4/2

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昨日から2時間遅く出るか、早く帰るかのシフトに変更になった。もちろんコロナの影響でいつのまにか日々は変わってしまっている。そのスピード感についていくのに必死で、遅く起きてスピードを緩めようと思ったのに、いつも通りに起きてしまった。二度寝はせずしばらく岡崎祥久『文学的なジャーナル』を読む。ちょうど読み終わったところで、起きようと思っていた時間になる。
岡崎祥久『文学的なジャーナル』 は1984年から書かれたメモをもとに日記を書き起こしてあり、あらゆる日々が重なっていく日記というべきか、小説というべきか、という本だけど、日付が書かれいれば日記だと思う。
いつもよりすっきりした頭で準備をして外に出た。風が強く、ドアを開けた瞬間、空気が通り過ぎる。
いつもより遅い時間で歩くいつもの道は桜が吹雪いていて、いつのまにか満開になったんだな、とか桜のことを考える。
何回目の桜だっけと思うが、すぐに自分の年齢分かと気づく。重なった時間はいつまでも覚えていることとすぐに忘れていくことで溢れていている。すべてを書き起こすことができたらそれは物語になるのかもしれないと思う。生活が物語に変わる瞬間。4月から始めた日記には物語はあるだろうか。今のところは桜が舞っているだけ。過去の自分と今の自分はすれ違うことがなく、記憶の中だけが目の前の景色とシンクロする。
岡崎祥久『文学的なジャーナル』では、過去の日記が積み重ねられ、2005年の日記の次は違う年月の日記が書かれている。すべて同じ私なのだけれど、時間が違う私は私ではないよう読んでいて思ってしまう。
時間が自分を変えるのかもしれない。昨日書いた日記と今日の日記の僕は同じ人間だろうか。
昨日マスクが2枚配布されるということで感情のままつぶやいてしまったことを反省する。マスク2枚大喜利に参加してしまったって気分になる。みんながマスクをしている電車の中で眠ろうとするが、眠れない。人は少ない。
毎日はほとんど変わらない。
ゆかりさんからのLINEで近所のドラッグストアがすごい行列だという連絡が来た。マスクを買い求めるであろう行列らしい。半年前の僕に言っても信じられないだろう。
変わっているのかもしれない。
4月だし、新年度なのだから日記をまた始めたのだけれど、ほとんど変わらないのかもしれない。
仕事をする。コロナのせいでいつもとは違う業務に追われる。日々は変化しているのかもしれない。
仕事終えて乗った満員電車にはミスドの箱を大事そうに抱えている人がいた。幸せに見えたので、彼がいつかの僕であってほしいとふと思ったら。

『今年三十八歳の私が、たとえば二十七歳の日のことを書き起こしてもなお、それを日記と呼びうるのかどうか』
岡崎祥久「文学的なジャーナル」まえがきより

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