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ミュージカルオタクが観た「ミュージカル俳優 ドギョム」

ミュージカルが好きだ。
音楽とダンスとストーリーが一体となって、小さな舞台の上に無限の世界を創り出す総合芸術。
スケールの大きいミュージカル映画も良いけれど、舞台装置と演出のみで、私たちを魔法の国にも、サバンナにも、古代エジプトにも、未来社会にも連れて行ってくれる、あの劇場が大好きだ。
そして、歌が上手いとか演技がすごいとか、そんな一言でまとめられない歌や台詞のビリビリとした圧や、全身で受け止めたそのエネルギーに涙が止まらなくなって一周回って笑っちゃうような、劇場の臨場感が何よりも大好きだ。

ミュージカル苦手勢からは「突然歌い出すからよく分からない」と言われることも多いが、個人的にはあれは別に歌っているわけではないと思っている。
歌はあくまで、心の内から湧き上がる強い感情(希望、思慕、決意、憤怒、不安…)をより効果的に表現するための一つの手段だ。
美しいメロディに乗せることによってその感情がさらに増幅されるから、ただ台詞でそれを言ったときよりも強く深く観る者の心に刺さる。
華やかに重層的に、それぞれのシーンにより強い説得力とメッセージを添えるミュージカル音楽にしか出せない魅力が、そこにはある。

だから、そんな私が彼らに、彼に、惹かれたのはある意味自明だったと言えるかもしれない。
グループを説明するとき、そのパフォーマンスを「ミュージカルみたい」と表現するのはよく見かけるし、布教されて初めて観た彼らのパフォーマンスなんかその最たるものだ。
そして、人数の多さに圧倒されてまだ誰の顔も名前も分からない初見時、彼はあまり目立っていなかったけれど、確かに私は「赤い服の人」の声が好きだと言った。
暗闇をも切り拓く一筋の明るい光のような、ハリがあって伸びやかなよく通る声。
まさにミュージカルで慣れ親しんだようなその歌声が、私は初めて聴いたときから大好きだった。

いまだに一番大好きな楽曲

オタクはすぐに妄想する生き物である。
推しにあれをやってほしい、これを歌ってほしい、言うだけタダなので、何でもかんでも要望しては持ち前のたくましい想像力で脳内にそれを実現させる。
その意味で「ミュージカル俳優 ドギョム」はまさに、私の脳内に存在し続けた私の願望だった。
(役はCATSのスキンブルシャンクスをリクエストしたい)
もっとも、それより前にとっくに彼はミュージカルに出ていたので、それは妄想でも何でもないただの事実なのだが、私がそれを観る機会が無い以上、ミュージカル俳優としての彼は私にとってはやっぱり想像上の存在だった。

そんな彼が主演したミュージカルのドキュメンタリーが公開される。
それが私にとってどれほど嬉しいニュースであったか、もはや説明の必要は無いだろう。
しかし一方で、脳内で完璧に創り上げた理想の存在を現実世界で目にしたとき、自分が何を思うのか一抹の不安があったことも否めない。
いろんな感情がないまぜになった緊張感に包まれながら、私は一人映画館へと向かった。


良い意味で「ドキュメンタリー」という言葉に騙された。
もっと情熱大陸みたいな、彼の密着取材のような映像を想定していたのに、初っ端から劇場の舞台が写り、彼が一人舞台に現れるではないか。
アーサーが馬を呼ぶ最初の台詞、それを聴いた瞬間涙がこぼれ、続く一曲目、"when will we learn"ではもう涙が止まらなくなってしまっていた。
歌う音楽、声の響き方、発声、衣装、表情、何もかもが「ミュージカル俳優 ドギョム」だった。
私がいつか見てみたいと渇望した存在が、あまりにも自然な姿で当たり前のように舞台に居た。

実は私は、「知っている人」のミュージカルを観るのが初めてだった。
もちろん好きなミュージカル俳優はたくさんいるが、それはあくまで俳優、表現者としてであり、劇場で出会ったその役や、その人が演じる別の役に会いたいからまた劇場に行く、ただそれだけのことだ。
でも彼は違う。
入り口こそその歌声だったが、グループ活動を通して見えるその人柄やキャラクターも含め私は彼を「推し」ている。
そんな自分の大好きな「推し」が、自分の大好きな空間で、自分の理想の姿で歌っている。
それは私の夢が叶った瞬間だったと同時に、初めて経験する少し不思議な時間でもあった。

しかし、そこから現実は夢を遥かに超えてしまう。
やや失礼に聞こえるかもしれないが、現実の彼は私の想像以上にしっかりと「ミュージカル俳優」だった。

演者の個性によってその役の解釈が少しずつ変わるのが一期一会の舞台の面白いところだと私は思っている。
だからその解釈が自分の価値観と合うかどうかが、ぶっちゃけその舞台の満足度とかなり連動する。
(この話は下記の投稿に詳しく記しているので、興味のある方は良ければ読んでみてください)

そしてこの作品、ストーリーが進めば進むほど、「ミュージカル俳優 ドギョム」演じるアーサーは、怖いほど私の解釈や嗜好と一致した。
彼の良いところを全部集めたような歌唱の素晴らしさはもちろんだったが、私はその演技にも圧倒されてしまった。
ミュージカルの演技は何もかもがオーバーでかなり独特なので、その経験の少ない人間がそこに波長を合わせるのはものすごく難しい。
しかし彼の演技は、本業かと見紛うほどにミュージカルのそれだった。
特筆すべきは眼の演技だ。
幸福、慈しみ、決意、愛、不安、怒り、淋しさ、孤独、絶望……内から溢れる感情すべてを彼は眼で表現していた。
ミュージカルにおける歌は感情表現のための手段であると上述したが、そこに強烈な演技が加わることでその感情の説得力はさらに増す。
そうなると、もはやそこに「ドギョム」は居なかった。
アーサーがアーサーとして笑い、泣き、怒り、生きていた。
同時に私のCARATとしての人格も消え、私は一人のミュージカルオタクとしてストーリーに心を震わせ、おいおい泣きながら無音で拍手することしかできなかった。
でもそれで良かったと思ったし、そうさせてくれたことが本当にありがたかった。


あれ以来、私は「ミュージカル エクスカリバー」自体が大好きになってしまったので、公式で上がっている音源や映像を片っ端から調べている。
そのときに他の方が演じるアーサーもたくさん目にするのだが、それらを観てもなお私はドギョムアーサーの解釈が一番好きだと思ってしまう。
すでにCARATである私がそんなことを言っても何の説得力も無いのが本当に悔しくもどかしいのだが、何も知らない状態でこの作品を観て、彼が演じるアーサーに惹かれ、中の人である「SEVENTEEN ドギョム」に出会っていた世界線も充分に考えられるくらい、何度観てもあのアーサーは私にとって完璧だった。
だから、彼がたとえSEVENTEENのドギョムでなくとも、私がたとえCARATでなくとも、私は絶対にあのアーサーで彼を見つけられたと心から言える。
それくらい、彼は私にとって最高のミュージカル俳優だった。

そしてありがたいことに、彼は「知っている人」なので、表現者としての彼を愛することは、人間としての彼をさらに愛することに結びつく。
いくら彼がグループのメインボーカルとはいえ、ちょっとやそっとではあの歌唱と演技はできない。
あの最高のアーサーの裏にある彼の膨大な練習量を思うと、シンプルに「すごすぎる」という感想しか私は出てこない。
忙しい日々の中新しいことに挑戦し、それを本業とするベテラン俳優陣に混ざって謙虚に努力を重ね、練習中も周囲への気遣いと笑顔を絶やさず、主演としての重責を力に変えて進む彼の姿。
舞台裏やインタビューから見えるその姿は、彼が私の「推し」であることもあらためて強く認識させた。

表現者として、人間として、私はまた彼を好きになる。
彼への愛をまた何倍にも膨らませてくれたこの作品に出会えて本当に良かった。
だから何度でも言おう、私の人生に現れてくれてありがとう。どうかずっと健康で、幸せでいてね。

これはドギョムではなく、アーサーのトレカ

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