「わからないこと」を「わからない」といえること
知人Aさんと会話をしていて、以前Aさんが面白いと言っていた作家B氏についての話題になった。
私はAさんに質問をした。
「以前Aさんが話題にあげていた作家B氏について私は興味を持っています。B氏の作品を見ていこうと考えていますが、あなたのオススメのB氏の作品や、B氏の考え、面白いエピソードなどがあれば教えて下さい。」
するとAさんはこう答えた。
「ああ、B氏ね。あの人は声が悪い。頭がいいけれど、声が悪い。」
それ以外には情報はなく、「Aさんにとって作家B氏は頭がいいが声が悪いのでAさんは評価していない」という記憶が残った。
帰宅後、ネット上にあるB氏のトークを聞いてみた。あくまで私の主観だが、作家B氏の「声」は特にこもっているわけでもなく、滑舌もはっきりしていて聞きづらいということもなかった。
改めてAさんとの会話を思い出してみると、Aさんは私の質問に何一つ答えていない。
オススメのB氏の作品→返答なし
B氏の考えについて→返答なし
B氏の面白いエピソード→返答なし
Aさんから帰ってきたのは質問の返答ではなく、話題にあるB氏についての明後日の方向の情報、身体的な評価「声が悪い」ということ。
Aさんは作家B氏やその作品について詳しくないのではないだろうか?
なぜわからないならそう言わないのか?
B氏の作品や精神や思想に詳しくない事を隠すために、身体的なものへと論点をすり替えていないか?
それからAさんとの会話を色々と思い出していくと、割と頻繁に似たようなすり替えが行われていることに気がついた。
Aさんはわからないことをわからないと言えない人。わからないことを隠すためにこのような論法を使う。
そう気がついてからは、Aさんの知識に対しての信頼が一気に崩れた。わからないことも含めてわかる分でどう思っているのかを返してくれればよかった。Aさんは私からの信頼に対して「わかってるふり」で答えた。
安易な知ったかぶりは、信頼を失う。
私は日頃常に、「わかる」ということはかなり難しいと考えていて、様々な知識、そのジャンルに仕えている専門家にはリスペクトをもっている。
「知っている」ことと「わかる」ことはちがう。
知人と友人、友人と親友の違いのようなものだ。
それでも修行がたりず、振り返るとたまにクソみたいなプライドに負けてわかっているフリをしてしまうこともあった。
近年ではその癖も抜けて、信頼する相手にはわからないことを率直に伝え、疑わず問い、聞く事ができるようになった。
それだけに「わかるフリ」をすることの弱さ、滑稽さ 、空虚さが身にしみる。
結局はその薄皮はすぐに剥がれてしまい、落ちた皮はだんだんと積もり視界を奪う。
たとえその時は良くても、自分と向き合わなかった人には大小それ相応の報いが帰ってくる。
そのまえに、どうか足元の塵を払ってほしい。
自戒の念を込めてここに記してみた。
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