母の高校の同窓会
24年前の7月、母の高校の同窓会が福岡市の料亭で行われた。
卵巣がんの手術後、大腸の手術を2回して、抗がん剤も経験していた母は、体重もかなり落ちていた。
母の出身の直方市だけでなく、福岡市や東京にも同窓会支部がある。
母の体調を考慮して、福岡近辺の方を中心に集まっていただくことになった。皆さん、優しい方々ばかり。
実家のマンションは狭く急な階段しかない4階。西鉄天神大牟田線の沿線ではあったが、駅までの徒歩や駅の階段など立ちはだかるものが多い。
母も1人で行って帰ってくる自信は無かったようで、タクシーで往復することにして私は保護者として付き添った。キツくなったら早退も辞さないと言う条件で。
母は病気の事をカミングアウトしていたし、たくさんの方にお見舞いに来ていただいた。
だからこそ、同窓会への出席は母にとって楽しい目標で、悲願だったと今はわかる。
ストーマを造設していたのでブラウスにジャンパースカート、抗がん剤後で頭にはウィッグで。
ウィッグは最初の抗がん剤の時に、美容師をしていた母の妹に頼んで調整してもらったもの。
楽しく歓談している様子を撮った写真の1枚を母が気に入り、
「遺影はこれにしてね。」
と言った。
母の父も、孫の私達が遊びに行く度に
「遺影用の写真を撮って。」
と言っていたのだから、血は争えない。
昔ながらの着物をくっつけたような遺影ではないが、母らしくて良いと思った。
そして葬儀の際は、私の同級生の家がやっている写真館で引き伸ばしてもらった。知り合いの花屋さんに頼んで、写真の額の周りを蘭で取り囲んでもらった。
52歳での旅立ちだったので、祭壇の花は菊を除いて、カラフルにしてもらった。痩せてしまっていたので、薄いピンクでフリルがいっぱいついたネグリジェと揃いのガウンを旅立ちの服として用意した際、周りをカラフルな花でいっぱいにすると約束したのだった。
実家のお寺の住職も、葬儀にはオレンジ色の袈裟で登場。
「昨日お通夜に来た時に、お花がカラフルやったけんね。」
と。
手術の回数は母と並んだ。年齢はあと2歳。
夫や子ども達の中に母の記憶はない。私のアルバムの中と、遺影だけ。
先日父の遺影と比べてみたところ、父よりも顔がアップされているから怒るかもしれない。
父に関しては、思うところがたくさんありすぎる。だけれど、最期だけは迷惑をかけられなかった。死後の事務手続きは大変だったが。
少し前にも書いたが、父の遺影は姉の所にあり、母の遺影は私が持っている。法事が済んだら、姉に2人の遺影の管理をお願いしようと思う。
母の死後のいろいろなこともあったが、もう父のことを許しているかもしれないから。知らんけど。
私は同じ写真の小さいサイズを持っているから、それで充分。
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