3 私たちは、対話を忘れてはいない。
商店街を少し進み、パン屋レオの角を曲がって小路へ入った。曲がってすぐにある木のベンチには、制服を着た高校生と見える二人が座って話をしていた。
「どうも、科戸です」私もベンチに横並びに座った。
「こんにちは、僕は土田で」
「萩原です」
そうお互いが名乗ったところで、私が来た商店街とは逆の方向から、細身で眼鏡をかけた見知った一人がやってくるのが見えた。こちらに向かって大きく手を振っている。はっきりとは見えないが、あれは笑顔だ。学生二人もつられて笑顔になっている。これだけで今日も及第点だと思った。
「こんにちは、神南です。これから話そうってところかな」
神南さんは、近くに立てかけてあった折りたたみ椅子を持ってきて座った。随所にある椅子が、他の商店街とは違う渋谷区アゴラの特徴的な光景といえる。ちなみにこの椅子はパン屋レオの店主が寄付したもので、私のお気に入りの帆布のオシャレチェアだ。
アゴラ内では、初対面だろうと既知の相手だろうと、ひとまず声をかけ名乗る。相手の名前を尋ねる手間や、名前を忘れてしまって思い出せないときのストレスをなくしたいから、そして、名前という記号による人の認識が対話を楽にするからだ。最も大事なのは、今この時の対話を楽しむこと。人付き合いではない。
「うん、これからってところ。科戸です。こちらが土田さんで、こちらが萩原さん」
なぜか神南さんは、もう一度二人に対して目の前で手を振る。
「はい、コロッケよかったら」
「やった」「いただきます!」「ありがとうございます!」
家に帰って晩御飯を食べる者にとって、空腹までの時間を少し伸ばしてくれるコロッケの類は、この時間のアゴラと相性が良い。
「コロッケうますぎ」「うま!」「最高!」
「そりゃよかった」
好みや興味の対象、意見、言動は変化する。変化する度に、その新しい姿ありのままをお披露目できる場が得難くなるように感じる。変化したそれらは、その場に適した旧型の衣装を着る。過去の自分の言動とずれないように。ずれを指摘されるのが面倒だから。そもそも真の今の自分をお披露目したいと思う相手ではないから。家族と話す内容、同じ部活や同じサークルだった人と話す内容、職場で話す内容はそれぞれ分類される。本当は既に興味がなくても、本当に言葉にしたい内容とは違っても、その相手の分類にあう衣装を、話題を、言葉を選ぶ。
渋谷区アゴラでは、経歴や人間関係および所属する組織やコミュニティといった、普段自身に取り付けている装身具を外し、衣装をクローゼットに仕舞う。話に必要であれば身に付けずに前に並べて示せばいい。自由な一人として、そこにある議題に対峙し、今、目の前の人間と対話し、言葉を交わす。しがらみや立場等に興味はない。
今、自分が思うこと、考えること、話したいこと、それでいい。過去の自分と一貫させる必要はなく、未来に影響することもない。自分や相手の年齢、歳の差も関係ない。未成年だって考える。着想や思想がある。私は、大人になる前でもずっと、何かを真剣にたくさん考えていた記憶がある。他の人もきっとそうだ。自分の言葉が相手をすり抜けるあの虚しさを、同じ孤独感を、誰かに与える必要なんてない。あの時の大人と同じ大人にはなりたくない。そう根に持つ私はまだ子供だろうか。真の今の自分に衣装を着せることが当たり前に上手くなって、対話を忘れる大人にはなりたくない。私たちは、対話を忘れてはいない。
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