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「くたばれ、正論。」が炎上した理由 ~常識の盾に守られた大人たちの言葉は、すぐに見透かされる

令和3年1月11日、成人の日の読売新聞朝刊に載ったある広告が、瞬く間にインターネット界隈をにぎわせることになる。
Red Bull Japan が出したこの広告である。

タイトルなし

「くたばれ、正論。」
“この世の行き過ぎた正しさが、君の美しいカドを丸く削ろうとする。正しすぎることからは、何も生まれない。常識を積み重ねても、所詮それは常識以外の何物でもないから。自分の感受性を守れ。自分の衝動を守れ。自分の中のバカを守れ。本能が面白いと感じる方へ動くんだ。まっすぐ、愚直に、大きくいこう。“

Red Bullと言えば、エナジードリンクが有名だが、数多くのアスリートのスポンサーになったり、eスポーツの大会を開催したりするなど、若者の活動や文化をサポートする企業活動も活発である。
そんなRed Bullが成人の日に、若者向けに発した「くたばれ、正論。」という広告が、コロナ禍の文脈も相まって、Twitterなどの場で賛否両論の話題となった。
否定的な意見では、「正しさよりも楽しさを優先した結果、コロナ禍になってるのに」「コロナウイルス関連で陰謀論にフェイクニュース飛び交いまくりの今のタイミングでこれ?」などの意見が書かれている。
一方で、「たとえ正しくても行き過ぎるのは良くないって話でしょ」「“正しくない”コピーに罵詈雑言浴びせるこの現象がこのコピーの正しさを表してる皮肉」など、肯定的な意見も見られた。
「くたばれ、正論。」というRed Bull広告の、いったい何が百家争鳴の事態を招いたのか。

このキャッチコピーの下に書かれている文章を、接続詞などを補いつつ読み解いてみよう。
(「」部の接続詞などは筆者が補ったもの)

この世の行き過ぎた正しさが、君の美しいカドを丸く削ろうとする。
「そして」正しすぎることからは、何も生まれない。
「なぜなら」常識を積み重ねても、しょせんそれは常識以外の何物でもないから。
「だから」自分の感受性を守れ。自分の衝動を守れ。自分の中のバカを守れ
本能が面白いと感じる方へ動くんだ。まっすぐ、愚直に、大きくいこう。

これを、理由、結果、主張が分かりやすくなるように、順番を並び替えてみる

常識を積み重ねても、しょせんそれは常識以外の何物でもない。(理由)
「だから」正しすぎることからは何も「新しいものは」生まれない。(結果①)
「そして」行き過ぎた正しさは、君の美しいカドを丸く削ろうとする。(結果②)
「だから」自分の感受性を守れ。自分の衝動を守れ。自分の中のバカを守れ
本能が面白いと感じる方へ動くんだ。まっすぐ、愚直に、大きくいこう。(主張)

こう見てみると、キャッチコピーの下に書かれている文章に、大きな破綻がないことがわかる。
若者にとって、古い大人たちが作ってきた常識や正しさの価値観が、息苦しくなることはよくある。
イノベーションは、それらの常識や正しさを壊した先にある、ということもよくあることだ。
だからこそ若者よ、そんな常識や正しさに縛られずに、自分の感受性を信じ、本能が面白いと感じる方へ進んでいこう、という主張は間違いではないし、エナジードリンクやeスポーツなど、若者をマーケティングの中心に据えるRed Bullの方向性として、正しく見える。

一方で、「常識」と「正しさ」と「正論」という、似てはいるが完全に一致するわけではない語彙を、同義に扱い、意図的にミスリードしていることが否定的な意見につながっているのではないか、という意見もある。
「くたばれ、常識。」なら理解ができた、という意見がTwitter上であったのも事実だ。
ここまでの解説は、「『くたばれ、正論』について考える。」(https://note.com/make_wow/n/n924dcfc7fa1b)に詳しいので、興味があれば参考にしてみてほしい。

さて、では、Twitter上などのネット民は、本当に上記のような、接続詞を補い、文章の順序を入れ替え、語彙の微妙な違いを精査するような精細な思考をして、この「くたばれ、正論。」というコピーに噛みついたのだろうか。私には、そうは思えない。もっと本能的な何か、一瞬でこのコピーの嘘や欺瞞を感じたからではないだろうか。

そのヒントとなる思考が、岡本太郎の著書に見て取れる。
岡本は、その著書『自分のなかに毒を持て』の中で、
「人生を真に貫こうとすれば、必ず、条件に挑まなければならない。いのちを賭け運命と対決するのだ。そのとき、切実にぶつかるのは己自身だ。己が最大の味方であり、また敵なのである。」
(岡本太郎. 『自分の中に毒を持て<新装版> 』Kindle の位置No.243-245. 株式会社青春出版社.)
と書いている。
自分の感受性を守り、衝動を守り、本能が面白いと感じる方へ進むという、このRed Bullの広告をまさしく地で生きた岡本は、本能が面白いと思う方向へ進んでいくことは「自分で自分を崖から突き落とし、自分自身と闘って、運命をきりひらいていくこと」(岡本太郎.『 自分の中に毒を持て<新装版> 』Kindle の位置No.225-226. 株式会社青春出版社.)であると書いている。
つまりは、本能が面白いほうへ進んでいくときに戦うべき相手は、古い常識でも行き過ぎた正しさでもなくて、自分自身であると書いているのである。
そして、そんな自分自身が「最大の味方」であると同時に「最大の敵」でもあると述べているのだ。
では、美術界から異端扱いされた岡本が述べる「自分自身との闘い」は、岡本特有の、彼だけが持つ感覚なのであろうか。

考えてみてほしい。私たちがいま、この生活において、本当は十分に満足してはいなかったとしたら、それは社会のせいであろうか。
人生において大きな選択があった時、安全に思える安定した道を選んで進んだのは、本当に常識や正論のせいであろうか。
多くの人が、その選択の時に、弱い自分が自分自身に負けたという「隠したい微かな記憶」抱えているのではないだろうか。
だからこそ、岡本の生き方と、この著書の言葉に得も言われぬ感情を抱き、細い針で刺されるような痛みを感じ、隠していた記憶を暴かれるような微かな恐怖を感じるのだ。

一方で、Red Bullを見てみよう。
この広告では、若者に対して、彼等自身に向けられるような厳しい視線は全く出てこない。
敵として出てくるのは、社会の「常識」であり、行き過ぎた「正しさ」であり、そしてくたばれと叫ぶ「正論」である。
人々は、自分の弱さに対して目を向けたくはない対象だが、いや、目を向けたくないからこそ、常に心のどこかで負い目を感じている。
誰もが持つ「弱さ」には触れられずに、仮想の「敵」として、ありがちな「常識」や「正しさ」、「正論」を持ち出してきたこの広告に、本能的に欺瞞を感じたのだ。
そして、さらに状況を悪化させたのは、この広告を発案し、協議し、精査し、決裁した過程において透けて見えるのが、広告主であるRed Bull自身が仮想の「敵」と認定した「常識」や「正しさ」、「正論」の枠の中に収まっている、そしてそれらに守られている大人たちだということに、本能的に嫌悪したのだ。

生まれたときからインターネットが身近にあり、テレビや新聞などのマスメディアだけではなく、有益、無益、様々な言論や言説に触れてきた現代の若者をなめてはいけない。
自分の感情や心の動きを言語化できるかどうかは別にして、奥に隠された嘘や欺瞞を本能的に感じ取る能力は、大人たちとは比べ物にならないほどに発達しているのである。

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