有機的連帯の現在及び未来における実現可能性


はじめに

 
 このnoteでは、エミール・デュルケーム(Émile Durkheim)の著書、『社会分業論』と、落合陽一さんの著書『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』を掛け合わせて、現在と未来について論じさせていただきました。また、問題意識のレベル、及びこのnoteの随所において、宇野常寛さんの『母性のディストピア』を始めとする著作や、PLANETSでの日々の情報発信から多く参考にさせていただきました。
 もし、このnoteに興味を持ってくれた方がいましたら、上に挙げた他にも、参考にさせていただいた文献を載せていますので、是非、それらの素晴らしさに直に触れてもらえればと思います。


 本レポートではまず、『社会分業論』を要約する。次に『社会分業論』の現在の社会への適用可能性を検討する。そして、「有機的連帯」ついて、『デジタルネイチャー』の未来展望との比較を通してその本質を明らかにし、さらに更新を試みる。最後に、現代社会における社会的連帯創出のための方法を考える。


『社会分業論』要約

 
 デュルケームの問題意識は、社会の経済的領域における、「法的・道徳的無規制状態」(1) の蔓延にある。すなわち、生活の大部分を占める経済生活における、労働者と資本家の階級闘争や企業間の市場競争といったものの無秩序な戦争状態についてである。そして、彼はその原因を、経済生活を構成する諸機能を規則正しく接触させ連帯させる紐帯が存在していないことに求めた。そして、その紐帯を作り出すものこそが「道徳」であり、これによって個別的利害が制限され、一般的、全体的な利害への優先が生まれるとした。彼の目的は、分業の進行する社会における連帯の可能性を発見することにある。
 デュルケームは、道徳の測定可能な象徴としての法を分類し、その分類に対応する連帯の種類を解き明かそうとした。法の分類の基準として、「諸規則に込められた重要度、諸規則が公共意識において占める地位、諸規則が社会において果たす役割」(2) に対応して変化する「制裁」を設定する。そこから、「その本質が行為者当人に科せられる苦痛あるいは地位引き下げにある」(3) 「抑止的制裁」(4) と「ただ諸事物を原状に回復し、阻害された諸関係をその正常な状態に取り戻す」(5) 「復原的制裁」(6) の二分類を見出す。

 抑止的制裁に対応する社会的連帯は、それを破壊すると「刑罰」という反作用を引き起こす種類のものである。原始社会において抑止的制裁が拡散的に行使されていたことから、諸規則とそれの表す諸感情が社会の成員の意識に内在的なものであったとデュルケームは論じる。そのうちの、強度を持った普遍性の強いもの、つまり諸個人に対し超越的な、それ自体で社会の諸特性を為す一存在である「集合意識または共同意識」(7) の強力かつ明確な状態を侵すものが「犯罪」である、と定義した。デュルケームは、犯罪の犯罪性を構成する不道徳性の発生源は、その行為が集合意識に対立するという事実そのものであり、つまり社会によって犯罪は規定されると論じた。
 刑罰の特質は「激情的な反作用」(8) にある。それは自身に害を為すものに対して感情的に復讐を行う保存本能と密接に結びついており、その本質は文明化が進展した社会でも変わっていないとした。そして、刑罰の起源は、個人的復讐ではなく、原始社会において社会生活の諸領域を覆っていた宗教(に規定された社会)にあるとデュルケームは論じている。そして刑罰とは、集合的反作用が一機関によって行使される形態を指す。
 刑罰による反作用、つまり犯罪に対する損失の回復の要求を超えた過剰な復讐行為とは、個人を超越した「集合意識」に対立する行為への抵抗である。そして、集合的であるが故に強力である集合意識は、この反作用によって維持される。以上よりデュルケームは、「刑罰が承認する諸準則は、もっとも本質的な社会的類似をあらわすものである」(9) と論じた。
 そして、抑止的法律の反作用によって社会的凝集が維持される、個人を類似性によって社会に直接結びつけ、集団として同じ方向に駆動させる社会的連帯を「機械的」(10) 連帯と定義した。

 一方、復原的制裁は単に「原状の回復に帰着する」(11) 。この制裁は、これに関連する準則が集合意識の外にあるため、集合的反作用を受けない。しかし、それはこの準則がただ個人を結びつける役割しか持たないことは意味せず、社会的に決定された諸準則を介して利害当事者同士を結び付ける機能を持つとデュルケームはした。
 この復原的制裁を行使する諸法規に含まれる、「物権および物権のばあいに設定される対人関係にかんする諸規則」(12) は、社会の異なる諸部分の境界をはっきり示し、「消極的連帯」(13) を形成する機能を持つ。この連帯は社会の凝集性を生み出すもう一つの積極的な連帯の結果として表れる。
 復原的制裁の消極的側面を除いた、「家族法・契約法・商法・訴訟法・行政法および憲法」(14) は、異質な者同士を分業によって積極的に連帯させる「協同的法律」(15) である。
 「協同的法律が復原的制裁という形で規定する諸関係と、これらの関係があらわしている連帯とは、社会的分業から由来するものである」(16) 。この連帯は、分業の専門性が増すほどに、集団の意識に共通でなくなるために、また、分業の諸関係の関係の仕方を細かく決定するために、社会の共同意識の情緒的な反作用の影響から離れるようになる(17)
 これの意味するところは、社会の同質性が高いほど強力である機械的連帯と、分業による諸個人の個性の多様性、異質性に基づく連帯は同時に拡大することはできず、一方が縮小する場合においてのみ、もう一方が拡大することができるということである。そして、この諸個人が集合意識から独立した多様な人格を持ち、細かく分割された労働によって相互に依存しあう度合いが高まるほど凝集性が高くなるこの分業に基づく連帯を、同じく専門的で自律した諸器官からなるが全体として一つの活動を為す高等生物に類推して、「有機的」(18) 連帯と定義した。

 そして、デュルケームは原始社会から文明社会まで時代・地域ごとに成文法や史料等を比較し、同質的な諸環節の集合からなる「環節社会」(19) から、諸器官の自律した活動の相互作用によって全体が機能する「組織的社会」(20) へ変遷することを論じた。組織的社会はその諸器官の相互作用性により、より強固な社会的紐帯を形成する。デュルケームが論じている、こうした社会の変遷の諸原因については後に詳述する。

 デュルケームは執筆当時の社会が、分業による連帯が形成されていない、異常な分業形態に陥っていることを論じている。
 その一つとして挙げたのが「無規制的分業」(21) である。その例として、商工業の恐慌と倒産、労働と資本の対立、科学の細分化による統一性の欠如を挙げている。
 本来ならば、分業の諸機能の諸関係は、恒常的接触から生ずる行動準則によって規制される。しかし、市場のグローバル化、労働形態の急速な変化、諸科学の領域の分散化によって分業された諸機能間での、恒常的接触による敏感な相互作用が絶たれてしまっているとした。
 こうした「アノミー」(22) を解消するために、国家や哲学が行うような、ますます表層的になっていく共通性による統一ではない方法で、「隣接の諸機能とたがいに恒常的な関係をとりあい、それらの欲求やそれらに起こる変化等々に気づく」(23) ための、社会全体を一目で認識はできずとも「自分の行為が自己以外に目的を持っていることを理解するに足るだけの視野」(24) を諸個人に持たせる、分業の正常な形態に復帰する必要性を論じた。

 もう一つの異常形態としたのが、「拘束的分業」(25) である。
 分業を成立させる規制は実際の諸関係に基づいてのみ機能するが、分業が進行しているにも関わらず、規制がそれに対応せず単に習俗によって維持されている状態になると、拘束的性質を帯びる。その具体的なものは、階級制度やカーストの残存である「富の世襲伝達」(26) 制度である。これが諸個人の素質や性向に適合した形での分業を阻害する。また、この世襲という外在的要因に置かれた諸主体間では、自発的な契約関係による、物が有する純粋な「社会的価値」(27) に基づいた交換が行われない、つまり「契約的連帯」(28) が損なわれ、それにより社会全体の「有機的連帯」が阻害されるとした。
 デュルケームはこの外在的諸条件が平準化され、「機会の平等」が確立された上で競争が行われなければ、社会的紐帯にも異常をきたすと論じた。

 次章ではデュルケームが『社会分業論』で展開したこれらの理論が現在の社会にどのように適用されるかを検討していく。

(1) デュルケーム、エミール、2017[原著1893]、『社会分業論』(田原音 和訳)、筑摩書房、22頁。
(2) 同、127頁。
(3) 同、127頁。
(4) 同、128頁。
(5) 同、127頁。
(6) 同、128頁。
(7) 同、146頁。
(8) 同、154頁。
(9) 同、181頁。
(10) 同、183頁。
(11) 同、196頁。
(12) 同、208頁。
(13) 同、209頁。
(14) 同、212頁。
(15) 同、219頁。
(16) 同、219頁。
(17) 同、219-221頁。
(18) 同、225頁。
(19) 同、298頁。
(20) 同、336頁。
(21) 同、572頁。
(22) 同、593頁。
(23) 同、599頁。
(24) 同、600頁。
(25) 同、607頁。
(26) 同、609頁。
(27) 同、615頁。
(28) 同、613頁。


マスメディアと社会的連帯

 
 デュルケームの理論の現代への適応を試みる際に重要なファクターとなるのは、情報環境の変遷である。『社会分業論』執筆当時にはまだ萌芽としてしか存在していなかった新たな情報環境下で彼の理論をどのように適用することができるのか考える。

 その新しい情報環境とは、マスメディアである。マスメディアの強力なものとして最初に登場したのは、第二次世界大戦時のラジオと映画であった。これらは大戦時にプロパガンダによって国民を動員する装置として機能し、総力戦を実現させる役割を担った。
 そして大戦後に登場したもっとも影響力を持った形態のものがテレビである。テレビは、ラジオに用いられる放送技術と映画の映像技術が組み合わされて洗練されたマスメディアの形態であるといえる。先の大戦での権力とマスメディアの結託による凄惨な被害への反省から、西側諸国ではマスメディアは権力から引き離され、民間事業者や公共放送がその担い手となった。こうした戦後の20世紀後半の社会において、テレビは政治・経済・文化の中心として機能していたといえる。
 マスメディアの機能の特徴は、特定の中心から、大衆へ向けて同一の情報を同時に発信することによって、従来人間の意識の及ばなかった範囲においてまで、人々に共通の意識を形成させることにある。

 このマスメディアの機能に注目すると、マスメディアはデュルケームの理論における「機械的連帯」の生成装置である、ということができる。デュルケームは機械的連帯の表象として刑罰による抑止的制裁を用いたが、同じくマスメディアの広範囲に同一のメッセージを発信する機能は、抑止的制裁を行使する機能を有し、「集合意識」を形成したと考えられる。
 マスメディアにおいて抑止的制裁に当たるものとして、犯罪の報道がある。マスメディアによる犯罪の報道とは、単に抑止的法律がそうするよりも遥かに広範囲に向けて犯罪の事実を拡散して、反作用を増幅させる機能を持っているといえる。また、刑罰が確定していない、容疑の時点で報道される点についても、抑止的制裁の感情的な復讐という性質の発露として注目したい。
 さらに、マスメディアの報道によって、本来ならば抑止的法律の制裁の対象外であるはずの行為までもが集合的反作用の発露の対象となっているケースが見受けられる。それは、デュルケームの定義した類型上では抑止的制裁ではなく、復原的制裁の対象であるはずの行為に対する反作用である。
 その一つの例が、いわゆる「不倫報道」である。不倫という行為を裁定するのはデュルケームの分類上の協同的法律である、「家族法」の法規である。ところが、近年(恐らく日本特有であるが)、テレビ等のマスメディアで、「有名人」の不倫が大々的に報道され、視聴大衆は往々にしてその「有名人」に対して一斉に批判を浴びせる、こうした事が幾度となく繰り返されている。この光景は、デュルケームが抑止的制裁の激情的特質を示す最たる例として挙げた「恥辱刑」(29) の執行そのものと言っても過言ではないだろう(29.5)
 参考として、もう一つの例を挙げておく。それは、「ライブドア事件」である。「Wikipedia」によると、「ライブドア事件(ライブドアじけん)とは、ライブドアの2004年9月期年度の決算報告として提出された有価証券報告書に虚偽の内容を掲載したとする疑いが持たれるなど証券取引法等に違反したとされる2つの罪で、法人としてのライブドアとライブドアマーケティングおよび同社の当時の取締役らが起訴された事件」であり、最終的に「計7人と2法人に対して有罪が確定している」(30) 。この旧証券取引法(現金融商品取引法)は行政法(金融法)の分類に属し(31) 、デュルケームの分類上の、協同的法律に分類される。この事件はメディアで大々的に報じられ、社会的に大きな反響を呼んだ。だが、このケースは不倫報道のように激情的反作用を引き起こしたかと言えば、断定することは難しい。とは言うものの、少なくともこの事例から分かることは、行政法のような協同的法律と、それが規定する専門化・複雑化した分業の領域は、それがマスメディアによって発信され社会全体に伝播されることによって、もはや分業の当事者間だけの領域ではなくなり、集合意識が侵入することが可能になっている、そして、激情的反作用を受ける潜在性を有している、ということである。ただし、マスメディアの報道は、情報の公開性やジャーナリズムの機能を担っている側面も大いにあるため、一概に否定できるものではない事には留意したい。
 デュルケームは刑罰の形を取らない、広く分散した抑制は強度と明確さに欠くとしたが(32) 、近年ではそれがマスメディアの同一のメッセージを同時に広範に発信する機能の反響として、「世論」というより確定的な形で示され、法と同等かそれ以上の集合意識の表象機能を持っているといえる。

 このように考えると、機械的連帯の縮小と有機的連帯の拡大がデュルケームの展望通りには起こっていない、ということになる。その理由を考える。
 第一に、メディアが作られる際の技術的制約の影響がある。映像技術の初期形態には、個人で利用する「キネトスコープ」と、集団で視聴する「シネマトグラフ」があるが、当時普及したのは費用対効果に優れた後者であった(33) 。また、初期の放送技術においても、技術的コスト的制約から、大衆に向けたプロダクトとしては、一方向的な発信と受信という形態を取らざるを得なかったのだと考えられる。映像技術も放送技術も、分業の進行による技術革新の産物であるが、その中心から全体に向けた発信という性質は、有機的連帯に資することなく、反対に機械的連帯の生成装置として機能することになったのだと考えることができる。
 第二に、デュルケームが論じたような有機的連帯が実現しておらず、彼が異常形態とした無規制的分業・拘束的分業から未だ脱却できていないことが影響しているのではないかと考えられる。有機的連帯が形成されないままに分業が進行する社会で、マスメディアによる機械的連帯がその代替装置として機能していたのが20世紀後半であったのではないだろうか。
 しかし、マスメディアによる集合意識の維持・強化、それによる機械的連帯の形成は、正常な状態とは言えない。なぜなら、世界規模の分業(グローバリゼーション)が進行する状況下で、機械的連帯では分業の進行とそれと並行する個人の多様化に対応した正常な連帯とはなりえず、外部を認識できない同質性に基づく内部空間を形成する結果になってしまうからだ。
 次章ではマスメディアに次いで登場した情報環境について考えていく。

(29) デュルケーム、エミール前掲書、159頁。
(29.5)本レポートでは、デュルケーム同様、必ずしも抑止的制裁の激情的性質それ自体を全く否定する立場を取る訳ではない。何故なら、彼が述べた理由に加え、現状では技術的制約によって復原することが不可能な損失が存在するためであり、抑止的制裁がそれを代替している場合が考えられるからである。批判するべきものがあるとすれば、それは、「責任」という概念を用い、抑止的制裁を行使するという唯一至上の方法によってあらゆる問題は解決されると思い込む(あるいは問題の解決すら考えず、ただ激情を発散することを目的とする)態度についてである。
(30) Wikipedia、最新更新履歴2019.2.8.16:21、「ライブドア事件」、(閲覧日2019年2月14日)。
(31) Wikipedia、最新更新履歴2018.11.23.05:01、「金融商品取引法」、(閲覧日2019年1月9日)。
(32) デュルケーム、エミール前掲書、179頁。
(33) 落合陽一、2018、『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』PLANETS/第二次惑星開発委員会、41-44頁。


インターネットと社会的連帯

 
 こうした20世紀後半のマスメディアの時代を経て新たに登場し、21世紀現在、主要な情報環境として普及しているのがインターネットである。
 インターネットの世界的な情報ネットワークとしての地位は、スマートフォンが世界的に普及した21世紀初頭に確立されたといえる。インターネットでは中心を無くして、あらゆる主体が直接接続される。そして、従来はマスメディアが特権的に行使していた情報の発信を、あらゆる主体が容易に行うことが可能になると同時に、どのような情報を受信するかも個々人の自由となった。つまり、インターネットによって情報の民主化がもたらされた。こうした革新から、インターネットを用いれば、人々はあらゆる情報にアクセスすることで世界の多様性を認識し、また、世界中の人々とのコミュニケーションを介して相互理解が実現される、という理想がインターネット登場初期には抱かれた。
 この理想は、デュルケームが論じる「有機的連帯」に対応すると考えることができる。デュルケームは、進歩が加速し、ますます分業が細分化され、個人に帰属する意識がますます増大していく中で、人々の間に紐帯を作り出すものこそが、有機的連帯であり、人々に対して、相互に取り結ばれている依存状態を認識させ、協同させるものであるとした。そして、初期のインターネットの理想とは正に、グローバルな分業によって否応なく接続されている世界にこの連帯を作り出すことだ。

 しかし、現在に至るまでそのような理想の世界は実現されていない。それは何故なのか考える。
 まず考えるべきは、インターネット上の情報環境における変化である。初期のインターネット以降にその情報空間を新たに形作ったのは、プラットフォームと呼ばれるインターネット企業群である。プラットフォームは事業者と消費者、事業者同士、また一般の利用者同士を結び付ける事業を行っており、言わばインターネット上での情報やモノ、人の集積・流通地点(プラットフォーム)の機能を担っている。
 プラットフォームのうち、人々の言論・思想・感情のコミュニケーションの集積地となっているのがSNSである。初期こそSNSがマスメディアに代わる新しい民主主義の展開される場であるという理想が掲げられたが、それは実現していない。宇野(2017)は、現在の日本の、SNSに象徴されるソーシャルメディア上の言論空間では、20世紀的マスメディア(特に映像)、世界と個人を結び付ける蝶番としての物語への、本来それが持っていた、冷戦構造と「アメリカの核の傘」に守られているという状況に起因する、近代国家的な成熟の不可能性へのアイロニカルな自覚を欠いた形での、回帰が起こっていると論じる。曰く、「ヘイトスピーカーから文化左翼まで、Googleで5分調べてたどり着いた都合のよい真実を根拠に、使い古されたイデオロギーを向精神薬のように消費し、その精神を安定させることができる。」(34) 。そして宇野が論じるように、これは海外でも同様にみられる現象だと思われる。つまり、ヘイトスピーチやフェイクニュース、SNSの駆使によりポピュリズムに働きかける戦略によって当選を果たしたアメリカのトランプ大統領と、産業の停滞や生活の困窮の原因が特定の移民や外国にあると信じてしまうトランプ大統領支持者であり、そしてそれに象徴される世界的な排外主義の機運の高まりである。
 日本の空疎な左右対立と海外の排外主義の勃興では、問題の根底が異なるが、両者に共通している点は、マスメディア・国家という20世紀的で中央集権的なものへの、言い換えると、同質性、集合意識、機械的連帯への回帰であるということである。現在の社会が抱えている問題は、分業に起因するアノミーであると同時に、分業と集合意識の錯綜に起因する混乱である。社会全体や情報空間では分業が進行しているにも関わらず、何故それに相応しい連帯が形成されないのか。その原因をデュルケームの理論に立ち返ることで考える。

 デュルケームは、「分業は諸社会の容積と密度に正比例して変化する」(35) と論じている。そのうち、(道徳的・動的)密度が増大する要因としたのが、人口の集中、その延長としての「都市の形成と発展」(36) 、そして「コミュニケーションおよび運輸手段の量と速さ」(37) である。
 そして、社会の密度と容積の増大に伴って、自然生態系と同じように、類似した方法(職業)によって生存する諸個人が限られた空間に密集することにより競争が激化する。その結果、競争での劣敗者は、生存するために生存の方法を専門化したり、あるいは新たな環境で生存できるように転身したりする必要に迫られる。そして、その専門化した方法や新環境においても同様に競争と分化が起こっていく。デュルケームは、分業とはこうした社会内での生存競争そのものであると論じている(38)
 これらの条件をインターネットと比較すると共通点が見られる。
 インターネットは全世界で利用されているものであり、容積は世界規模である。また、その膨大なネットワーク上ではあらゆる種類のコミュニケーションが時空間的制約を大幅に減少させて行われており、eコマース等インターネットを介した物流も普及している。そして、インターネットは空間を無効化して世界中を接続しているという点では限りなく高密度な都市であるとも捉えられるし、中でもさらに人々の接触可能性が高まるプラットフォームはなおさら都市的であるように思われる。

 しかし、社会の容積と密度の増大から発生する、分業をもたらす二次的要因としてデュルケームが定めたものを見てみると、インターネットではこれらの要因が必ずしも見られるわけではないことが分かる。
 デュルケームは、分業が促進されるためには、社会の容積と密度の増大によって、個人意識が共同意識によって抑制される領域が狭まり、個人の自律性と多様性への希求が育まれることが必要であると論じる。
 小規模な社会においては全成員が置かれる生活環境は同じであり、環境を表象する意識の諸状態も具体的で同質性が高かったが、社会の容積が増大するにつれて生活環境が多様になってくるため、集合意識はより抽象的になっていく。すなわち宗教・法規範・道徳の諸準則の普遍化である。こうした一般性を帯びた集合意識は人々を反射的に従属させる力を失ってゆき、知性による合理化への希求を許すことになる。デュルケームはこう論じている。
 また、社会の密度と容積の増大によって、集合意識の力の源泉たる伝統との接点が断たれることが発生する。社会の密度と容積の増大によって環節的類型が希薄になり、人々の移住が容易になる。この「社会的諸単位のより大きな移動性」(39) によって若者は伝統・祖先の権化たる古老から切り離され、大都市の多大な流動性・新規性に接続されると論じている。
 さらに、容積と密度が大きい大都市では諸個人間の関係は多岐的かつ流動的になっていく。これにより、諸個人の動向がより捕捉困難になってゆき、集合意識の反作用から逃れるようになり、個人の多岐的な分化が促進されるとした。

 これら分業の二次的要因をインターネットに適用してみると、個人意識の拡大をもたらす因子が、現在のインターネット上では見られないことが分かる。
 まず、インターネットでは、集合意識の抽象化による影響力の弱体化が起こらない。何故なら集合意識を抽象化することなく無制限に拡散することができるからである。そもそもそれはマスメディアにおいて既に起こっていた。それは映像技術や音声技術によって具体性を維持したまま、放送技術によって広範囲に発信され、集合意識を形成していた。インターネットの時代に移行すると、集合意識は、データのデジタル化によってさらに確定的に保存されるようになり、インターネットが膨大なそれらのデータを集積する装置になった。個々人が自由にこのデータベースにアクセスすることができるため、マスメディアよりもさらに容易に、恣意的に集合意識に接続できる回路となってしまっているといえる。
 そしてデータベースとは、劣化しない伝統そのものである。インターネット上ではもはや、どこへ移動しようともこの古老の影響から逃れることはできない。
 また、大都市に対応すると思われたプラットフォームの内のSNSでは、諸個人の行動を群集に紛れ込ませることはできない。例えば、SNSの一つ、Twitterでは、言動・行動がリツイートによってどこまでも拡散され得る。これが意味するところは、諸個人の言動・行動は常時、潜在的に集合意識の監視下にあるということである。もし、この集合意識にそぐわない言動や行為を発信すると、瞬時に拡散され、激情的反作用を浴びることとなる。さらにこの反作用は、Twitterを超え、マスメディア(テレビ)という集合意識の増幅装置に接続される(報道される)ことでいっそう強化される。Twitterとは要するに、大容積と高密度でなお強固に維持され続ける環節的類型、「ムラ」(40) である。
 とはいえ、インターネットの存在そのものが社会的連帯の創出を阻害していると結論するのは早計である。データベースも、あらゆる対象との接続可能性も、客観的で理性的な眼差しをもって活用すれば、世界について、その多様性を認識し、探究する手段として非常に有効である。しかしながら、現状のインターネットは、進歩の兆候が見られるものの、マスメディアと同様に、分業が加速し続ける一方で有機的連帯が欠ける世界における、機械的連帯による社会的紐帯の代替装置であるといえる。

 こうした状況の要因を求めるべきものの一つは、インターネットのユーザーインターフェース(環境)である。Twitterでは、フォロワー数、被リツイート数・被いいね数の多さがツイートや利用者個人の評価基準の一つとなっており、こうした環境が集合類型=同質性と結び付かせるインセンティブを発生させていると考えられる。また、全てのソーシャルメディアでTwitterほどの攻撃的なコミュニケーションが氾濫しているわけではない。したがって、ユーザーインターフェースの改善が集合類型を弱めることにつながり得る。
 また、取り上げた事例は主にSNSで生じている問題であり、他のケース、例えばeコマースでは必ずしも明確な集合的反作用の衝突が起こっているわけではない。これには実社会との対応の強度が関連していると思われる。eコマースでは生産者と消費者との、実生活に対応した経済活動のためのコミュニケーションが行われるが、SNSでは実生活との対応が弱いまま、思想や感情が行き交う空間となっていると考えられる。こうした空間では、生存競争による関係の調停無きままに、敵対する思想・感情の併存と衝突が続くことになる。
 そしてもう一つ、より本質的な問題は、やはり有機的連帯の創出が実現していないことである。何故、有機的連帯は実現していないのか。これを考えるために、まず有機的連帯の本質を明らかにし、さらに現代に適用できるようにアップデートを試みる。そのために、一旦、デュルケームの理論を落合(2018)の未来展望と接続させ比較する。
 デュルケームの問題意識は、どのように社会に道徳をもたらし得るか、ということであると同時に、「分業は自然の一法則であると同時に、人間行動のひとつの道徳的準則でありえるのか」(41) という所にあった。デュルケームの、「社会有機体説」という踏み込んだ仮説と、厳格な「実証主義」(42) に依拠する「社会的事実」(43) 解明の方法論の融合によって作られた理論は、未来を予見する広大な視野を獲得しており、落合の理論と非常に親和的であると思われる。

(34) 宇野常寛、2017、『母性のディストピア』集英社、377頁。
(35) デュルケーム、エミール前掲書、429頁。
(36) 同、424頁。
(37) 同、426頁。
(38) 同、435-443頁。
(39) 同、478頁。
(40) 宇野常寛前掲書、444頁。
(41) デュルケーム、エミール前掲書、86頁。
(42) ギデンズ、アンソニー、2009、「社会学とは何か?」、『社会学 第五版』(松尾精文・小幡正敏・西岡八郎・立松隆介・藤井達也・内田健訳)、而立書房、26頁。
(43) 同、27頁。


デジタルネイチャーと有機的連帯


 落合は、高度に発達したテクノロジーが普及することによる社会構造の根本的な変革を論じている。
 あらゆるモノのコンピュータ化(「ユビキタス」(44) )する世界において、共にエントロピーの増大に抵抗し、「フィードバック制御」(45) によって駆動する人間と機械は(「サイバネティクス」(46) )、「ホログラムによる関係性と物理的実体の関係性によって一体化した記述として外在化」(47) される、「コンピューテーショナル・フィールド」(48) 上で接続される。また、統計的機械学習の、「抽象的で解析的な現象理解」(49) を必要とせずに、プロセスが不可視のままデータセットから統計的な最適問題への解が抽出された学習済みモデルが生成される「End to End」(50) の性質によって、個別の関係の記述も、特徴量(属性)の発見もコンピュータ主体で行われるようになる。こうした、全体最適化された環境知能によって記述され、「<モノ>と<情報>」(51) 、「<人間>と<機械>」(52) の再帰的ループが発生する世界(自然)が、落合の提唱する「デジタルネイチャー」(53) である。

 機械は従来から人間の思考や運動を外部化するものであったが、技術革新の結果生まれたコンピュータの高度な演算処理能力は、機械を、人間と同じく分業を担う主体(知性)として明確に位置付けたといえる。落合はさらに、計算機の世界的な遍在性と、爆発的な計算能力の向上によって人間の認識能力を超え、自然化するプロセスを論じている。
 これが意味するところは、分業(生存競争)の主体もまた、人間と人間、人間と機械、機械と機械であるということである。容積と密度が無限大に近づくインターネットとそれと接続されている実空間において、人間主体と計算機主体で発生する分業は一層激しくなり、同時に進歩が加速される。

 落合は現在の資本主義的なスケールモデルによる寡占を志向するプラットフォームに対する新しい経済領域の出現を論じている。それは、「過去の記録をブロックに保存し鎖のように連結することで、改ざん不可能なデジタル情報を構成する仕組み」によって「中央集権的なシステムを介在させずに情報の完全性、可用性、機密性を保てる」(54) 、「ブロックチェーン」(55) などのテクノロジーによって、個人の「オープンソース」(56) ≒共有財(これの開発は社会と産業のソフトウェア化と、それに伴う「限界費用ゼロ」(57) 化によって加速される)の発展への貢献度=「信頼」が可視化されることによって実現される「受益者負担」(58) 型のエコシステムである。そして、プラットフォームとオープンソースの間では、相互作用と競合が行われると落合は論じている。
 デュルケームは分業が世界的規模で行われる、経済のグローバリゼーションを論じていたが、経済を社会に従属するものとして捉え、経済自体の構造には着目しなかった。しかし、この落合の分析は、デュルケームの論じる、同質的な環節社会から、密度と容積の増大に起因する生存競争から生ずる、分業に基づいた組織的社会への変遷過程が、経済領域においても、例えば資本の増大や流動性、循環等に着目することによって、同様に適用される可能性を示唆しているといえる。

 落合は、社会は「「AI + BI型」と「AI + VC型」に分化する」(59) と論じている。前者は機械主体の高度な社会インフラシステムに組み込まれた人々が、AI等のテクノロジーの発展による生産性の飛躍的増大によって生じる余剰を、「ベーシックインカム」(60) 的な富の再分配によって享受し、機械の指示のもと簡単かつ少時間の労働を営む、プラットフォーム圏域の社会(地方)である。そして後者は、オープンソースの普遍化に伴う「コモディティ化」(61) スパンの超短期化や、プラットフォームの市場寡占に対抗する、オープンソースの活用とAIとの分業(競争と共依存)による、連続起業的な社会(都市)で、AIの「統計的再帰プロセス」(62) に回収されない外れ値(ゆらぎ、変革、進歩)を生み出す社会である。
 デュルケームは、分業の進行によってもたらされる便益は、「健康状態の指標」(63) である「幸福」を増幅させず、ただ変化に伴う苦痛を埋め合わせるに過ぎないとし、また、社会全体の「平均的幸福」(64) の減少の根拠を文明社会における自殺の急増に求めている(ただし、「幸福の減少と分業の発達という二系列の事実は、ただたんに並存するにすぎない」(65) という言及に留めている)。
 この文脈で考えると、人々が「AI + BI型」の社会に所属するということは、プラットフォームや機械に隷属することであるというよりも、高度かつ加速度的に進行する分業に演算処理能力が追い付かなくなっていく人々が、「幸福」に生態系に組み込まれていくプロセスであると考えられるかもしれない。
 しかし、落合はこのベーシックインカムによる生活の保障は、オープンソースに基づく分業のために機能してこそ、「機会の平等」をもたらすために有効なものであることを強調している。こうした形でベーシックインカムが実現すればデュルケームが異常形態とした「拘束的分業」は改善されるだろう。ただ、経済格差の是正される社会においても、「モチベーションの格差」(66) が生じることを落合は指摘している。

 デュルケームは分業の進行によって諸個人は伝統の影響から徐々に自由になると同時に、遺伝という、より本質的な生物的因果からもある程度解放されると分析している。その理由を以下のように論じている。
 文明が高度になるほど、後天的な修練によって獲得しなければならない要素が多くなり、遺伝の相対的価値が低下する。また、この素質の後天的で精密な再配合は不安定な均衡状態にあり、遺伝によっては継承されがたい。過去の継承は伝統や教育によってなされるが、その影響力は遺伝よりも弱く、柔軟になる。そして、高等生物になるにつれて「厳密にきまっている目的にかなった一定の行為様式」(67) である遺伝による行為から徐々に自由になり、またかつては本能的だった行為が意思に基づいてなされるようになる。つまり遺伝の絶対的価値も低下する。曰く、「だから、個人は自己の過去にあまり強く縛られなくなり、新たに生ずる状況に適応することがもっと容易になる。こうしてまた、分業の進歩はさらに容易になり、急速になるのである」(68)
 デュルケームの論じるこうした傾向は、分業の進行によってさらに直接的な方法によって強まっているように思われる。その一例が「ゲノム編集技術」(69) である。落合はこれによって遺伝情報がデータ的に操作されるようになると、最終的に単一のコードに自然的に収束すると論じている(70) 。そして遺伝子に代わって多様性を確保し、増大させるものの一例として「テクノロジーによる身体や感覚器の拡張」(71) を挙げており、これは分業の進行に伴ってテクノロジーが発達する社会におけるデュルケームの理論の発展型として捉えられる。
 1893年当時のデュルケームは、性別役割分業を他の分業と同じく社会の発展に伴って生じる正常な分業の一種と見なしていたが(72) 、これは現在の社会状況と、彼自身の理論に照合するに修正が必要である。なぜなら、性別役割分業は遺伝による生物学的差異とそこから派生した社会的要因(これは現在の社会においては実際の社会関係に対応しない傾向が強くなっており、伝統・慣習によって維持されている傾向が強くなっている)に基づくものであって、これらの遺伝、伝統の影響は分業によって相対化されていくからである。今後は先天的sexの差異は後天的(選択可能な)genderの差異と同化した上で、無数のgenderのグラデーションに分化していくと思われる。したがって諸個人の担う仕事も先天的sexに依存せずに多様化する。他の遺伝や伝統に基づく差異も同様に、後天的に獲得される多様性の一つとして組み込まれ、多様性は増大していくだろう。
 さらに落合は、一主体において、「人間―機械」の区分と、「物質―実質」の区分からなる四象限を取り、その中で無数のオルタナティブが発生することを論じている(73) 。これは、フィールドの融合を伴う、一主体内での人間と機械の分業(生存競争=競争と共依存)と言い換えられる。つまり、人間的差異の多様化のさらに外側においても、多様化が生態系的に発生するということである。

 デュルケームは、分業の発展によって、社会を構成する諸器官や諸個人は複雑に細分化された機能を担うようになるが、その機能に固定的であるわけではなく、柔軟に担う機能を変化させるようになるという点を指摘している。その理由を、生物の構造との相似形によって説明を試みている。生物において、「生物組織の構成諸要素」(74) が担う機能が(複雑な外部環境下にある有機体の)精妙で不安定な平衡状態の下に組み立てられることによって複雑化するようになると、「分子の編成の単純さと機能の編成の複雑さとの不均衡」(75) が増大し、組織はその内部に機能を閉じ込めておくことができなくなり、機能は組織から開放され、それ自体で可変性を持つようになる、としている。
 この説明と類似の理論が近年の分子生物学においても見られる。福岡(2007)は、生命が、全ての物理学的プロセスが最終的に均一に拡散したランダム(「エントロピー最大」(76) )状態に陥るという、「エントロピー増大の法則」(77) に抗うために、膨大な量の原子の集合体となり、さらに、生命体全体を、エントロピーが増大するよりも高速に、分子レベルで一から分解と合成を絶え間なく繰り返す「流れ」に置くことで、秩序を形成しているとし、ここから、「生命とは動的平衡にある流れである」(78) と定義した。そしてこの絶え間ない分解と合成の流れの中にあって、環境の変動に対応して「可変性と柔軟性を担保するメカニズム」(79) が、天文学的順列組み合わせのアミノ酸の配列によって形成されることで固有の構造を持つタンパク質が、特定の対応するタンパク質と「ついたり離れたりして成立する」(80) 柔軟な相補性のネットによって構築されていることを論じている。
 デュルケームの言う「分子の編成の単純さと機能の編成の複雑さとの不均衡」とは生命を構成する分子(原子)の流れと、生命体の諸器官あるいは生命体全体との、大きさと複雑さの不均衡と言い換えられる。そして、複雑な環境に対応した機能の、組織から開放され、可変性を持つ性質は、タンパク質の相補性に基づく接続と分離による環境変化への適応性との類似が見られる。このように、デュルケームの有機体の解釈は福岡の「動的平衡」理論に近い示唆をしていたと考えられる。
 そして、これが「社会」にも同様に適用されるとデュルケームは論じている。人間(分子・原子)集合の大規模な高密度化と、それに起因する諸個人(分子、あるいはタンパク質)同士の流動性の中での柔軟な相補的ネットワークが、社会(有機体)の「動的平衡」性を生み出す、デュルケームの理論はこのように換言できる。
 デュルケームが「社会有機体説」によって生物と社会を結びつけたのに対し、落合は「デジタルネイチャー」によってヒト(生物)と機械、そして近代的人間と自然を結びつけ、それらが形成する生態系が「動的平衡」性を帯びると論じている、と解釈できる。こうして、「分子の編成の単純さと機能の編成の複雑さとの不均衡」は増大し続ける。
 デュルケームは次のように論じている。「だからこそ、進歩は、器官から機能を、物質から生命をいよいよ解放し、――にもかかわらず両者を完全に切り離してしまうことはない――、機能や生命をいよいよ複雑にしながら、それを物質から解放して精神的なものとし、したがってますます柔軟にし、自由にする結果となるだろう」(81)
 デュルケームの思想は、単に社会の複雑化と個人の多様化だけでなく、一主体内における有機体と機械との分業や、実体を伴わない経済システムやインターネットといった領域の高度化(そもそも生命は固定的実体を持たない)、そしてこれらの諸主体や諸器官、諸領域の相互作用が為す循環システム、すなわち「デジタルネイチャー」に近い世界観を予見していたのではないかと思われる。

 しかし、デュルケームが社会に蔓延する「アノミー」の突破口として見出した「有機的連帯」については、「デジタルネイチャー」との比較を通じて、その定義と機能の更新の必要性が見出される。
 デュルケームは有機的連帯の果たす役割として、「競争を抑制することではない」としながらも「緩和すること」 を求めている(82) 。しかし、現在の社会ではこの緩和すらも実現していない。これまで論じてきたように、社会の密度と容積は増大する一方である。主体は多様化し、増大しているし、社会それ自体も「物質」と「実質」の融合が進行している。密度と容積が増大する以上、生存競争が激化することは避けられない。
 デュルケームは連帯が形成されるには、諸主体間の継続的な接触とそれによる道徳的諸準則の創出によって、関係の仕方が恒常的になり、また相互の関係の変化に敏感になることが必要であるとした。しかし、彼自身、社会の流動性は増す一方であるし、諸個人や諸器官の果たす機能がますます柔軟になることを予見していたはずだ。デュルケームはこの「社会関係の変化の速さ」はアノミーの一義的な要因でないとしたが(83) 、恒常的接触を連帯の条件としている以上、この点は矛盾を孕んでしまっているといえる。
 こうした齟齬の原因は、デュルケームが「経済と道徳、個人と社会」(84) という対置構造を取ったことにあると私は考える。田原は、デュルケームの理論の特徴は、分業を「社会的事実」とし、その道徳性をもって恣意的な個人の運載する経済を抑制するものとして設定したことにあると論じている(85)
 しかし、第一、経済は、道徳(社会)によって規制される、道徳(社会)への従属物であるとは考えにくい。その理由は先述のように、経済において道徳の規制が機能していないし、規制の成立の条件が将来達成される見込みも小さいからである。
 第二に、経済は、「功利主義的個人主義」(86) が想定するような、利己的な諸個人の活動の集積ではないからである。経済は、社会と同様に、個人に外在的である。マスメディアやインターネットという情報環境や、落合が「エジソン―フォード境界」(87) と定義する、プロダクトの大量生産をする工場労働に規定された生活形態などが例として挙げられる。経済とそこから生じるテクノロジーは、諸個人の行動や人々の関係性を外在的に決定する環境的性質を有する。
 したがって、社会構造を捉える際、社会と経済は少なくとも同水準の領域とし、それらは個人を内包する生態系的性質を有するという点で共通する、という理解から始めたい。

 インターネットによって人間の意識が拡張され、世界全体の関係性が可視化されつつある現在においても有機的連帯は実現していない。恐らく、人間は大量の情報とそのネットワークに触れられるようになってもそれを処理することができないのだろう。
 「有機的連帯」とは、世界全体を抽象的にあるいは詳細に理解することではなく、ただ個人が担う分業の範囲での協力者を見失わないことであり、自らの活動が社会を機能させる役割を持っていることを感覚的に理解することである。
 それが、デュルケームが論じたように道徳=法=習俗によって自然に形成され得ないのならば、真に連帯が実現されるには、「デジタルネイチャー」によって世界が人間主観を超え、「End to End」に、全体最適、個別最適に駆動される未来の到来を待つしかないだろう。あるいは、それこそが、分業のもたらす真の道徳=生態系の形なのかもしれない。
 しかし、それが実現していない以上、その未来に向けて、現在のアノミーをどれだけ軽減させることができるか、その方策を考えることが何よりも重要である。これについて、次章で考える。

 以上より、「有機的連帯」の定義は次のように更新される。すなわち、「有機的連帯」の役割とは、分業の加速を緩和して秩序を形成することではなく、加速する分業と進歩の中における、諸主体間での競争と相互依存の――諸部分においては流動的であり、かつ全体としては恒常的な変化の中にある――関係性を構築すること、つまり生態系に基づく紐帯を創出することである。そして、この紐帯を、人間主体で意識的に創出を試みる段階が「有機的連帯」であるが、これがデジタルネイチャーによって無意識的(End to End)に最適に構築される形態に移行するとき、それは「生態系的連帯」へ移行したということができる。

(44) 落合陽一前掲書、34頁。
(45) 同、76頁。
(46) 同、74頁。
(47) 同、89頁。
(48) 同、87頁。
(49) 同、83頁。
(50) 同、84頁。
(51) 同、95頁。
(52) 同、95頁。
(53) 同、34頁。
(54) 同、119頁。
(55) 同、118頁。
(56) 同、122頁。
(57) 同、127頁。
(58) 同、118頁。
(59) 同、58頁。
(60) 同、57頁。
(61) 同、129頁。
(62) 同、66頁。
(63) デュルケーム、エミール前掲書、401頁。
(64) 同、407頁。
(65) 同、410頁。
(66) 落合陽一前掲書、68頁。
(67) デュルケーム、エミール前掲書、522頁。
(68) 同、531頁。
(69) 落合陽一前掲書、206頁。
(70) 同、205-207頁。
(71) 同、207頁。
(72) デュルケーム、エミール前掲書、109-114頁。
(73) 落合陽一前掲書、169-172頁。
(74) デュルケーム、エミール前掲書、545頁。
(75) 同、545頁。
(76) 福岡伸一、2007、『生物と無生物のあいだ』講談社現代新書、147頁。
(77) 同、147頁。
(78) 同、167頁。
(79) 同、183頁。
(80) 同、183頁。
(81) デュルケーム、エミール前掲書、546頁。
(82) 同、590頁。
(83) 同、602頁。
(84) 田原音和、2017[原著1971]、「訳者解説」、『社会分業論』(田原音和訳)、筑摩書房、744頁。
(85) 同、741-745頁。
(86) 同、741頁。
(87) 落合陽一前掲書、50頁。


連帯の実現に向けて

 
 現在の社会を、原始的な「機械的連帯」が支配的な社会と、デジタルネイチャー的な「生態系的連帯」の社会の中間に位置づけるとすると、この社会ではいかにして連帯を創出することができるかを考察する。
 そのための重要な要素となるのが、デュルケームが復活と更新の必要性を論じたが、具体的な像を結ぶには至らなかった「同業組合」、「職業集団」(88) であり、その現代版へのアップデートである。
 その検討の前に、形成が目指される分業に基づく連帯と拮抗しているファクターは何であるのか。この対立軸を整理したい。

―都市と国家―

 一つ目は、「都市と国家」、「職業集団と家族」の対立軸である。
 デュルケームは国家の成立について、以下のように説明している。
 「社会の原形質」(89) であり、「絶対に同質的な一個の全体」(90) だった「ホルド」(91) は、より大きな集団の構成要素となるために独立性を失い「氏族」(92) となる。氏族は実質的/擬制的血縁関係を基礎に持ち、同時に政治上の基本的な単位である「政治=家族的組織」(93) である。そして「いくつかの氏族の連合によって構成された集団〔=部族〕」が形成されることを論じ、これに「氏族を基底とする環節社会」という名称を与えた(94) 。同質の環節の反復からなるこの社会は宗教という共同意識に直接的にあるいはイメージを介して諸個人が結び付けられている、「機械的連帯」による社会である。
 やがて分業が生じると、社会は「それぞれが特殊な役割をもったさまざまの機関からなる一体系によって構成」されるようになり、「これらの機関もまた、それ自体が分化した諸部分から」成る(95) 。中心機関も他の機関との相互依存によって存立するようになる。
 こうした組織的類型が発達すると、環節的類型、氏族の「共通の起源をもつという記憶」や「政治的意義」といった本質的特徴が失われていく(96) 。しかし、社会を類似した区画に配分する必要性は生き続けるため、「全人口が、現実的なものであれ擬制的なものであれ、ともかく血縁関係によってはもはや区分できなくなると、地域的区分にとって代わられるようになる。こうなると、家族的集合体が環節なのではなくて、地域的区画が環節となる。」(97) 。さらにこの「地域区分(辺境軍区・町村など)」は「さらに広域の地域区分(領・州・県など)にしばしば包含されて、それらの連合が社会を形づくるようになる。」(98) 。こうして機械的連帯も環節組織の構造も、社会での絶対的な地位を失い、有機的連帯と組織的類型の発達に伴い相対的価値も低下するが、最高級の社会においても生き続ける。
 環節組織が消滅してくると、大社会≒国家の内部に独立していた小社会≒地方の独自の規制機関は、大社会の中枢機関に取り込まれる。こうして中枢機関は高級社会に近づくほど多様、多数になり容積を増す。ただし、国家が吸収するのは「自己の諸機関と同質の諸機関、つまりは一般的生活を律する機関」のみであり、「経済的機能のような専門的機能を管理する諸機関」は吸収されないとしている(99)

 デュルケームが論じるように、氏族から地域区分に環節が移行し、さらに大きな地域区分に拡大していく、という形態変化を取るのならば、彼自身は明言していないが、現在、地域区分による環節の最も広域なものとなっているのが、「国家」であると考えるのが妥当であろう。デュルケームは、分業の進行する社会(国家)は、環節が相対化された組織的類型であるとしている。しかし、環節が分業によって十分に相対化されていない状態にあるのが、現在の国家であると考えられる。つまり、国家内部の副次的環節(地理区分・家族)は分業のネットワークによって環節としての性質をあいまいにしつつあるが、未だ残存しているし、そして国家という最も外側に位置する地域区分も、まだ、組織的類型に転身したわけではなく、環節として未だに強固な境界を維持し、影響力の絶対性を失いながらも、(疑似)血縁=同質性=集合意識の共同体であるということである。

 一方、分業によって生じる「都市」について、デュルケームは次のように論じている。
 社会の密度と容積の増大によって、環節組織が消滅していくと同時に、「こんどは職業的組織がそこをいよいよ完全に網状の組織でおおいつくすようになる」(100) 。はじめは、「それぞれの都市は、その直接的な近郊とともに、一つの集団を形成して、その内部で分業をおこない、自足しようと努める」(101) が、やがて「地方間分業」(102) が生じ、発達する。「職業的組織は、ある程度まで、それ以前から存在していた組織に順応しようと努める」(103) が、これらの組織や機関等は地理的区画の内部には取り込まれきれず、やがて地域的限界を超えて密接に連携、依存しあう。
 デュルケームのこの理論を言い換えると、「都市」の本質は、環節類型の地理的区画の残存たる立地にではなく、分業のネットワークそのものにこそあるということである。

 こうしてデュルケームの理論から、「国家」と「都市」は全く異なる性質のものであることが見出される。
 デュルケームは前者が生む「機械的連帯」の縮小と、後者から生じる「有機的連帯」の拡大、そして、やがて「われわれの社会的・政治的組織のいっさいが、いつの日か、もっぱら、あるいはほとんどもっぱら職業という基礎をもつにいたるであろうこと」(104) を明確に予見していた。
 だがその一方で、デュルケームは、諸個人の従属状態がますます深まっていく対象として、「国家」を挙げている(105) 。この齟齬は、彼が「国家」を「社会」と同一視していることに起因していると思われる。氏族、地域区分、より広範な地域区分と拡大することによって国家は成立しているのだから、国家という区分が限界ではなく、さらに拡大していくと考えるほうが自然である。したがって「社会」は「国家」にとどまらず、国境を越えた「地域連合」や「世界政府」といった規模まで拡大し得る概念として再定義する必要がある。現実にも、確立された環節とは未だ言い難いが、EUや国際連合といった組織が既に存在する。
 これに関連して、デュルケームが性別役割分業を分業の発展の一帰結と見なしていた理由も導出される。彼は、分業の促進によって国家は組織的類型に移行し、環節的類型は本来の機能を失うとした。そしてその中で、かつて「長いあいだ真の社会的環節」(106) であった家族は「社会全体」(107) に取り込まれた一機関となり、環節でなくなったとした。そして、統制機関が協同的家族法によって「家族的義務」(108) をますます多岐にわたって規定するようになり、それが家族の分業に基づく紐帯の強さの証左であるとした。
 しかし、国家は依然として環節としての性質を保持しているのならば、家族もまた、それと同様に、環節としての性質を残したままの共同体である。したがって、家族法も性別役割分業も、血縁や伝統に基づいた類のものであるし、「有名人」が行う家族の紐帯の破壊である「不倫」という行為は、国家という環節の機械的連帯を脅かす故に、報道され、同時にSNS上で拡散され、激情的反作用を受けることになる。家族法及び性別役割分業の発達は、分業が、性別という環節的区画の残存に一時的に収まっていた時期にのみ見られる現象である(109)

 本旨に戻る。デュルケームが問題としているのは、分業に基づく専門的な諸活動は、一般的生活を規制する機能しか有さない国家では規制することができず、無規制状態にあるという点であり、だからこそ、国家ではない、道徳=法=規制を創出する組織として職業集団、同業組合の必要性を論じている。
 しかし、現在の社会が抱えている問題点の一つはデュルケームの問題意識とやや異なる所にある。すなわち、分業が無規制に行われていることが問題なのではなくて、分業が、国家という環節の論理に基づいて規制されることによって、混乱をきたしている、ということである。
 都市=分業は地理的限界を超えるのだから、当然国家という領域を超えて世界的なネットワークが展開される。したがって、この分業ネットワーク、経済活動を国家が制定する法律で正常に規制することができるはずはない。しかし先述したように、現在は国家がマスメディアやソーシャルメディアと結託して、強大な集合意識を形成し、その不可能な規制を担ってしまっているという状況である。さらに環節=国家毎に規制のコードが異なるため、分業の混沌がいっそう深まる。
 したがって、解決するべき問題の一つは、いかに都市、分業を国家の非合理の規制から自由にするかである。しかし、それは環節的類型を完全に消滅させなければならないということではないし、恐らくそれは不可能である。必要なのは、国家という現時点での最も外部の強固な環節を分業のネットワークのいっそうの拡大と複雑化よって相対化し、地域連合、世界政府というより広域を覆う集合意識からなる環節を確固たるものにすることである(110)

―オープンソースとプラットフォーム―

 デュルケームは専門化、細分化する経済活動において道徳を作り出すために、職業集団、同業組合の復活と更新の必要性を説いている。中世の「自治都市」(111) においては、同業組合を中心とした自治体やそれを基盤として形成された政治システムがあったが、経済ネットワークが都市を超えて一国内に分散するようになったことで一都市内の組織であることに固執した同業組合は崩壊した、とデュルケームは分析している。故に、デュルケームは同業組合の再建のためには、同業組合の枠組みが経済生活の枠組みと対応している必要があり、だから市場が全国的また国際的になるにつれて同業組合も拡大されなければならないとしている。そしてこの「全国的同業組合」(112) は国家(これは国際社会と改めるべきである)の中心機関と自律性を保ちながら密接に結びついて運営されていくとした。「産業立法の一般原則を提起する権限は、統治上の諸会議体にある」(113) が、それを基礎に諸同業組合とその「第二次的諸器官」(114) が諸産業の多様性に基づいた規制の専門化を担うとした。さらに同業組合は「救済機能」や「教育的事業」のような社会福祉機能を担うようになると論じている(115)
 このデュルケームの想定している同業組合に非常に類似した組織が現在すでに存在している。それがグローバル企業、取り分けプラットフォームである。プラットフォームはインターネットを起点として拡大し、既存のあらゆる産業を取り込もうとしている。その意味でプラットフォームは「国際的同業組合」であるといえる。そして、その経済的規模から、国家と対等なまでの力を有し始めている。そして、プラットフォームがベーシックインカム的な富の再分配機能を実装するならば、まさにデュルケームの論じる新しい同業組合の実現であるといえる。
 しかし、プラットフォームは、果たしてデュルケームの期待したような機能を果たすだろうか。デュルケームは国際的な同業組合に、国家と同様に法=道徳=規制を作り出す機能を求めた。しかし、忘れてはならないのは、「国家」とは本質的に同質性の共同体であるということである。そして、プラットフォームは、全く同質であるとは断定できないが、この国家に類似した性質を有している。
 資本の集積によってあらゆる産業を取り込んで膨張するプラットフォームの形態変化は、国家が氏族、地域区分、さらに大きな地域区分と領土を拡大して形成されてきたことに類似している。
 また、プラットフォームはその内部と外部との境界を生み出す。プラットフォーム内部の生活は「幸福」に統計的再帰プロセスで維持される反面、それは外部との経済格差によって支えられることを落合は指摘している(116) 。これは「拘束的分業」である。こうした構造は、冷戦構造下で外部(東側諸国、第三世界)に支えられて西側諸国で経済発展が起こり、戦後中流が形成されたことや、手厚い社会保障が整備されたこととの類似性が見られる。
 一方プラットフォームが国家と異なる点として、国家が「法」によって国民を「規制」するのに対し、プラットフォームはユーザーインターフェース、つまり「環境」を操作するアプローチを取るという特徴がある。だがこの差異は、本質的なものではない。なぜなら、どちらも諸個人から外在的に、行為や関係を規定する性質を持つからだ。落合は、社会のソフトウェア化により、プラットフォーム(環境)に対するオルタナティブの生成のサイクルが加速することを論じている(117) 。しかしこのオルタナティブがプラットフォームに取り込まれる、あるいはそれ自体がプラットフォームとして拡大するという形態変化をする限り、諸個人はその選択された一つの環境への適応を求められる。
 このように、一つには国家と同じく環節的に拡大し、内部と外部の境界を生み出す性質から、もう一つには法による規制ではなく環境の整備という方法をとるものの諸個人へある種の画一的適応を要請する点から、プラットフォームは分業に基づく連帯を創出し得ない。
 より致命的な欠陥は前者である。環節的な構造は分業の無制限に展開されるネットワークとは相反する性質である。現在の国家がそうであるように、環節は拡大しようとも、分業のネットワークを捉えきることができない。それは世界規模の環節であったとしても足りない。既に分業のネットワークは時間的にも、空間的(宇宙空間と情報空間)にも拡大し、分業の主体も多様化し、増大している。プラットフォームではイノベーションの停滞が起こる。これは中世の同業組合が変化への柔軟性を失ったのと同様である。

 ここに、もう一つの対立軸が見出される。すなわち、落合の論じているような、オープンソースとプラットフォーム、「AI + VC型」社会と「AI + BI型」社会の対立軸である。「AI + VC型」の社会こそが、分業に対応した職業集団となりうる。分業のネットワークは時空間的制約を受けずに拡大し、複雑化するのだから、連帯が形成される方法もネットワーク的でなければならない。先述したように、「AI + VC型」の社会では、全国的同業組合のような中心機関を必要とせずに、ブロックチェーンによって分散的にオープンソースへの貢献度の可視化がなされ、受益者負担型のエコシステムが形成される。このエコシステムでは、人間にのみ共有される法律は絶対性を持った道徳ではないし、激情的反作用によって行動を規制する必要はない。また、「魔術化」した「環境」がプラットフォームという「神」的存在の手中にあるわけではない。「AI + VC型」の社会をベースにベーシックインカムや教育といった社会保障が整備されれば、内部と外部の境界を作ることなく、全体最適な分業のネットワークが形成され、それと密接に対応した連帯が創出される。
 「国家」、「プラットフォーム」という二種の環節のいずれをも相対化し得る方法は一つで、より高度化され、より細分化され、より多様化された分業のネットワークを形成することである。
 「ワークアズライフ」(118) のライフスタイルが求められる、生活のあらゆる領域が職業的になっていく今後の社会では、職業集団とは純粋な経済活動に限定されたものではない。経済と否応なく結びついている生活のあらゆる領域において「テーマコミュニティ」(119) の形成が促進されていくと考えられる。人々は「AI + VC型」のような目的指向のコミュニティだけでなく、モチベーションの再生産機能を担うような、「家族」の代替となる(が同質性に基づかない)コミュニティにも多層的に所属するようになるのではないだろうか。
 この社会では、都市のように、コミュニティ自体とその成員の流動性が確保されていることが重要になる。無数のコミュニティの絶え間ない生成と消滅のサイクル、コミュニティの成員の流動的な入れ替わりや、コミュニティ同士、同一コミュニティの成員同士、異なるコミュニティの成員同士の接触と相互作用が起こるような、分業の加速度的進行の中での相補性による紐帯の形成が求められる。
 ただ、この社会では諸主体や諸器官の流動化や専門化、細分化が進行する一方で、社会を構成する諸分子が全く自律して活動するという訳ではない。かつては単なる同質性の箱だった環節の変質化したものが、諸分子の分業の集合が向かう全体的な方向性を緩やかに指し示す機能を担うように思われる。それがコミュニティであるし、国家やプラットフォームの向かう先ではないだろうか。
 「AI + VC型」の社会で、無数の多様化した諸主体間に共有され得る道徳があるとすれば、それは唯一「進歩への志向(指向)」のみであり、それがこの社会の成立条件でもある。この道徳により、純粋な分業=生存競争=競争と共依存、が実現された時、逆説的に秩序=生態系がもたらされる。
 落合は、「貧者のVR」(120) として、現実の複雑性・多様性から目をそらし、分断されたコミュニティ(環節)から外部を攻撃することでコンプレックスや自己承認欲求を満たしながら生きる人々が、VR技術によって幻想の世界で「幸福」に生きられるようになることを批判的に論じている。この「貧者のVR」は不可避に加速する分業と、それに対し反作用によって抵抗する環節との摩擦を和らげ、無秩序状態に陥るのを防ぐ仕組みであると捉えられる。ただし、この環節と分業ネットワークの間での階級移動の可能性が確保され、分業ネットワークの固定化、環節化を防ぐ仕組みも同時に整備する必要がある(121)
 また、「AI + VC型」社会の形成に大きな役割を果たすものとして、分業に基づく社会の関係性を可視化する、ネットワークの一部を切り取って発信するメディアがある。しかし、デュルケームが、複雑化する諸事物を全般的に統一しようとする方法によっては、諸事物のほんの表層をさらうのみで本質に肉薄することができなくなると論じているように、メディアは、広域を扱おうとすればするほど、社会の最も抽象的な領域しか捕捉できなくなっていく。したがって、専門性と総合性のパラメータがグラデーション的に異なる複数のメディアが必要となってくる。これにより、世界全体の無数の因果からなる関係性の全てを人間が理解することはできなくとも、つながりを感覚としてだけでも認識させることができるかもしれない。こうしたメディアの機能は、あらゆる関係性が「コンピューテーショナル・フィールド」上で記述される環境が実現されるまでの過程で、必要であると考えられる。

(88) デュルケーム、エミール前掲書、27頁。
(89) 同、297頁。
(90) 同、296頁。
(91) 同、297頁。
(92) 同、298頁。
(93) 同、299頁。
(94) 同、298頁。
(95) 同、304-305頁。
(96) 同、309頁。
(97) 同、311頁。
(98) 同、312頁。
(99) 同、371頁。
(100) 同、314頁。
(101) 同、314頁。
(102) 同、315頁。
(103) 同、316頁。
(104) 同、317頁。
(105) 同、377頁。
(106) 同、351頁。
(107) 同、352頁。
(108) 同、351頁。
(109) デュルケームは家族について前段落のように論じる一方で、第二版序文にて、家族は本来の効力を常に失いつつあることと、それに代わって分業を基礎に置く同業組合が「第二次的集団」となることの必然性を論じている(デュルケーム、前掲書、1893、41-45)。本文との食い違いは再読解の必要があるが、彼は、血縁に端を発した共同体の解体を少なからず展望しているといえる。
(110) 本節の論理展開は、宇野が『母性のディストピア』で展開した、吉本隆明の思想の情報論的解釈を参考にしている。宇野はそこで、吉本が近代天皇制/戦後民主主義という、「共同幻想(国家的な共同体)」(宇野、前掲書、440)――国家は「開かれた関係性たり得る兄弟/姉妹的なものが、共同幻想と接続されること(氏族社会の拡大)によって成立」(同、441)する――からの自立の根拠として、消費社会と結び付いた、「夫婦/親子的な」(同、441)閉じた関係性の「対幻想」(同、441)(「戦後的核家族を担う中流幻想」(同、441))、「大衆の原像」(同、440)を提示したが、それは、情報化した現在の、ソーシャルメディア上での「ソフトで母権的な管理」(同、445)、「下からの全体主義」(同、442)、「母性のディストピア」(同、33)に接続されることを論じている。そしてこの隘路からの脱却の方法として、「空間的永続」(同、457)を持った、「同性間の友愛」(同、458)的な(≒(擬制的)血縁的共同性に依拠しない)「兄弟/姉妹的な対幻想」(同、457)を根拠に置いた、グローバルな市場のネットワーク上での個々人の相補的接続と不可逆的相互作用の関係性(「ニュータイプ」)の構築を論じている。
(111) デュルケーム、エミール前掲書、49頁。
(112) 同、55頁。
(113) 同、54頁。
(114) 同、54頁。
(115) 同、56頁。
(116) 落合陽一前掲書、184-186頁。
(117) 同、172-174頁。
(118) 同、65頁。
(119) 宇野常寛前掲書、490頁。
(120) 落合陽一前掲書、270頁。
(121) また、必ずしも環節に属する個人と分業ネットワークに属する個人が明確に分類できる訳ではなく、諸個人の意識内における集合意識と個人意識の双方が占める比のグラデーションの問題でもある。


まとめ

 
 本レポートではデュルケームの理論の現在への適用を試み、そして主に落合の理論との比較を通じて更新するという手法を取った。現在の課題に対する解決策の思考も両者に大きく依拠している。
 デュルケームの『社会分業論』以後の研究は、「本格的かつ精力的展開」をとげる反面、「現実的関心」から離れる傾向にあったと田原は論じている(122) 。この理由は一つには彼の実証主義的アプローチゆえであると思われる。つまり、現在や未来の社会を実証主義で解明するには、未確定で測定不可能な要素が多すぎるのだ。その意味では、『社会分業論』は、「社会有機体説」という大胆な仮説と、デュルケームの厳格な方法論の融合によって、非常に広大な射程を持った特異な研究となっているのではないだろうか。
 もう一つの理由として、社会全体を論じようとする試みは社会が複雑になるほど表面的になってしまう恐れがある、ということが挙げられる。デュルケームは、万事に興味を示し、知識を自らに集積するのみで満足してしまう「ディレッタンティスム」を痛烈に批判し、「完全であろうとするよりも生みだすことに努め」、「活動力が幅ひろい表面に分散してしまわないで、集中され、広さにおいて失われるものを強さにおいて獲得すること」の必要を説いている(123) 。そのため、そして「実証科学」としての社会学を確立するためにも、より専門的な領域の研究を進めていったのだと思われる。
 この二点は本レポートの課題でもある。本レポートで扱った領域が広範に渡ってしまったため、その一つ一つの領域についての理解の正確さと詳細さが不足してしまっている。今後はこれらの、社会学、経済学、都市論、メディア論、生物学、計算機科学等各分野について深い理解ができるように心がけていきたい。それと同時に、現在及び未来を知るためにどのような方法を取るべきか、ディレッタントになることなく、どのように現実の課題に取り組むか、この課題に対して独自の視点を持って向き合えるようにしたい。
 なぜ、生命は生きるのか、そして進歩を続けるのか。デュルケームはこの問いに対する先見的な眼差しを持っていたように私には思える。彼は、理想に駆動される進歩は決定的な終極を持たないこと、「社会的均衡」は一時の中心地の形成、進歩の放射状の波及、それに伴うコミュニケーションの反響という流動性と可塑性を帯び、画一的停滞的状態(≒熱力学的平衡状態)に陥ることはないこと、を論じている(124) 。そして落合の理論と実装も、これと相似の思考の立脚点に依るように思われる。生態系、有機体、社会、機械、計算機自然は、エントロピーの増大から完全に自由になり得るのかは分からないが、少なくともそれに抗い、低減させようとする動的で変化に富んだ、相互作用や分離・融合を伴う絶え間ない系を為す。
 不可視の現在、そして未確定の未来について考えるためにはどうすればいいのか。必要なのは恐らく、世界への想像力の精度を高めていく思考と、その想像力への信仰に基づいて現実に進歩をもたらしていく確かな実践であり、この両者の循環である。

(122) 田原音和前掲書、757頁。
(123) デュルケーム、エミール前掲書、707頁。
(124) 同、552-555頁。



参考文献


宇野常寛、2017、『母性のディストピア』集英社

落合陽一、2018、『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』PLANETS/第二次惑星開発委員会

ギデンズ、アンソニー、2009、「社会学とは何か?」、『社会学 第五版』(松尾精文・小幡正敏・西岡八郎・立松隆介・藤井達也・内田健訳)、而立書房、19-45。

田原音和、2017[原著1971]、「訳者解説」、『社会分業論』(田原音和訳)、筑摩書房、720-770。

デュルケーム、エミール、2017[原著1893]、『社会分業論』(田原音和訳)、筑摩書房

福岡伸一、2007、『生物と無生物のあいだ』講談社現代新書

ウィキペディア(Wikipedia)、最新更新履歴2018.11.23.05:01、「金融商品取引法」、(閲覧日2019年1月9日)。

ウィキペディア(Wikipedia)、最新更新履歴2019.2.8.16:21、「ライブドア事件」、(閲覧日2019年2月14日)。

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