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記憶の箱

記憶というのは曖昧である。なぜなら、記憶というものにはそれぞれに異なる大きさ、質量、密度があるからだ。

人はそれぞれ記憶をしまっておく箱を持っていて、その中に様々な形の記憶を放り込んで溜めている。幸せな記憶はそれなりの質量を持つのだが、その大きさ自体が大きくあまり密度は大きくない。そのため、記憶の箱を覗き込めば常にすぐそこにあって、簡単に取り出せるようになっている。それに対し辛い記憶は小さくてとても密度が大きい。もしかしたらその記憶を忘れたいがために、大きくて重い塊を意図的に小さくバラバラに砕いているものもあるのかもしれない。そうして辛い記憶というのは、幸せな記憶やその他の普通の記憶の間をすり抜けて記憶の箱の奥底へと沈んでいき、とうとう忘れられていくのだろう。人は記憶の箱に新しい記憶を上から放り込んでいくので、当然古いものから新しいものへ順番に積み上がっていると思い込んでいる。しかし、大きさ、質量、密度がバラバラなのだから箱の中でどんどん順番が入れ替わっていくのである。こうして記憶というものは曖昧なものとなるのだ。

しかし、たまに、バラバラに砕かれた記憶の破片の一つが途中で他の記憶に引っかかって奥まで沈まない場合がある。もしかしたら辛い記憶をバラバラに切り刻む過程で、割と簡単に取り出せてもいいかもと思う部分を無意識に大きめに残しておいたのかもしれない。そして、ふとした瞬間にその破片を見つけて何の気なしに引っ張り上げると、バラバラにしたはずの塊が実は目に見えない糸で繋がっていて、思い出したくなかったはずの記憶の全体がズルズルと芋蔓式に掘り起こされるのだ。


私にも、最近そんなことがあった。


誰にだって多かれ少なかれトラウマみたいなものはあるだろう。私の場合、こうやって記憶を物質化して考えてみたら少し楽になった。トラウマは苦しいが、必ずしも乗り越えなければならないものでもないと思う。自分の記憶の箱の中、つまり心の中に傷として残っていて、その傷を持った私が私自身そのものなのだと受け入れるだけでいいのだと思う。小さい頃の予防接種の痕や水疱瘡の痕、火傷の痕がある人もいる。トラウマだって同じようなものだと思ってしまえばいい。むしろ、その人のチャームポイントだ。他の人より小さくて密度の大きい辛い記憶を箱の奥底に溜め込んでいる人は、同じ大きさの箱により質量の大きい記憶を溜めていることになる。常に重いものを持ち歩くのは大変だが、その分きっと豊かで密度の濃い人間なのだと思う。


さて、トラウマに苦しむ人が少しでも楽になりますように。


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