
長い間僕が望んできたのは、こんな世界だった。
どうか、どうか日本もこんな世界であってほしい。

僕には世界を変えるような力はない。けれど、違うと思うことに「違う」と言い、常に本来の自分であり続ける。そうすることで、半径10m以内の世界を自分にとって生きやすい世界にすることができたら、それで十分なんじゃないかと思っている。


優しい人たちへ

ここまで根気強く読んでくれた皆さん。ありがとうございます。文章を書くのはまだ上手くないし、読みにくいところも多々あっただろうと思います。

今回僕がここに書いたことは全て紛れもない事実で、僕がこれまでに溜め込んできた、そしてずっと誰かに話したかったことでもあります。

正直、noteという開かれた場で自分がこの話題に触れることにはすごく慎重になっていました。自分にとってこのプラットフォームは、たまに訪れて有る事無い事適当に書き綴る場所であって、何かを主張するような場所ではまだなかった。

けれど、自分の言葉で自分について語るようになって、自分がゲイであること、それから長い間経験してきたこと等をちゃんとした形で言葉にして残したいという気持ちが強くなっていました。

3年ほどnoteを続けてきて、こうして自分の言葉で自分を語れたことが、今はただ嬉しい。校正のために読み返してみても、この文章の中には苦しさも悲しさも希望も、何もかも隠さず曝け出した自分がいるように感じています。

これを読むことで、読んだ人の中には憤りや疑問を抱く人も居るかもしれない。ただ、僕はこれからそうした事ときちんと向き合っていこうと思っています。

逃げも隠れもせず、きちんと自分の言葉で向き合いたいと、思っています。

もちろん、ここに書いたことを素直に受け止めてくれる人が僕の周りにたくさん居る事も知っています。

もし何か知りたいことがあれば、遠慮なく聞いてほしい。今まで経験してきたことを話せる余裕が今の自分にはあるし、それを話すことで何かを変えることができるかもしれないから。


気づいたら朝だった土曜日、気づいたらもう15時を回っている。一度書いてから記事を熟成させるために、ようやく僕も眠った。起きてベッドの上で伸びながらこうして手を加えている今、僕はすごく胸が軽い。

これからまた驚くような出来事が未来で僕を待っているんだろうと思う。あの日々を乗り越えた自分ならなんだって乗り越えられる。

今の自分は、すごく自然でいられる。


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