言問橋、2018

画像1 「名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」  隅田川にかかる言問橋の名前の由来は諸説ある。そのひとつはこの在原業平の歌である。
画像2 言問橋は関東大震災の震災復興事業として計画された。もともとは「竹屋の渡し」と呼ばれた渡船があった場所で、3年近くの工期を経て1928年(昭和3年)2月10日に竣工した。橋脚には改修されていない当時のままの箇所が残る。
画像3 橋長238.7m幅員22m。橋の上は国道6号で、多くの人や車が往来する。東京スカイツリーも近く、観光客の姿も多い。
画像4 言問橋は東京大空襲で惨劇が起こった場所として知られている。台東区側からも、墨田区側からも火災から逃げてきた人が殺到し、橋の上は身動きもできないほどの人と荷物にあふれていた。そこへ両岸から降り注ぐ火の粉によって服や荷物に火が付き、逃げることもできずに橋上で多くの人が焼かれていった。火がおさまった後、死体を踏まずに橋を渡ることができなかったという。
画像5 欄干を越えて隅田川に飛び込んだ人も多かったという。しかし混乱の中で多くの人は溺死し、助かった人は少なかったらしい。
画像6 隅田川をはさんで東西の両岸に分かれて隅田公園がある。この公園の西岸側に慰霊碑がある。またそこの案内板にはこの地が死者を仮埋葬した場所であることが明記されている。
画像7 「あゝ 東京大空襲 朋よやすらかに」 いつもこの前を通っているのであろうか、サラリーマン風の男性がこの碑の前を通り過ぎる時に立ち止まり、手を合わせていた。
画像8 碑の左隣には色鮮やかなたくさんの千羽鶴。
画像9 碑の右隣には、1992年に行なわれた言問橋の改修時に取り外された橋の欄干の基部が置かれている。黒くなっているのは東京大空襲で焼かれた人の血や脂が焦げ付いたものだとも言われている。
画像10 江戸東京博物館に保存されている言問橋の欄干。空襲による死者はわが国では「殃死(おうし)」と呼ばれる。「殃死」とは「予期しない災難や非業の死」あるいは「野たれ死」や「行き倒れ」などで使われることもある言葉だ。3月10日の東京大空襲の後、18日の天皇の視察の前に軍や囚人までも動員して、殃死した死体は大急ぎで埋められて処分された。東京の空襲で殃死して無縁仏となった10万人以上の遺骨は、現在は横網町公園の東京都慰霊堂に収められている。「わが思ふ人は ありやなしやと」在原業平の歌が、違う意味で迫ってくる。
画像11 歴史とは積み重ねていくものだと思っていた。しかし今の日本は過去に現在を上書きするように、悲惨な歴史を消去して都合よく歴史を書き換えようとしているように見える。巨大な商業施設や公園の地下に、そして川や海の底に多くの人の骨と涙が封印されたままになっている。それは今、普通に生活しているだけでは気づくことができない。まるで事故物件を隠しているようなこの日本の姿は、歴史に正しく向かい合っているのだろうか

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