見出し画像

夢野久作「木魂」

引用は青空文庫のpdfテクストに拠る。
底本:「夢野久作全集」ちくま文庫、筑摩書房 1992年1月
底本の親本:「瓶詰地獄」春陽堂 1933年5月

<あらすじ>

主人公は幼い頃から好きな数学に熱中していると、学校の図書館や人通りの無い国道、放課後の教室で、知らない声から呼びかけられる経験を繰り返していた。
それを木魂と呼び、自分自身の魂の声だと考えるようになる。
小学教員となった彼は、キセ子と結婚し、一人息子の太郎が生まれた。
太郎のことを愛しながらも、数学的才能を他人の前で発表することのないよう命じていた。
また、生まれつき素直だった太郎は、肺病で亡くなったキセ子の遺言を守り、学校への近道である線路にも立ち入らなかった。
しかし、あの日列車に轢かれて死んでしまう。
それからというもの「お父さん、お父さん」と最愛の息子の呼び声が主人公を襲うようになる……

宮比ひとし「夢野久作『木魂』呼び声が聞こえた時に読む小説」『宮比ひとしのよりみち雑文集』2020年11月16日(最終閲覧日:2023年1月5日)https://miyayori.com/call-novel


<追記>
もしも同じゼミの方でこの記事を偶然見た方がいらっしゃった場合
→内容はゼミ前に考え、資料編から先行論の情報だけ頂いたんですが、内容についての話(タイトル、精神分析、電車と時間……)が本当に驚くほど類似していて戦きました。決して発表者の方のお話と関係させたりそれを模倣してこの記事を書いたりしたわけではないので、ご容赦ください。本当に偶然です😭(もちろん記事の修正はできますが、投稿時間もぜひ判断材料にして頂けたら…)


<本論>

⋯⋯俺はどうしてコンナ処に立ち佇まっているのだろう⋯⋯踏切線路の中央に突立って、自分の足下をボンヤリ見詰めているのだろう⋯⋯汽車が来たら轢き殺されるかも知れないのに⋯⋯。
p.1

いきなりこの文章から始まって笑ってしまった。やっぱり今回も今回で夢野節が炸裂している。明らかに神経衰弱しているだろうとしか思えない男のネガティブな独白、三点リーダーの乱用、唐突なカタカナ表記…。夢野作品で逆にこれ以外の文体があるのか教えて欲しいくらいである。

文体といえば、初読の際にこれは三人称語りだが、内的焦点化が頻繁に行われる書かれ方なんだなぁ、それにしては読んでいて主人公の内声と同化する感覚が強いな…と感じていたが、先行論では人称の問題について多く語られており、三人称で語られているにもかかわらず一人称語りのように読めるという点は、「日本の近代文学の常識を破っている」(1)と評価できるようだ。

また、タイトルの「木魂」は「木」の「魂」と書いて「すだま」と読むらしい。この読み方は初めて知った。その意味について、作中では一応、「主の無い声」(p.4)という言及があるけれど、「木霊・谺」と書いて「こだま」と読む、声が追いかけるように響く現象とかけていたり、「魑魅」と書いて「すだま」と読む、山林の精・妖怪とかけていたりもするのかなぁ。

「⋯⋯何にも雑音の聞こえない密室の中とか、風の無い、シンとした山の中なぞで、或る事を一心に考え詰めたり、何かに気を取られたりしている人間は、色々な不思議な声を聞くことが、よくあるものである。現にウラルの或る地方
では「木魂に呼びかけられると三年経たぬうちに死ぬ」という伝説が固く信じられている位であるが、しかもその「スダマ」、もしくは「主の無い声」の正体を、心霊学の研究にかけかてみると何でもない。それは自分の霊魂が、自分に呼びかける声に外ならないのである。
p.4


あと、これは夢野の書きぐせだったかどうか調べないと判断できないが、かなりの数、単語の繰り返しを行うことで登場人物のセリフ以外にも木霊を感じさせる効果をもたせているのは上手いなと思った。

やはり数学の問題を考え考え一本道を近づいて行くと
p.3
高い高い堀割の上半分に
p.8

内容に対する私的な感想としては(『ドグラ・マグラ』とは異なり!!)話としてすごく分かりやすかったし、主人公の嘆きが、夢野の文体によってストレートに入ってきて非常に読みやすいと感じた。
自分の身内が亡くなったとして、その亡き姿を追い求めなくなるのはいつなのだろう。日常のふとした出来事や周囲の環境に、故人の面影を感じて涙しなくなるのはいつなのだろう。自分は、以前8年もの間、共に過ごした文鳥が亡くなった時には、身体の底から慟哭が溢れて止まらないという体験をした。そして追憶の悲しみから逃れられず(今でこそ克服したが)2年間は鳥そのものを愛でられなくなった。いつかまた近しい存在の死に対面しなければならなくなったら、この主人公のように我を失って自分の中の木霊を感じるのだろうか。

そして、批評の面から読むと単純に精神分析を当てはめやすい構造だと思った。父・母・息子という分かりやすい家族構造に、主人公の無意識、神経衰弱へのクローズアップ、数学という対象α‬、そして最終的に電車というファルスに去勢される父・息子………?(これは普通常とはズレている…?)というように、当てはめだしたらキリがない。ただこれで読むのは、少々安直というのが否めないかと個人的には感じた。もちろん、先述したような通常の読みとはズレる部分に価値を見出すことは出来ると思うのだが。

そこでまず気になるのが、主人公の教師という設定である。単に数学を中心に据えたいのであれば、別に研究者のままでも良かったであろう。そう考えると、学校という舞台が大きな鍵になっていると仮定できる。学校は、確かに毎年生徒や教師の顔ぶれは変わるとはいえ、全体的にみると同じ流れを永遠と繰り返す特殊な場所である。(ちなみに本作中の学校、家、線路などの立地関係は、夢野の住居周辺の立地と一致するようだ。)
そしてここで電車に対して考えてみると(これに関する研究は各所でされているが)電車は内部空間と外部空間で時間の隔たりがある乗り物である。(自分は座っている(止まっている)のに電車は移動している(進んでいる)。)そして電車は、近代発生した直線時間によって定められた発車時間に従って走るものである。
つまり、以下の引用の表現を借りれば、実は「あらゆる不合理と矛盾とを含んだ公式と方程式」を内包する、無限的な数学という概念に長けた主人公(彼に関しては教師という循環性も兼ね備える)と息子は電車(移動する外部の時間、非永続的)に殺されるのである。無限に対する有限の暴力性である。

彼は、彼を取巻く野山のすべてが、あらゆる不合理と矛盾とを含んだ公式と方程式にみちみちている事を直覚した。そうして、それ等のすべてが彼を無言のうちに嘲り、脅やかしているかのような圧迫感に打たれつつ、又もガックリ
とうなだれて歩き出した。そうしてそのような非数理的な環境に対して反抗するかのように彼は、ソロソロと考え初めたのであった。
p.13


先行論では、伊藤(2)や加藤(3)の論を中心に、本作を通じて夢野が「唯物化学文明」や「本格探偵小説」(所謂「合理的」と評価されるもの)に対して妄信的な当時の状況への糾弾を行っていると論じているものが中心的なようである。(そこで数学が「合理」としてとれるか、「非合理」と取れるかは意見が割れると思うが、既に言及したように自分は「非合理」としてとる。)それを踏まえると本作は、先述した時間の問題に対しても、循環的な時間から近代化を経て直線的な時間、有限的な時間へと人々が時間認識を変化させたことに対する批判と取れるのかもしれない。

ここで最後にラストシーンに注目したい。この話は主人公が最終的に電車に轢かれ、死に絶えるところで終焉を迎えるわけだが、そのときに息子・太郎の木魂を何度も聞くのだ。

⋯⋯お父さんお父さんお父さんお父さんお父さん⋯⋯。
と呼ぶ太郎のハッキリした呼び声が、だんだんと近付いて来た。そうして彼の耳の傍まで来て鼓膜の底の底まで泌み渡ったと思うと、そのままフッツリと消えてしまったが、しかし彼はその声を聞くと、スッカリ安心したかのように眼を閉じて、投げ出した両手の間の砂利の中にガックリと顔を埋めた。そうしてその顔を、すこしばかり横に向けながらニッコリと白い歯を見せた。
「⋯⋯ナアーンダ。お前だったのか⋯⋯アハ⋯⋯アハ⋯⋯アハ⋯⋯」
p.15


木魂、すなわち木霊は、結果としてフッツリと消えてしまう訳だが、笑いながら死に自らを委ねていく主人公は、木霊の余韻を永続的に味わいながらこの世を立ち去るのであろう。
直線時間(電車)に殺された主人公は、決してそれに敗北したのではなく、むしろ木霊と共に永続的な「死」によってそれに打ち勝ったのかもしれない。


<参考資料>
(1)鶴見俊輔・谷川健一「解説対談多義性の象徴を生み出す原思想」『夢野久作全集』第3巻 31書房 刊行年略
(2)伊藤里和「夢野久售『木魂』論ー記号化と魂の危機―」
『日本女子大学大学院文学研究科紀要』第11号 日本女子大学 2005年3月
(3)加藤夢三「「怪奇小説」の記述作法―夢野久集『木魂』論ー」『国語と国文学』第96巻6号
東京大学国語国文学会 2019年6月

<疑問>
・本当に「死」で救われたと言えるのか
・数学の「合理」「非合理」
・電車の循環性(同じ場所を走る)
・笑いの多用
・純粋数学に対する日本人のコンプレックス(先生より)
・語りの時間の錯綜

この記事が参加している募集