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ストラヴィンスキー:花火、葬送の歌

ストラヴィンスキーのオーケストラのための幻想曲「花火」Op.4は1908年に作曲された最初期の作品だ。この時期、師匠リムスキーは狭心症を患っていて、病状は悪化していた。心配したストラヴィンスキーはレッスン以外にも師を訪ねるようになる。父親を亡くしていたストラヴィンスキーにとってリムスキーは父親同然の存在だった。
ストラヴィンスキーは言う
「私ほどリムスキーと親しい関係にいた人間はほとんどいないだろう」

リムスキー=コルサコフとストラヴィンスキー(1908)


ある日、ストラヴィンスキーは師に作曲中のオーケストラ用の幻想曲(花火)の話をした。リムスキーはその作品に興味を持ち、できあがったら送るようにと言った。ストラヴィンスキーは「花火」を当時結婚を控えていたリムスキーの末娘のナジェージダの結婚式のお祝いにしようと考えてすぐに作曲に取りかかり、一か月半で曲を仕上げた。しかし、リムスキーは「花火」の完成稿を見ることはできなかった。
1908年6月、リムスキーは息をひき取った。

リムスキーはレッスンでストラヴィンスキーが持ってきた課題を「ひどい!胸が悪くなる」などと言ってさんざん酷評した。でも、実は誰よりもストラヴィンスキーの才能を高く評価して、熱心に指導した。
リムスキー=コルサコフの葬儀に列席したストラヴィンスキーは泣いていた…
葬儀の後、ストラヴィンスキーは師の追悼のために「葬送の歌」を作曲し始める。
リムスキー=コルサコフのレッスンについてストラヴィンスキーは以下のように言う。
「 主要科目は、理論的かつ実践的な楽器法のレッスンであった。 私はベートーヴェンのピアノソナタや弦楽四重奏曲、そしてシューベルトの行進曲を編曲せねばならなかった。 中にはリムスキー自身のまだ発表されていない作品も混じっていた。 出来上がったものを見せると、彼は自分で作ったスコアを示し、比較しながら、例外的な書法も可能であることを説明してくれるのであった。 こうしたレッスンと並行して、私は、リムスキーがぜひ学ぶようにと忠告してくれた対位法の学習を熱心に進めた。」
ディアギレフもリムスキーに作曲を習ったことがあったから弟子の一人だ(才能がなくて続かなかった)。
ディアギレフは言う
「彼は死ぬまで先生と生徒をうまく混ぜ合わせたような人物だったから、我々は彼を笑い、同時に彼を愛していた」

愛すべきリムスキー!
リムスキーについてはこちらにも記事を書いているので参照されたい(多少の重複ご容赦!)

セルゲイ・ディアギレフは、1909年にリムスキー=コルサコフの追悼演奏会で演奏されたストラヴィンスキーの「幻想的スケルツォ」Op.3(1902)と「花火」Op.4(1908)「葬送の歌」Op.5(1909)を聴いた。


ディアギレフはその音楽にすっかり魅せられ、無名の新人作曲家にすぐ会いに行って意気投合した。こーゆー行動の早さはさすがディアギレフ。

手始めにディアギレフは「レ・シルフィード」(1909)のショパンのピアノ曲のオーケストラアレンジをストラヴィンスキーに依頼した。これが出世作「火の鳥」(1910)に繋がり「ペトルーシュカ」(1911)「春の祭典」(1913)が次々と生まれていく。

「花火」も「幻想的スケルツォ」も師匠譲りのカラフルなオーケストレーションが非常に見事だ。その洗練された響きはフランス近代のそれに限りなく接近している。花火の中間部でゆらゆらと下降する音型はデュカスの「魔法使いの弟子」を思わせる。そして、そのカラフルなサウンドの向こうには「火の鳥」や「ペトルーシュカ」が既にはっきりと見えている。



バレエ・リュスは1917年に「花火」をローマで上演した。「花火」はまさにディアギレフがストラヴィンスキーを発見するきっかけになった作品だ。ニジンスキーとフォーキンを失い第一次世界大戦とロシア革命と八方塞がりだった。初心に戻ってがんばろうってことだったのかな。知らんけど(ΦωΦ)
音楽と指揮イゴール・ストラヴィンスキー、美術はジャコモ・バッラ、照明はジャコモ・バッラとセルゲイ・ディアギレフ
1917年初頭、バレエ・リュスはローマにいた。ストラヴィンスキーはバレエ・リュスの「花火」の上演を指揮するためにローマ入りした。ストラヴィンスキーはここで「パラード」の準備中のピカソと知り合う。これは重要な出会いになった。「花火」はバレエ・リュスで上演したがダンサーは一人も出なかった。音楽と舞台美術と照明によるポップアート的な作品。「光のバレエ」と言ってもいいだろう。美術はイタリア未来派の画家ジャコモ・バッラ、照明はバッラとディアギレフだった。舞台セットは内部に灯りをつけられる透明の素材で作られた。エメラルドグリーンと赤を基調にした色彩は強烈だったという。
イタリア未来派はキュビズムの手法を取り入れていたので、もちろんピカソに通じるものがある。
バッラによる「花火」のセットも立方体や円錐を使って作られた。

ジャコモ・バッラによる「花火」の舞台セットのスケッチ
ジャコモ・バッラによる「花火」の舞台セット(1917)

「花火」の復元上演👆
だいたいこんな感じだったのだろう。
「花火」と同じ日に「上機嫌な婦人たち」も初演されている

葬送の歌Op.5
葬送の歌は第一次大戦やロシア革命の混乱で楽譜が行方不明になっていたが、2015年にサンクトペテルブルクの国立リムスキーコルサコフ音楽院で、修復工事に伴う引っ越し準備の際にパート譜が見つかったのだ。そして翌2016年マリインスキー劇場で、ヴァレリー・ゲルギエフの指揮で約100年ぶりに再演された。
ストラヴィンスキー自身もこの楽譜の行方を心配していたらしいので発見されて本当に良かった。

https://youtu.be/fmgd99FxpNU?si=BMADn8lryS9_v7jY


リムスキーコルサコフの葬列(1908)



「葬送の歌」についてストラヴィンスキーは次のように言っている
「オーケストラのすべてのソロ楽器の葬送の行列のようなものだ」「かわるがわるやってきて師の墓の上に花環のかわりにそれぞれのメロディを置く」
冒頭の低く蠢く低弦やトロンボーン、煌めくような木管などは「火の鳥」の冒頭を思わせる。その後はワーグナー的な息の長いメロディ(追悼の花束)にフランス的な色彩を纏わせつつ受け渡しながら、師匠譲りのオーケストレーションのテクニック(師の教え)を噛み締めるようにうねるように高まってゆく。その展開は「ジークフリートの葬送行進曲」を思わせる。こーゆー感じはストラヴィンスキーには異例かなとも思うが、よく考えるとここからワーグナーっぽさを排除してしまえば「火の鳥」の子守唄からフィナーレもこーゆー感じじゃん….。そうなんだ。葬送の歌は火の鳥の直前の作品なのだった…

そうそう、リムスキーはワーグナーの「ニーベルンクの指環」に衝撃を受け、歌劇「ムラダ」を書いたりしてる。

https://youtu.be/sJbA6Wn_ThM?si=Jouu210UxfPCv-RG


ライマックスの慟哭のような三つのfの和音の向こうに天上の響きのような金管の美しい和音が聞こえる(👆の動画の8m45sから)。そして浄化されるようにハープと共に天に昇っていくようなラスト(ちゃい子っぽい?)。本当に感動的だ。



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