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PTAの役員決めの季節ですねという件

お子さんのいらっしゃる方なら、おそらく誰もが経験したことのある、
PTA(Parents and Teachers Association)の委員決めがだいたい4月ごろの学校・幼稚園保育園の保護者会時にあり、なかなか立候補者が出なくて気まずい時間を過ごすことになる件。

私自身はここ4年ほどなんとなくPTA委員を務めてきて、昨年度末でいったん引退することにしたので、今年4月の委員決めは気楽な気分で参加しました。
ところが、どうしてもあと1人、委員の立候補者が出ず、司会進行の方の焦った説明と出席者の沈黙が対峙するという気まずい時間が流れ、おもわず立候補してしまいそうになりました(苦笑)。結局しませんでしたが。

Pつまり保護者が、完全ボランティアでやることって今のご時世で何があるのかなあ、とも思うのですが、いかんせん、PTAってどういう活動をしているのか4年間委員をやってもしっかりとは分かりませんでした。。。
特に昨年度はいわゆる本部役員に推されてしまって務めたのですが、それでようやく、PTAがやっていることの8割くらい?がわかった程度です。

本部役員は10名程度の人数で、みなさんよい人たちでした。
が、今回、本部役員を経験してみて、こういう、ただ子どもが偶然に同じ学校だったというだけで出会った人たちによる集団での活動って、結構難しいなあ、と思いました。

一番の難しさとして感じたのは、各人の正義感、つまり「これが正しい」「これがあるべき姿」というものが異なっていて、それがお互い気づかないままに議論が食い違って、結論がなかなか決まらない、ということでした。

あとは、誰がどういう判断基準で決めるのか、ということもすごく曖昧で(←仕事との比較なのでしょうが)、むずむずしました。
私個人的には会長がさくさく決めればいいのでは、これは会計が決めればいいのでは、と思ったりするのですが、そうもいかないようでした。。。

と思ったら、木下斉さんが、ものすごく端的にこうコメントされていました。

PTAがなぜ問題として取り上げられやすいか?皆がつかれた、もうなり手がいないということになるのか。

地域活動でもよく出てくる課題ですが、無償✖️公平✖️合議✖️正義が重なるからとんでもない労力が意思決定、執行にかかるというのがあり、結果としてなり手がいなくなってしまうという構造があります。

この木下さんの「無償✖️公平✖️合議✖️正義が重なるからとんでもない労力が意思決定、執行にかかる」というコメント、端的にまとまり過ぎていて感動しました!

あと、ありがちだなあ、と思ったのは、これも正義感と関係ありそうですが、「どこまでやるか」の感覚が揃わず、私から見ると「え!そこにそんなに時間とエネルギーをかけますか??」ということが結構ありました。

それから、社会経験となったこととしては、仕切りたい人はいるということと、わいわいやりたい(レクリエーションとか飲み会とか)人はいるということでした。
私自身は、PTAという仕事をさくっとやってさくっと帰る派の人だったので、結構浮いていたかなあと思います。

PTAの活動の意義は理解しているつもりです。
でも、私自身は、PTAで全員が一度は参加、みたいな公平・平等はもういらないんじゃないか、と思っている派です。
それは、自分がこれまで、平日のPTA活動に仕事との兼ね合いでPTAに全く参加できなかったところ、「float2024さんはPTAに参加しない人=非協力的な人」という烙印を押されてしまい、「非協力的じゃない!平日昼間リアル参加できないだけなのに!」という悶々とした思いを抱えた時期があったからです。
だから、PTAの活動はなるべくゆるく、かつ「平日昼間リアル参加」以外の選択肢を増やせればいいなあ、と思います。

また、学校と保護者の関係性も、自分が子どもだった昭和時代とはすっかり変わってしまったような気がします。
なんとなくですが、PTAという「集団」は、学校はあまり扱いたくないような印象を受けました。保護者は「個人」として扱いたいというのが今の学校ではないかという印象です。
少なくとも、あまりPTAと一緒にやりましょう、という学校の姿勢は感じませんでした。たまたまそういう学校なのか、たまたまそういう先生たちとの巡り合わせだったのかもしれませんが。

というわけで、なかなかに勉強になった1年でした。
また本部役員をやってください、と言われたら、昨年と同じスタンスでよければやってもよいかなあとは思います。ほかに誰もいなければ、そして土日かオンラインでの活動がメインであれば。。。


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