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VRで家族に会うという未来

写真出典:https://www.photo-ac.com/

父「はるえばぁちゃんのことって覚えてとる?」

娘「としあきじいちゃんの記憶はあるかなぁ。っていうか◯◯(むすめ)の最初の記憶は、としあきじいちゃんかも。‥としあきじいちゃんが寝とって、お星さんになったんよ。って言われて、たぶんもう会えん思って泣いた記憶がある。」

父「なるほど。めっちゃ衝撃的だったんやな。ってことは◯◯(むすめ)が2歳かな?あっ、ほら覚えてないわ。はるえばぁちゃんが亡くなったん、○○(むすめ)が1歳か0歳だったってことになるもんな。」

なんて話をした。

入院していた祖母

僕には、20年近く入院をしていた母方の祖母がいた。(娘からすると曾ばあちゃんになる。)
入学、結婚、子ども・・・、人生の節目には必ず病院に行った。
それら以外にも、母につれられてお見舞いに行くと、ゼリーとかプリンを一緒に食べながら運動会でベトだったとか、野球部でキャプテンになったとか、テストがどうだったとかそんな普通の話をよくした記憶がある。
いつも帰り際に小遣いをくれる。うまくしゃべることができないけど、聞き取れる。

引き出しから財布をだして。
祖母が母に言うセリフ。母は遠慮するが、強く欲求され、最後には財布が祖母に渡される。僕のために用意した五千円札を母に渡していた。
血液の病気だったと聞かされていたが、祖母は半身が麻痺して歩くことができない。それでも調子のいい日は母が祖母の体を起こして病院のベットの横に座って話をした。

ソードアート・オンラインで感じた可能性

祖母(母の親)が亡くなって10年ほどたつが、数年前にSAO(ソードアート・オンライン)を見たとかきら、VR(バーチャルリアリティ)は何らかの個人的な制約や制限があって、人に会うことが困難となったとき、大切な人と会う手段になりうるのでは?と考えるようになった。そして、数年前に感じた未来(コロナ禍となった今)を思い返すと、ここ数年でテクノロジーが一気に飛躍し、さらに加速するのではないかと感じる。

まずSAOについてだけど、超有名かつ本当にすごいアニメ。
2002年に第9回電撃ゲーム小説大賞応募用に執筆された作品が原作だったそうだが実現できなかったため、執筆者自信のWEBサイトに掲載したとか。それが2002年から2008年7月まで続いたそうだ。

あらすじ

西暦2022年、1000人のユーザーによるベータテストを経て世界初のVRMMORPG「ソードアート・オンライン」(SAO)の正式サービスが開始され、約1万人のユーザーは完全なる仮想空間を謳歌していた。
しかし、ゲームマスターにして開発者である天才量子物理学者の茅場晶彦がプレイヤーたちの前に現れ、自発的ログアウトは不可能であること、舞台「浮遊城アインクラッド」の最上部第100層のボスを倒してクリアすることだけが脱出する唯一の方法であること、そして死亡した場合には現実世界のプレイヤー自身が本当に死亡するということを宣言した。プレイヤーの1人である少年キリトはこの絶望的な狂気のデスゲームで生き残るべく戦うことを決意し、始まりの街から旅立ってゆく。
出典:ウィキペディア

SAOの世界観は、五感もろともVRで再現(フルダイブ)されていて、匂いや味まで体感できるというものだ。要するに、VRで現実世界と同じように活動できるのだ。でもソードアート・オンラインの面白いところはそこじゃない。仮想空間だからこそモラルやマナー、人間関係の重要性を説いたり、ターミナルケア(終末期医療)の可能性など、技術が成熟するとともに課題になる部分や必要とされるカテゴリーも繊細に描かれているところだ。

ストーリーが進み、開発者(現実世界の体は死んでいるが、意識の乖離に成功し、仮想世界で生きている可能性あり)が現れると、ザ・シードと名付けた仮想空間のオープンソースを提供する。それらは全世界に広がり、同じプラットフォームに異なる仮想空間がまるで小宇宙が点在するかのように開発されていく。

その中でも最も衝撃を受けたシリーズはソードアート・オンラインⅡ。
「ユウキ」という最強のキャラクターが登場するが、ユウキにはゲーム内のある階層のボスを倒して剣士の碑にメンバーの名前をどうしても刻みたいという想いがある。主人公と行動をともにしている「アスナ」にメンバーに加わってもらい、共闘でボスを倒して親友同然になるのだが、ある日とつぜん姿を消してしまう。

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©アニプレックス TVアニメ「ソードアート・オンラインⅡ」
第20話「スリーピング・ナイツ」予告編より引用
※左がユウキ、右がアスナ(仮想現実でのアバター)

実はユウキは末期のHIV患者で、ボス攻略戦も最後の思い出作りが目的。

その後、真実を知り病院を訪ねてきたアスナに「学校に行きたい」という願いを吐露し、和人(主人公でアバターの名前はキリト)らが作った視聴覚双方向通信プローブ(仮想空間と現実世界を映像と音声で接続できるデバイス)を利用してアスナと共に学校へと通う。

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©アニプレックス TVアニメ「ソードアート・オンラインⅡ」
第23話「夢の始まり」予告編より引用
※アスナの肩に設置しているのが視聴覚双方向通信プローブ

実際は、ユウキは仮想空間にフルダイブしたままの状態で、病院のベットで寝ている。
つまり、現実世界に視聴覚双方向通信プローブ(映像音声入出力デバイス)を用意することで、仮想空間から現実世界を見たり、現実世界の人と通話することがきるようになっているのだ。WEB会議システムをイメージするとわかりやすい。ただし、ここで重要なのは、片方が仮想空間にいるといった概念である。

ちなみにソードアート・オンラインの世界観は原作が2002年であるにも関わらず2022年の設定がデジタル教科書を始めとし、常時ネットワーク接続環境が整備がされている社会(おそらく5Gレベル)で、VR技術も2022年にはフルダイブ機能が完成している。

VRで繋がる妄想

僕が大切な人と会う手段になりうるのでは?
と可能性を感じたのは3パターンある。

妄想パターン1
まずパターン1は現実世界からVRに入り、さらに現実世界と双方向に通信する技術である。

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SAOで描かれたパターンだ。
現実世界で活動する人がデバイスを提供するパターン。例えばUberみたいなサービスと連携させることができれば市場価値があるかもしれない。

妄想パターン2
次に、MR(複合現実)技術を利用したコミュニケーションのかたち。

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VRは基本的に利用者にデバイスが必要となる。しかし、MRを外部出力デバイス(代表例でホログラフィー)を利用して現実世界に可視化できれば、常にアバターを現実世界に投影することが可能になるのではないか。といったイメージだ。
ただし、場所が限定されてしまうといった課題がのこる。

妄想パターン3
そこで、最後にパターン2の拡張である、視聴覚双方向通信プローブが遠隔もしくは自律移動できれば?といった妄想である。

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例えばドローンや2足歩行ロボットに実装し、VRからそれを操作することができれば、病院のベットにいながらVRから現実世界を散歩したり、家族と旅行に行くことも可能になるかもしれない。
このパターンをマーケティングするならば、シェアサイクルのイメージだろう。ロボットやドローンを乗り捨てOKにして、現実世界の遠隔操作可能なデバイスを地図上にプロットさせ、ダイレクトにサービス接続して利用することができれば面白いかもしれない。

妄想パターン0
もちろん、以前からある概念で仮想空間に世界を完全コピーし、そこで完結するパターンもありだと思う。そこで人と人のコミュニティは存在できる。おそらく今後進むパターンだろう。
しかし、僕の妄想は仮想空間と現実世界の境界を限りなく無くした世界なのである。

人に会うということ

今のテクノロジーでフルダイブは難しいかもしれない。
現実に勝るものはないといった狭義もあるだろう。
だがしかし、そこに相手の存在を認識できれば、もはや存在するといった現実があるんじゃないか。
そもそも認識とは、眼球を外部デバイスとし、インプットされた情報を脳が認識しているに過ぎないのであれば、一体何を持って存在を定義できるだろう。
アスナが仮想空間と現実世界の違いは?と尋ねた時のキリトの答えが秀逸すぎる。

「情報量の違い」

この回答はVRそのものの本質を言っているのではないかと思う。より情報を増やすことで現実世界と同等の仮想世界が体現できるが、その先があることを示唆している。

つまり、情報量を増やし続ければ、仮想空間が現実世界を上回ることも可能だということだ。拡張(現実では存在しない生物を創造)したり、調整(痛みの感覚を軽減)したりできるのである。
やりすぎ感がおもしろいのだが、最新作のアリシゼーションでは仮想世界の時間軸まで拡張している。

例えば、妄想パターン0において、仮想空間と現実世界を自由に行き来することができれば、これはどこでもドアが実装されたことになり、身体的な制約で海外旅行ができない人がマチュピチュに訪れることができる。そこに情報を拡張すれば、歴史書を持ち歩かなくても現地でインカ帝国がどうだって、農業はこのように発達し、このような構造物が作られている。といった学びを誰でも得ることができるようになる。
ビジネスの場においても、社会資本そのものが仮想空間で再現されているのであれば、測量設計の工数を極端に減らすことができたり、建設工事の設計図を仮想空間でトレースすることで竣工後に周辺環境に与える影響など、起こりうるトラブルを減らすこともできるだろう。

しかしVR技術の一番の可能性はそこじゃない。
僕は人のつながりや、どうすることも出来ない個人の問題の解決や、ネガティブな部分の選択肢を増やすことではないかと感じている。

病院から出ることができない人が、仮想空間で家族や友人と会話したり、もしくは現実世界でデバイスを利用して友人と一緒に旅行にいったりできるようになった時、そこにどのような想いが生まれるのか。人は選択肢がなくなった時に絶望すると言われているが、希望がもてる材料になるかもしれない。
そうなってほしいといった希望的妄想である。

結局のところ、「そうでない人(僕自身)」のエゴでしかないのかもしれない。
でも、おばあちゃんと一緒に仮想空間で話したり、手をつないで歩いたり、もしくは現実世界の動物園や遊園地で同じ場面を共有して会話をすることができたなら。
もしかすると、としあきじいちゃんは毎日通う病院まで通う道のりで、バイクで転んで怪我をしなかったかもしれない。
何よりも、僕がおばあちゃんの事をもっと知れたかもしれない。

最近新型コロナウイルスで「家から出ることが出来なかったり、親しい人にあえなくてストレスがたまる」といったコメントをよく見かけた。そんな中、不意に病院で何年も過ごしていたおばあちゃんの気持ちとか、おばあちゃんが望んでいたことって何だったんだろうって考えるようになり、そしてこのような妄想を広げたのでこの記事を書いてみた。

初めての記事投稿で、見苦しい文面になりとても恐縮ですが、最後まで見ていただき、本当にありがとうございました。

参考

日本バーチャルリアリティ学会
https://vrsj.org/

VRのための研究をしたい人へ 〜VR研究分野マップ〜|yunoLv3 @yunoLv3 #note https://note.com/yunolv3/n/n684f3bcb4e52

TVアニメ「ソードアート・オンライン」オフィシャルサイト
https://www.swordart-online.net/sp/

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