第一部 さあちゃんが倒れた日

これを書いているのは、2023年4月3日のことだ。
母、通称「さあちゃん」のお葬式が昨日終わった。
数週間前まで「太ってきた」と父にいじられていたさあちゃんは、もうちっちゃくなって壺に収まっている。
享年63歳、誕生日がきていなかったので、正確には(俗世的には?)61歳だった。
私が21歳、最後の大学2年生の日だった。

なんでこんなものを書いているのかというと、さあちゃんを、少なくともさあちゃんと過ごした1週間のことを忘れないようにするためである。
それと、完全に同じ境遇の人はいなくとも、私と同じように危篤状態の親族に寄り添っている人、看取った人、お葬式を終えた人に、何かしらのものを届けられたらいいなという思いのためである。
もちろん、今親が好きで、その親が存命だという人が、後にする後悔を少し減らせたらいいなという気持ちもある。
まあきれいゴトを言っているが、私のナマの記憶を残しておくことが最大の目的である。

前置きはこんなものにしておいて。
第一部、さあちゃんが倒れた日、2023年3月24日のことである。

その日、私は慣れないアルバイトをしていた。
20時15分退勤予定だったのだが、その日は大学生アルバイトが多く、20時半過ぎに退勤した。
いつものようにバス乗り場に進みながらスマホを開くと、父から
「さとが倒れた。至急連絡ください。」
というLINEの通知と不在着信があった。
血の気が引き、体がガタガタ震え始める。
必死の思いで父に電話をかけると、「くも膜下出血が再発した」とのことだった。

母は8年前にも同じ病気をした。私が中学1年の時だった。
看護師として働きづめだった母は、訪問看護に行っていた患者さんの家で119番を自ら押し、緊急手術となった。
3カ月ほど目が覚めず、しばらくボーっとして話せない状態が続いたものの、奇跡的に自分の足で家に帰ることができた。
当然後遺症はあるし少しずつ悪くなっていっているものの、薬と病院のおかげで、倒れる直前まで車の運転ができるぐらいには元気だった。

私はさあちゃんが倒れたという事実に、駅のど真ん中だというのに号泣した。父の説明は要領がよくなかったが、どうやら手術もできない状態らしかった。最初はこっちに戻ってきても何ができるわけでもないから戻ってこなくていいと言われたが、私とお医者さんに言われ、戻ってきていいとのお達しを受けた。

私には付き合って1年と3カ月ほどの彼氏がいる。
彼氏に急いで連絡をし、明日の航空機を取ってもらった。

そこからはバタバタだった。
そもそもサークルの大事な予定が明日明後日にあったし、とりあえず1週間実家に帰ることになったが、1週間の間に予定がぎっちり詰まっていた。
そのサークルの予定、実は私は嫌で、「全部なくなっちゃえばいいのにな」と思っていた。こんな形でなくなっちゃうとは思わなかった。

バイトも遊びも全キャンセルし、受け取る予定だったnoshを営業所までわざわざ取りに行き、午後の飛行機で地元まで帰ってきた。
空港には親戚の叔父と叔母がいた。父は席を外せないらしかった。

病院へ向かう道がやけに渋滞しており、とても焦っていた。この時、母が生きているのか死んでいるのか、手術をしたのかしていないのかもわかっていなかった。誰もそのような話をしないし、私も聞きたくなかったからだ。
誰もしゃべらない車内に、「~な家族葬~」とのんきにのたまうラジオが響いた。この時だけ、不謹慎すぎてわらってしまった。

車から降りて、父と合流した。叔母に優しい言葉をかけてもらうと、我慢していた涙が出た。父に大きな荷物を車においてきてもらい、落ち着いたら行こうかといわれ、25日の17時半ごろにHCU(High Care Unit)へ向かった。

この時は、「生きていた」という気持ちが強かった。
ちゃんと自分で息をしていた。モニターに、「自発」という緑色の文字があった(自発呼吸の意。おそらく)。
「聞こえているので、話してあげてくださいねー」と看護師さんがおっしゃったので、「さあちゃん、帰ってきたよ」など声をかけた。マスクがびしゃびしゃになるまで泣いていた。

家に向かう車の中だったっけか、さあちゃんがどういう状況で運ばれ、今どういう状態なのかを聞いた。

まず、24日の午前中、さあちゃんは美容院に行っていた。後に分かったことだったが、その後14:00~14:30に予約していた整骨院にも行ったらしい。そして父が16:00に仕事から帰った時、トイレで色んなもので汚れ、うつぶせになって倒れているさあちゃんを見つけたという。

そしてあまりに焦りながら(無理もない)119番に父が電話したところ、真っ赤なレスキュー隊まで来るという大事になったらしい。そして、8年前に手術をうけた病院(A病院とする)に行ってくれと頼んだところ、A病院はこの情勢で完全紹介制となっており、近所のB病院に行くことになった。
しかし、B病院でCTを撮ったところ、脳が腫れて真っ白だったらしい。「うちでは無理です」と言われ、B病院からA病院に連絡を取ったところ、受け入れてもらったという流れだった。

A病院で前に手術をしてくださったお医者さんが、最後の手段として、髄液を直接抜き、脳の腫れが収まるのを待つという処置をしてくださった。つまり頭をかちわり、管をぶっ刺していた。この日はまだ、髄液が少しずつ抜けていた。

この情勢が少しずつ収まっているとはいえ、病院内はまだまだ厳しい。
8年前は家族が泊まれる場所だったり待機する場所だったりがあったし、面会にもそこまで制限はなかったが、今回は待機場所すらなく、面会も1日1回、長くとも15分だった。面会にも1度に2人までしか入れなかった。

なのでこの日はいったん、家に帰った。
家からA病院までは渋滞等もあり1時間程度。とりあえず緊急性がなかったし、飼っている犬も心配だったので帰ってきた。
8年前にやったように、近所のほっともっとで買った親子丼を食べた(ほっともっとの親子丼は、両親が共働きの時からほっともっとと言えばとよく食べていた思い出の品である)。

この時びっくりしたのが、親子丼とセブンイレブンで買ってきたでかめのサラダをそれぞれ1/4ずつ食べたあたりでおなか一杯になったことである。さすがに1/4はまずいと思い口に押し込んだが、それぞれ1/2ずつ食べたところで気持ち悪くなり、次に回すことにした。


この日から、寝るのが怖かった。これから1週間、色んなものに祈りながら夜を過ごし、眠くなったら寝る生活を続けることになる。しかし25日~26日にかけてはさあちゃんの夢を見たのに、あれから一回も出てきてくれないのはどういうことなのだろうか。

第二部、さあちゃんとの最後の1週間
に続く。



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