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上機嫌な婦人たち

バレエ・リュスはフォーキンとニジンスキーという振付師兼スターダンサーを立て続けに失ってしまう。そこに追い打ちをかけるように第一次大戦が勃発(1914)。ロシア革命まで起こってしまう。バレエどころではない八方塞がりな状態の中、ディアギレフはバレエ・リュスの新しい方向を必死で探っていた。ジャン・コクトー、ピカソ、サティの「パラード」の製作をスタートさせ、ボリショイでスカウトしてきた超イケメンのダンサー。レオニード・マシーンを新たな振付師にさせるべく徹底的に教育していた(そして愛人にもしちゃう。さすがだ)。手始めにリムスキー=コルサコフの「雪娘」を題材にした「真夜中の太陽」をマシーンに振り付けさせ、「ラス・メニナス」(1916)「キキモラ」(1916)「上機嫌な婦人たち」(1917)「パラード」(1917)と立て続けに振り付けを担当させる。マシーンは作品毎にぐんぐん成長した。彼はニジンスキーのような生まれついての鬼才ではなかったかもしれないが、吸収力抜群でやればめっちゃできる子だった。どんどん吸収して天才になってゆくタイプ。吸収する天才。研究熱心な努力家。マシーンの感覚は時代の最先端の芸術家たちが集まるバレエリュスの環境の中で磨かれ更に鋭敏になっていった。

ディアギレフは第一次大戦中の航海を異常に嫌がった(ディアギレフは人一倍臆病で怖がりだった)。ドイツのUボートが怖かったのだろう(実際Uボートはマジでやばかった)。だから1916年のバレエリュスのアメリカ公演には同行しなかった。その間ディアギレフはマシーンとローマに残った。

アメリカにはニジンスキーが行った(ニジンスキーは退団していたがアメリカ巡業は契約上ニジンスキーの出演が必須だった)。

図書館

その間ディアギレフはローマの図書館に入り浸って、イタリアの古楽の古い楽譜(ドメニコ・スカルラッティ、チマローザ、ペルゴレージなどなど)をあさっていた。そして、ドメニコ・スカルラッティのソナタを使ったバレエをマシーンに提案する(そのときに見つけたチマローザやペルゴレージの楽譜はストラヴィンスキーの「プルチネルラ」の元ネタになった)

サンタチェチーリア音楽院、図書館
サンタチェチーリア音楽院、図書館


ディアギレフはこのためにピアニストを雇ってD・スカルラッティの500曲近くあるソナタをすべて演奏させ、マシーンと二人で選曲してヴィンチェンツォ・トマシーニ(1878-1950)にオーケストレーションを依頼した。
マシーンも図書館で古いバレエの本でバロック時代の踊りをじっくり研究して、振付に生かしてゆく。イタリアはバレエ発祥の地だから、もちろん文献も充実しているだろう。そう、このバレエは音楽だけが古典主義的だったわけではなく、踊りに関しても古典主義的だったのだ。

この当時のバレエリュスはサティ、ピカソ、コクトーと「パラード」の準備をしていた。ディアギレフはこの時ローマに集結していたピカソ、コクトー、マシーン、ストラヴィンスキー(花火の指揮のために丁度ローマ入りしていた)たちとこれからの新しい芸術の最新の傾向と、それをどんな風にバレエに活かすか、ということについてじっくり議論を重ねた。当時45歳のディアギレフより年下の天才たちはどんどん新しいアイデアを出して議論を深めてゆく(コクトーとマシーンは20代、他は30代半ば)。ディアギレフも若い天才たちとの議論を楽しみながら刺激も受けただろうし、おそらく挑発もしただろう。
「美とはシンプルなはずなのに人々はなにか勘違いしている」(ジャン・コクトー/雄鶏とアルルカン)


超シンプルな音楽が特徴のサティはスコラカントルムで古楽を徹底的に叩き込まれた筋金入りだ。ピカソもまたこの時期、新古典主義の方向に向かっていた(ピカソはキュビズム的作品と新古典主義的作品を同時に描くようになる)。
時代の流れは完全に新古典主義的方向に流れ始めていた。ディアギレフはそれを感じとっていて、最高のプロデュース能力で時代の最先端に躍り出ようとしていたのだ。
バレエ・リュスはこの「上機嫌な婦人たち」ではっきりと新古典主義の方向に舵を切ったことになる(それはピカソとストラヴィンスキーの「プルチネルラ」(1920)で結実することになるだろう)

「サティの反逆とはシンプルへの回帰である」(ジャン・コクトー/雄鶏とアルルカン)

1913年にローマの聖チェチーリア音楽院の教授に就任したレスピーギも、この当時は音楽院の図書館で古い楽譜の研究に没頭していたはずだ(「ローマの噴水」の成功で名声が高まっていた頃のこと)。「リュートのための古風な舞曲とアリア」第1集が書かれたのもちょうどこの時期になる。レスピーギもこの作品以降、古楽研究の成果を取り入れた作品を次々と発表するようになる。それ以前のレスピーギも前奏曲、コラールとフーガ(1901)組曲(1905)など、バロック的なスタイルの曲を書いてるが、そうした傾向がはっきりするのはやはり1913年以降とゆーことになるだろう。図書館って大事!

ちなみに、新古典主義の代表作と言われるプロコフィエフの古典交響曲も1916年から1917年にかけて作曲された作品だ。

もしかするとこの当時レスピーギはマシーンやディアギレフと図書館ですれ違っていたかもしれない。いや、軽く挨拶くらい交わしただろうか。そんなことを想像してみるのもなかなか楽しい。

「上機嫌な婦人たち」に引き続き、ディアギレフはまたしてもロッシーニの未発表の楽譜からバレエを考えつく。オーケストレーションはレスピーギに依頼した。
それが「風変わりな店」(1919)だ。

オットリーノ・レスピーギ


1917年4月12日に「上機嫌な婦人たち」はローマのコンスタンツィ劇場初演され大成功を収めた。このコメディアデラルテ風のバレエを観客は大いに楽しんだ。

グリゴリエフは次のように書いている。
「一座がこれまで上演した中で、これほど完璧に踊ったことはなかった。今回のバレエほど、徹底的に稽古をしたものはなかったからである。」

女中のマリウッチャはリディア・ロプコワの当たり役だった。観客はすぐに生き生きと動き跳躍するロポコワに夢中になった。彼女はパヴロワやカルサヴィナとは全く違ったダンサーだった。

「上機嫌な婦人たち」マシーンとカルサヴィナ(1919)


「上機嫌な婦人たち」のマリウッチャを演じるロポコワ


音楽:D.スカルラッティ(トマシーニ編曲)、振付・台本:マシーン、美術・衣装:バクスト
出演:マシーン、カルサヴィナ、チェルニチェヴァ、ロポコワチェケッティ、イジコフスキー、
バクストの衣装やメイクアップも非常に見事なもので好評だった。

バクストによる「上機嫌な婦人たち」の
マリウッチャの衣装

この日はストラヴィンスキーの「花火」も初演された

「上機嫌な婦人たち」組曲

その後バレエの音楽はオーケストラ用の組曲になった。

👆の動画はイーゴリ・マルケヴィッチの指揮による演奏だ。マルケヴィッチはディアギレフの最後の愛人で、ニジンスキーの娘のキュラとも結婚していた。作曲家としてバレエリュスのための音楽(王の眼)を準備中にディアギレフが亡くなったのでこれは果たせなかった。バレエ・リュス的にはものすごく由緒正しい音楽家なのだ。

組曲で使用されているドメニコ・スカルラッティの作品は以下の通り。
D.スカルラッティ ソナタ ト長調 K2
Dスカルラッティ ソナタ ニ長調 K435
Dスカルラッティ ソナタ ロ短調 K87
Dスカルラッティ ソナタ ニ長調 K430
Dスカルラッティ ソナタ(猫のフーガ)K30 ト短調
D.スカルラッティ ソナタ ニ長調 K455

6曲使われているが、組曲は5曲なのであれ?と思われるかもしれないが、トマシーニは終曲で猫のフーガK30とソナタK455をミックスして使っているから組曲は5曲になってる。このミックスがなかなか素晴らしい🐈。

あらすじ

カーニバルの夜。リナルド伯爵の妻コンスタンツァが伯爵の愛を試そうとして書いた嘘の恋文が巻き起こすドラマ。老いたドンファン、恋多き女、愛人たちが錯綜するドタバタ喜劇。伯爵たちが女装し、女たちは男装してお互いに相手を騙そうとする。ドタバタは更にエスカレートしてゆくが、もちろんすべて丸くおさまって大団円。
モーツァルトの「コシファン」や「フィガロ」を更に複雑にしたようなものかな。これを言葉なしで表現するのは大変だっただろうなあ(^◇^;)


余談:各国の古楽復興の状況


独墺の状況🇩🇪🇦🇹
バッハの死後その作品はほとんど忘れられてしまっていた。モーツァルト(1782年頃にはバッハの作品を弦楽四重奏用にアレンジしたりしてる。KV405)、ベートーヴェン、メンデルスゾーンをはじめとする天才的な音楽家たちがバッハの素晴らしさを脈々と伝えてきてはいたものの、それはなかなか一般には広がらなかった。
メンデルスゾーンによるバッハの「マタイ受難曲」の記念碑的な復活上演(1829)によってバッハの再認識が始まり、1850年にはバッハ協会が設立されて旧バッハ全集の作成がスタートする。旧バッハ全集にはメンデルスゾーンやシューマンなども参加している。旧全集がようやく完成したのは1899年のことだった。
シューマンの後期の交響曲はバッハの研究が最高の形で生かされている。シューマンはバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ無伴奏チェロ組曲にピアノ伴奏をつけたりもした。メンデルスゾーンも同様ブラームスもシャコンヌを編曲した。ブラームスは刊行中の旧バッハ全集を熱心に研究。

響曲第4番(1885)の最終楽章のパッサカリアにはバッハのカンタータBWV150の終曲のパッサカリアのテーマが使われている(上の動画の最後のチャプター11m16s〜)。ブラームスはクリュサンダーと共同でクープランのクラヴサン曲全集(1871-88)を編纂。ヨアヒムもまたクリュサンダーと一緒にコレルリの作品集(1888-91)を編纂した。そしてクリュサンダーは単独で新しいヘンデル全集(1858-1902)を編纂。このヘンデル全集は偉業だ。
バッハ再発見の動きの中で19世紀後半にはブクステフーデのオルガン作品についての論考が発表され、スウェーデンでブクステフーデの声楽曲が大量に発見されたりする。

ドイツはワーグナーのものすごい影響下にあったので全体としてはなかなか古典主義的方向に向かっていかない現状もあったが、R.シュトラウスのオペラも「ナクソス島のアリアドネ」(1916)ではオケの編成がぐっと小さくなる。シェーンベルクは「室内交響曲」(1907)で形式もサイズもとことん絞った(これを聴いたマーラーは絶賛した)。マーラーは1909年にバッハの管弦楽組曲をアレンジした。超極大規模の交響曲8番の後のことだ。

フランスの状況🇫🇷
フランスはアンチ・ワーグナー(アンチ・ドイツ)の気運の高まりもあっただろうが、19世紀からフランス古楽の復興が盛んになった。
ヴァンサン・ダンディやサン=サーンス、フォーレらはその立役者だった。サン=サーンスは特にラモーの復権に大いに寄与した。1895年にスタートした「ラモー全集」の巻頭には編集者として関わり序文をも寄せている。ラモー全集の編集にはダンディ、アーン、デュカス、ドビュッシーも関わっている。1894年にはダンディが古楽中心の音楽学校「スコラカントルム」を開校させた。ダンディのほか、サン=サーンスやフォーレもここで教えた。サティやルーセル、ナディア・ブーランジェはここで学んでいる。
こうしたフランスの古楽復興の風潮は当然のようにドビュッシーやラヴェルにも影響を与える。ドビュッシーでは「ベルガマスク組曲」(1890)も「ピアノのために」(1901)、ラヴェルの「古風なメヌエット」 (1895)「亡き王女のためのパヴァーヌ」(1899)「ソナチネ」(1903-05)サティの「3つのサラバンド」「3つのジムノペディ」などはフランス古楽復興の流れの中で出てきた最上の成果なのだ。フランスでは新古典主義への準備がすっかりできていた。

イギリスの状況🇬🇧
1726年オックスフォードの音楽博士だったペープシュは「古楽アカデミー」(Ancient Music Academy)を設立し、16世紀などの古い音楽の復興・研究を始めた。
1787年からサミュエル・アーノルドによるヘンデル全集がスタートする。
ベートーヴェンはアーノルド編集のヘンデル全集を持っていて、病床でも座右に置いて研究していた。ベートーヴェンにはヘンデルのユダスマカベウスの主題による変奏曲WoO 45
(1796)があるし、ソロモンの序曲のフーガの弦楽四重奏への編曲Hess36(1794-5)もある。
モーツァルト編曲のヘンデルの「メサイア」KV572「アチスとガラテア」KV566は有名だろう。
ホルストはパーセルをはじめとするイギリス古楽の研究もしていて、1910年代には特に熱中した。パーセルの「ゴルディアスの結び目」を現代のオーケストラ用に編曲
ホルストの親友ヴォーン・ウィリアムスもまたパーセルの研究者でもあった。ホルストもヴォーンウィリアムスもノヴェロ社のパーセル全集(1916)に関与していた。ものすごくしっかりした全集だ。やっぱりこれまた1916年!

イタリアの状況🇮🇹
イタリアの古楽復興は、他のヨーロッパ諸国に比べるとどうしてもやや見劣りがする。イタリアの光り輝く音楽の歴史から考えると本当に意外なことだ。フランチェスコ・マリピエロはようやく1902年くらいから古い楽譜の研究を始めていたが、彼が校訂するモンテヴェルディ全集のスタートはようやく1926年。ヴィヴァルディの作品の校訂作業も1952年以降になる。
それでもマリピエロは新古典主義的な「3つの古風なダンス」(1910)「チマロージアーナ」(1921)を作曲して作品の中に古楽研究の成果を取り入れている。

ジャン・フランチェスコ・マリピエロ


レスピーギが本格的に古楽の研究をし始めたのも1913年からのことだ。
カゼッラがキジアーナにヴィヴァルディの研究機関を発足させるのも1938年のこと。ヴェネツィアにマリピエロを監督に迎えたヴィヴァルディ研究所が開設されるのもようやく1947年のことなのだ。
カゼッラの新古典主義的な「シャコンヌ主題による変奏曲 」Op.3や「トッカータ」Op6(1904)なんか、ホントにもの凄いなと思う。Op.3はいわゆる「ラ・フォリャ」((;゚Д゚)
こーゆー系統のものではレスピーギの「ヴァイオリンソナタ」(1916-17)のパッサカリアが超強烈なんだけど、カゼッラもなかなか負けてない。

アルフレッド・カゼッラ

そして1950年代からのイ・ムジチの録音でようやく世界的なヴィヴァルディ・ブームがやってくる。全国的にオペラにあまりにもかまけてしまったからとゆーのもあるかもしれないし(あくまでもおれ個人の主観的印象です。違ったらごめん!)、陽気でちょっとルーズなイタリア人の特徴から来てるってこともあるのかなあ、とか類型的なことを思わず考えてしまうが、いやいやいや、几帳面な学級肌のきっちりタイプのイタリアの人もいるよね。ごめんなさいごめんなさい!でもやっぱりイタリアの音楽的遺産のあまりも膨大すぎる量に比して研究の土台が脆弱で研究者が少なすぎたのは大きいような気がする。ヴィヴァルディだけでもとんでもない分量だし….

イタリアの至宝であるはずのモンテヴェルディの「オルフェオ」からして、1881年にドイツのアイトナーの編曲が出版され、フランスのダンディの版が1904年にパリで上演されて、1925年にカール・オルフ(オルフはモンテヴェルディの研究をしていた)の版がマンハイムで、ヒンデミットの版が1943年と1954年にウィーンで演奏される。このヒンデミットの1954年の上演を観ていた若きニコラウス・アーノンクールは決定的な印象を受ける。1969年にアーノンクールは古楽器によるオルフェオの演奏を成し遂げた。と、まあ、このように「オルフェオ」の歴史的に重要な上演は(残念ながら)ほとんどイタリア以外なのだった….

でも、今のイタリアは昔とは全然違う。
古楽の演奏も研究も教育も非常に盛んだ。

今やヴィヴァルディのオペラなんかだと、今最も先進的なのはイタリアだろう(ヴィヴァルディはまず何よりもオペラ作曲家!)。



マエストロ リッカルド・ムーティもサリエリにこだわった。マエストロ・ムーティはちょっとそう見えないけど実はめっちゃ学究的で忘れられたイタリアの作品の発掘と普及に熱心なのだ。例えばケルビーニの宗教曲なんかはマエストロがやらなければここまで知られることはなかっただろう。。


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