猿江恩賜公園、横十間川、2018

画像1 石に刻まれた文字はほとんど読めなかった。しかし内容は戦災に関することではないみたいだ。この公園の由来について書いてあるのか。東京大空襲についての案内表示は、やはりこの公園でも見ることはできなかった。
画像2 緑の多い静かな公園。この公園は新大橋通りをはさんで南北に別れているが、南側の開園は1932年(昭和7年)。北側は貯木場として使われ続け、公園としては1981年の開園。戦時中にあったのは南側だけだ。
画像3 池ではザリガニ釣りをしている人がたくさんいる。餌のスルメを掴んだところを、そっと引き上げる。
07_-_コピー 水場が多い
08_-_コピー もうアジサイが咲いていた
09_-_コピー ギンヤンマが池の上を飛び回る
画像7 平日だからなのか、一般の人が少なく、高校生の姿が多かった
画像8 トイレに貼ってあった注意書き
画像9 猿江恩賜公園は錦糸公園と並んで、仮埋葬の数が多い公園だった。東京都公園緑地課の集計では、12,749名が仮埋葬されたとのことだ。錦糸公園もそうだが、それほど広大な面積ではない。「もう死体が一杯で、死体のヒザやカカトの骨が残っていて、歩いていて踏むと、コツンコツン音がするという有様でした。死骸の山で、体数を調べろといわれても調べようがない」」「ちょうどタクアン漬けと同じですから、掘り起こしたときは、湯気が出ているんです。腐って一緒になってしまったので、何体あるかわからないのです」(戦災殃死改葬事業始末記)
画像10 「猿江公園の野球場では、個別に埋めて墓標をたてたのが、みんな持っていかれました。マキにするために、都内全域にわたって、出入り自由の所(公園)などはその被害に悩んだものです」(戦災殃死改葬事業始末記)
10_-_コピー 猿江恩賜公園の横を流れる横十間川。水に漬かって、重くなった死体を引き揚げるのは大変な作業だった。「こうして川いっぱいの死体をやっと引き上げると、翌日の満潮時には、また川いっぱいの死体が浮かぶ。作業員たちはくたくたになって重い死体をようやく片づけると、その翌日の満潮時には、また川いっぱいの死体で、いったいどこから来るのか皆目わからない死体の攻撃に、死体収容関係者は悪戦苦闘をつづけた」(東京大空襲戦災史・救援隊長の記録)
11_-_コピー 横十間川と小名木川が交わる場所にある小名木川クローバー橋。1994年完成。

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