エッセイ:無自覚な幸せにあぐらをかいている
以下、本文。
本当にたまたまなのだけれど、Twitterを眺めていたら、某氏がネット上で自殺配信をしたころの年齢について言及されていた。そしてなんとなくツイート詳細を見て、たまたまリプ欄に貼ってあったリンクをクリックしていた。
正直、なんでクリックしたのかは分からない。大分昔そんな話があったけど、知っている話かなとか、それとももっと薄汚い感情に起因した興味本位とか、そういうのがない交ぜになってクリックしたのだと思う。
で、そのリンクがこれ。
https://archive.md/2016.09.29-165755/http://daruma0724.web.fc2.com/
平たく言うと、亡くなった方が自身の人生について詳細に記載している。
なんだかわからないけれど、読み始めてから読むのを止められなくなった。
引きこもりになる過程で段々記載内容が少なくなっていくあたりや、自分と周囲を比較して、それがキツくなってどんどん孤立していくあたりとか、あまりにも身につまされて。
自分は学生時代は比較的マシに生きていたと思うけど、まぁそれなりに不幸な部分もあったと思う。片親でその親はヒステリックでしょっちゅうよく分からないことで怒鳴られて呼吸が苦しくなっていたし、一方で金も無いので一人暮らしはできず実家で親と暮らすことは半ば強要されていた。高校・大学も実家から通えるところ以外を選択肢に入れられなかったし、結局片道2時間ぐらいかけて通っていた。
そんな人間だったから、自分の違う世界線を見ているようで、全く他人事に見えなかった。私はかろうじて良い指導者、良い学校、良い環境、そして、良いとは言えないが悪いとも言いにくい家庭環境にリーチすることができて、自宅以外の環境で幸せになることが出来ていたので今の自分にたどり着けていると思う。だが、これらに到達できていなかったら、同じように死んでいた気がしてならない。
特に、読んでいる側に「おまえらは恵まれているだろ」と問いかける、というか一方的に投げつけるように言ってる部分は、読んでいて辛くなった。過去を振り返って、違う家庭・違う親に産まれていたら、きっともっと幸せになれたと思うことは何度もあって。でも、横から俺の方が不幸で恵まれていないって言われて、それを事細かに説明されたら、もう受け入れるしか無い気がして。
多分、自分の幸運を自覚、したのだと思う。
けど、じゃあなんなのだ、何が変わるのだ、と問われると、なんだかもやもやする。知らない間に宝くじ当たってたら、多分「ラッキー」とか「やったぜ」とか「今日はお酒開けちゃお」とか、そういう喜びに繋がると思うんだけど、そんなのとはほど遠い、そういう0→1へプラスされる幸運では無いのは確かで。
自分が0にいるとおもったら、本当は1だった、というタイプの幸運なんだと思う。そしてその伝えられ方が、叱られるとか、窘められるとか、そういう形で、「俺は不幸なので死ぬが、お前は幸運に恵まれているから生き続けられるんだぞ」と言われているような。ずっと脳裏に張り付いていて、ただ呼吸しているだけでも居心地の悪さを感じる。
別にだからといって、件の記事とその作者に苛立っているわけでは無く。
ただそういう、日常に重しがかかったということを記録しておきたくて書き始めたのが今日の記事だった。きっとこんなこと考えているのも、いつかわすれてしまうのだろうけど。記録はしておきたいと思った。そのくせこの記事、書くのにもう1週間はかかっている。それぐらいに、わからなかったから。
書いたらなんらか決着が付くと思ったんだけど、全然そんなことなかった。素直に慎ましく生きようと言うわけでも、そんな話無視すると言うわけでもなく、未だにどう付き合うべきか分かっていない。
それもふくめて記録しておくしか無いんだと思ったので、一旦素直に書いている。だって分からないのだから。
私が実は幸運だったとして、私の身に降りかかってきていた不幸とその結果は何も変わらないし、私は別に救われない。未だに引きずっている不幸も多い。だがそれでも幸せだと思って黙って生きろというのは、ちょっと酷な話だと思う。
だが、それもまた、自身の幸運にあぐらかいて座っているから言えることなのだろうか。仮にそうだとして、だったらどうすべきか。どうしたところで別に誰も救われないのに。でも現状が正しくてそのままなのもおかしい気もして。ずっとこのあたりをぐるぐるしている。
結局結論が出ないので、一旦ここでこの記事は終わらせようと思う。こんな終わり方をするのは本当にこう、ずるいのだが。今の自分にはこれが限界で。なんらか答えが見つかったら、書き足すかもしれないし、別の記事にするかもしれない。まずは今日はここまでとさせていただきたい。
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