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齟齬のまにまに、

かつて僕と定型社会に存在した過干渉は、奇妙なほど静謐に、掴み所がない狂騒として生活の各所に現れている。歩きながらこの文章を書く心中は凪いだ海よりも静かなのに、無意識が、目から飛び込む川の瀬の、洲を侵食する様が光を帯びヌメるその姿を描く言葉を探し出して、戻れなくなってしまう。思考が社会生活と形而概念理解力の揺蕩う均衡を描く図式の、組み立て中に挿し挟まる。

多層で同時並行的に起こる思考や感情はすべてつながったまま進んでしまう。閃きは、形になる前にイメージの洪水に流されていく。

「空は青い」と社会は言う。一体どの青なんだ?君はあの雲の白を無視してしまえるのか?空は地平に近づくほど複雑な色をしている。「なんて面倒くさい」そう、判るよ。でも僕にはどこからどこまでを青としていいか判らないんだ。

この文章は時制を無視している。「かつて、僕とーー現れている。」だなんて、まるで文章作法を無視している。けれど、僕はその文字を打ち込むときに過去の自分としてそこにいるのだから、忠実にその世界を表すなら時制は狂っていってしまう。ポストモダン文学は、時系列を取り違えることで心情や人間に肉薄したが、文章でそれを行うと混乱や読みづらさを招いてしまう。

会話も文章もある制約からは逃れられない。コミュニケーションという前提は、物語を土台に展開する。物語を外れると、あるのは混乱だけだ。

物語がより個人的に、より自己に肉薄すると伝える事が困難になるのはこのせいだ。一瞬で入れ替わる時間や場所に、読者は追いつけなくなってしまう。だからって、詳細に、過程を説明していくことは、僕の感情の閃きから遠のいてしまう。

君と僕には齟齬がある。どうしようもない考察だ。証明しようのないそれは、きっと事実だろう。「だから力を抜けよ」と多くの友人。判ってる。でもこれは省略の難しい本能だ。逃げ出せない行動原理の中に組み込まれるから、共同作業は際限なく時間を使わせてしまう。

万事この調子だから、家事や作業が完結することは稀で、ほら、今も足元の蟹の歩む先に気を取られている。進行方向を前とするならば、蟹の目玉は縦に並んで付いている。遠く蟹が知能を高め地球を支配する未来世界では広告のありようはどうなっているんだろうか?家族構成は?恋人は?調べてみました!ああ、時制の話をしていたんだっけ。個別性がもつ不理解についてだっけ、それこそが本当に今の僕の思考なのかもう蟹人間に侵食されて、いや文字を打つスピードが遅々として、思考はあの複雑な青空の遠くに行ってしまった。

今の情報に思考を剥がされない為、現実へ感触で棹差して、抗うように堪える事しか出来ない。上裸になって芝生に寝転ぶ。近くを通る誰かに微笑み声をかける。吠える犬に吠え返す。皮付きのリンゴを道端で齧る。人混みで昼間から一升瓶を呑む。「アメリみたいだね」ってかつての恋人。違うんだ。現実から遊離して空想に暮らしたい訳じゃない。ただ今を掌で触りたいだけなのに、

かつて幼い自分が傷付かないように人やその中にあるそれぞれの社会との齟齬を埋めるには、物語を作り込む必要があった。それに思考は途方もない快楽を伴うから、今を掌で触るのはとてもとても難しい。

飽きずに付き合ってくれた友人や、蓄えた知識、振る舞いの試行錯誤に助けられ、定型社会の過干渉から解放されつつある僕は、現実の生活と漸く折り合いがつき始めている。

それでも、新たに出会う人たちに説明する不自由は、関係構築を求める限り付き纏うだろう。
前提となる物語の不一致は、なかなかに溝が埋めがたい。

何故、人は手で触ったものがそこにあると実感が持てるんだろう。僕にはちっともそれがわからない。文字を打ち込むため握り込んでいるスマホが、全感覚で作り出した虚構だとして、ああそうか、としか思わない。顔に当たる風に備わった心地よさが僕と風のどちらの領域の物語なのかわからないままだ。

それでも飯は楽しめるようになったし、人と自分にとって適切なだけ自由に時に会うこともできる。失敗を楽しむ事ができて、後悔だってできる。

形而上の思案ばかりで、実生活が困難な僕を思って泣く母の「いっそ手足のどれかがなければわかりやすかったのにね」は、もう古い引き出しの中に閉まってある。

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