私は上手に生きられないけれど
ひさしぶりに長く心がすっきりしている気持ちと程遠い生活を送っていた。一時的には、心が軽くなる瞬間はあるのだけども、また何かの拍子にもやもやの海に沈み、ぷかぷか浮いてみては沈むことを繰り返した。
こういうときは大体のことが上手くいかない。
いや、引きずられている。
最初は仕事のことから心が燻り、余裕がないばっかりに比べてもしょうがない他人と比べてみたり、元気なときは心配しないでもよいことを心配しては落ち込む。ここしばらくはなかったのに、夜になると落ち込んで何にもしなくても涙が出ることもあった。
もともとの真面目な性格もあってか、新卒で就職した会社ではストレスで夜も寝れない、職場に向かう道中で吐き気がする、など精神的にあまりいい状態とは言えなかった。
器用に生きられる性格ではない、と知ってからは「自分のごきげんは自分でとらなくては…!」とひとりで生きられるようにマインドから変えようと思ったし、強くありたいと願っていた。
少しは上手に生きられるようになったかなと思っていたけども、たまたまいい環境で過ごすことができているから落ち込むことが少なかっただけで、ふとしたときに元通りになっちゃうし、「まだ強く生きられないのか」と悔しい気持ちになる。
未だ、仕事とプライベートをうまく切り分けられず、仕事のイライラを同居人のパートナーに当たってしまい、あとあと振り返って後悔したりもある。
救われる言葉を投げかけてくれるYoutube動画を探してしまうし、思わず主人公の状況に同情的な感情を向けられるような本をすすんで読んでしまう。
”自分でごきげんをとる” とは裏腹に誰かの力を借りて、そこには他者と比べて「この人よりはマシ…」みたいなちょっと歪んだ感情を以て、ようやくちょっとずつ深い海から浮いてくることができる。
そんな自分はあんまり好きではない。
最近、ようやく通常運転モードになることができ、いつもの自分の地に立って冷静に振り返っている。
もやもやの海に沈んでいたときにしてしまったあれこれを思い出し、自己分析しては落ち込む。だけど、「次はこうしないでおこう」とか「精神衛生上、よくないことからは避けよう」とか「私がした思いを他の人がしないように振る舞えるようになろう」とか、よくなかったことをただ「イライラする!」で終わらせずに反面教師にして生きている。
たぶんそうやって不器用ながらにも、なんとか健やかに生きられるように調整しているのだと思う。
新卒で就職した会社の経験があるから、心の健康がなにより大切なことを知って今の発信活動もあるし、昔以上に他人に寛容になることができている。
辛い経験も人生の深みにしていけるのだとしたら、少しの痛みを感じなければ大人は成長しないのかもしれない。
この落ち込み期間でもう一度振り返った言葉がある。
自分の辛いことをいつか ”誰かのためになる” なんて自分で思うことなんておこがましいなとも思うけども、苦しいときのお守りとして心に留めとくというのは悪い選択じゃないかな。
自分が幸せなときに周りの人がみんな幸せとは限らないように、私が沈んでいるときに幸せを迎える人だっている。
人それぞれの人生なんだから、そんなの当たり前だ。
自分の悪いときばかり、他人と比べたりあれこれを心配したりなんて、都合がよすぎる。
自分には自分のタイミングがあって、人は自分の手で幸せを掴み取ることができると私は思っている。
だから、苦しいときも悲しいときも落ち込むだけ落ち込んで、また立ち上がれるタイミングでまた自分の足で歩いていければいいんだな。
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