見出し画像

神様

こんばんは。呟きです。

みなさんは神様って信じたことはありますか?

私の母方の家族はいわゆるキリスト教徒です。

母のお腹の中にいる時から教会という場所には行っていたし、
物心がついた頃から私の生活には神様がいました。
聖歌隊としても頑張って歌っていました。

神様は肉体を持たない目に見えない存在であって、
常に私たちのどんな行動を見ている。
だから嘘なんてお見通しだし、心の中までも見えてしまう。
心を綺麗にしておくと喜んでくれるし愛してくれる。
そして人間だから悪い事や過ちを時には犯してしまうけど、
きちんと反省して謝ることが出来れば許してくれる。

小さい時から恵みを理解して感謝する事と、自分の行動を振り返り反省する事を祈りを通して神様によく伝えていました。

あの時は、本当にずっと神様は見ていると感じていました。

朝起きた時、寝る前、ご飯を食べる前、学校に行く前、

いつも祈っていました。

私はとくに怖がりで緊張しいであったので、神様にしがみつくように祈るような子供でした。

届いてるかどうかも、なんとなく気持ちの込め方でわかります。

いい加減にいつものセリフを唱えて祈ると聞いてはくれませんでした。

大人になってからは、少し神様を遠ざけてしまいました。

自分に降りかかった試練というものも、恵みも、
辛いと悲しいでいっぱいになってしまって
どうしようもなくなってしまいました。

いつの間にかどう信じていたのかも、わからなくなりました。

神様を信じられなくなってからは、
他人に依存的になって気がします。

目には見えない愛より、
目の前にいる人からの愛が欲しくなりました。

だけど、愛は欲しいと思えば思うほど虚しく堕落するだけです。

そして自分のことを見失う事が増えたような気がします。

私がいた宗教の在り方と教訓にはどうも肌に合わなくて、
教会に行くことは辞めてしまいました。

母には教会にいる人間を見ているから心病むんだ、と言われました。
一理あるのはわかるんです。
だけど宗教も人が運営している場所です。
人間性を避けることなどは無理でした。

私は今はもうキリスト教徒ではありません。

だけど、教会には行けないけど、

今でも神様のことは信じたいと思っています。

何を信じるかは他人が決められるものではありません。
自分の心が自然とそうさせるんだと思います。

信仰心は強制するものでも、されてはいけないと思うんです。

教会のことは正直、大嫌いでした。

こんなこと言ったら、とんでもない天罰食らうかも。

だけど、嘘もつけません。

神様を信じる自分は好きでした。

気持ちをいつも整理できて、吐き出すことができていました。なにより強くあれた気がします。

だから、またその心を取り戻したいです。

大人になってからのが難しいかもしれませんが、
頑張ってみたいと思います☺️




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?