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バレエリュスチクルス06


2823/11/18
竹風堂大門ホール
ダンス&マイム/アイザワサトシ
ピアノ/堤郷子、町田莉佳
バレエリュスチクルスは今日が最終回です。今日は最終回に相応しく後半でダンスとマイムも楽しんで頂くことになってます。
前半は連弾をじっくり聴いてみましょう。
前半はチャイコフスキーの有名な「眠れる森の美女」です。
しかもラフマニノフ編曲です!
いかにもピアノチクルスな感じがしませんか?
(とか言って今年は有名曲ばかりやってきてますが….)

チャイコフスキーの「眠れる森の美女」の詳細はnote(これ)に詳しく書いておくので、読んで下さい。
会場ではバレエのことだけにしておきます。

「眠れる森の美女」はバレエ・リュスの1921年の目玉の演目でした。バレエリュスは1929年解散なのに、
1921年の演目をチクルスの最終回にするなんて
変でしょう?
それにはちゃんと理由があります。

それはなぜか。

1921年の「眠れる森の美女」は
マリウス・プティパの振付だったんです。
バレエリュスっぽくない
((;゚Д゚)
ザ・王道です。

ディアギレフはこれを西欧で復活させようとしました。
ディアギレフはバレエの伝統が完全に死んでいた西欧にバレエを目覚めさせ、10年以上に渡ってバレエの新しい可能性にチャレンジしてきました。
彼は前衛的な作品を次々に連発してきましたが、
バレエの伝統をただ破壊していたのではありません。
ディアギレフは若い頃にプティパとチャイコフスキーの三大バレエ(白鳥眠りくるみ)の「ロシアバレエの絶頂期」を体験していました。それはロシアの栄光そのものでした。
彼はマリインスキーのスタッフとして仕事もしました。
バレエリュスの成功でバレエを鑑賞する下地が西欧諸国に一応は出来上がったと見て、彼は自分がかつて体験したロシア帝室バレエの最高傑作「眠れる森の美女」を
まさに「満を持して」
上演しようとしたんです。
ロシア革命で
「社会主義国ソビエト」
が成立。
「ロシア」は地図から消滅し、ディアギレフは祖国を失ってしまいました。
その思いから
ロシア帝室バレエの栄光「眠れる森の美女」
のことを思ったのかもしれません。
彼は貴族の息子で、その高貴な血筋は彼の誇りでした。
革命で「帝室」が全否定されて失われてしまったことに、人一倍の思いがあったはずです。

ディアギレフは熱狂的にチャイコフスキーを崇拝していた。
ディアギレフの義母のエレーナはチャイコフスキー家の出でした。彼はこの義母のことを世界最高の女性だと思っていました。彼は子供時代にペーチャおじさん(チャイコフスキー)の家に行ったことを忘れなかった。チャイコフスキーと縁戚関係にあることを、よく自慢げに人に話していました。
そう、三大バレエは彼とって
まず何よりも
「敬愛するペーチャおじさんの作品」
なのでした。

悲愴交響曲初演の9日後の11月6日、
チャイコフスキーの訃報を知ったディアギレフは
ペーチャおじさんの家にすっ飛んで行った。
部屋にはまだ遺体があり、リムスキーコルサコフが居た。
ディアギレフは花を買いに出た….

死の床に横たわるチャイコフスキー(1893)


そもそもディアギレフは、
ロシアの芸術の素晴らしさを知らしめるために
西欧に出てきて活動を始めたのです。
どんなに前衛的なことをしても、国際色豊かな作品をたくさん製作しても、
彼のロシアへの愛は絶対に揺らぎませんでした。

ディアギレフは「眠れる森の美女(以下、眠り)」の製作を決意すると、猛然と行動し始めます。
やるからには絶対に本格的なものでなければならない。
それこそが彼の夢だったのですから….
彼は革命でパリに亡命していた元マリインスキーのダンサーのニコライ・セルゲイエフにコンタクトを取ります。セルゲイエフはプティパの振付について熟知していて、プティパの「眠り」の覚え書や舞踏譜を持っていたのです
(彼は革命の混乱でプティパの舞踏譜が散逸することを恐れてそれを国外に持ち出していた)。
セルゲイエフは振付師として参加することになりました
(当時マシーンは女性問題でディアギレフの逆鱗に触れ、バレエ・リュスをやめてしまっていた。またか…)。

ニコライ・セルゲイエフ


そしてディアギレフは「眠り」の初演時(1890)にオーロラ姫を踊ったカルロッタ・ブリアンツァにも連絡を取ります。彼女も革命の影響でパリに居ました。

1890年の「眠りの森の美女」初演時のキャスト
左から3人目がカルロッタ・ブリアンツァ
『眠れる森の美女』初演。1890
第3幕のオーロラ姫(C・ブリアンツァ)とデジレ王子

ブリアンツァはバレエ・リュスの公演で悪の妖精カラボスを踊ることを承諾し、高齢になって毎日のレッスンが難しくなっていたチェケッティの代わりにバレエ・リュスの毎日のバーレッスン(みんなでやるやつね)も引き受けてくれました(ちなみにチェケッティは1890年の初演時にカラボスを踊っていた)。チェケッティは負担が減って楽になったでしょう。

まずディアギエレフはこうしてセルゲイエフ、ブリアンツァ、チェケッティというプティパの「眠り」を熟知している3人を集めて鉄壁の指導体制を作り上げたのです。

ディズニーの「眠れる森の美女」だけしか知らない皆さんのために念のため申し添えておくと
カラボス=マレフィセントなので念の為。
カラボスは男性も女性も踊ります。

世代にもよるが、ガッチャマンのベルクカッツェに似たようようなイメージと言ったら伝わりやすいかな…
却って伝わりにくいか…。

「眠りの森の美女」初演。チェケッティが演じるカラボス(1890)
カラボスを演じるブリアンツァ(1921)

ディアギレフはストラヴィンスキーと一緒に連弾しながらチャイコフスキーの音楽を徹底的に検証した。ストラヴィンスキーにはリラの精の音楽とオーロラ姫が眠っている間の音楽(間奏曲)を書いてもらうことにした。
美術のバクストはパリ国立図書館に入り浸って、バロックやロココのスタイルの調査に没頭する。

稽古が始まると、ダンサーたちは大苦戦した。
前衛的で複雑な振付に慣れていたダンサーたちはプティパのシンプルな振付の様式がなかなか理解できなかった。
最初のリハーサルを見たディアギレフは愕然として、
公演の中止すら考えたという。
それでも幕は上がる(-_-;)
1921年11月2日、ロンドン。初演。
初演のあと、ディアギレフは全ての精力を使い果たしたように子どものようにめそめそ泣いていた。
(初演の舞台装置の不具合についても悔やみ、
どん底まで落ち込んでいた)
ディアギレフは踊りだけでなく、
「眠り」のできる限りの全てを「帝室バレエの栄光」の舞台に近づけようとしました。
それはものすごい情熱と執念でした。
「眠り」は異常に絢爛豪華なグランドバレエです
(だからどうしても白鳥湖やくるみに比べて上演回数が少なくなる。やたらと金がかかるから!)。
1890年の初演でも上演時間は4時間半。
チャイコフスキーの音楽をノーカットで全部やると音楽だけで正味3時間。そこに休憩も入る…
「皇帝讃美」がテーマなので、初演では舞台美術・衣装をはじめとする制作費には帝室の威信をかけて膨大な予算がつぎ込まれ、帝室劇場史上もっとも費用がかかった公演として評判になったバレエです。
金をいくらでもかけられるロシア帝室と同じことを
ディアギレフは20世紀のヨーロッパの資本主義社会でやろうとしたわけです。どう考えても無茶です(-_-;)
周囲は皆ディアギレフを止めようとしましたが無理でした。
上演時間は初演の1890年に近い約4時間。バクストによる100着にも及ぶ豪華な衣装(端役の衣装に至るまで全てに高価な布地を使った)、そして、五つの巨大な舞台装置。

ディアギレフの盟友レオン・バクストは1890年の「眠り」のゲネプロに立ち会って、チャイコフスキーに挨拶している。バクストはこの時に自分の将来(画家、舞台美術家)は決まったと述べている。
バクストの思いも深かったのだ。この舞台はそれぞれの思いが結集していた。

1921年の眠りの森の美女の衣装
1921年の眠りの森の美女の衣装
バクストの「眠れる森の美女」セットデザイン 1921
バクストの「眠れる森の美女」セットデザイン 1921

当然の結果としてディアギレフはとんでもない借金を抱えることになります。当初、ディアギレフは劇団四季のキャッツやライオンキングみたいなロングランを狙っていて、それで金を返していこうと思っていたのです。その絢爛豪華な舞台は確かに評判になりましたが、客足は思うように伸びず、ロングランはできませんでした。どんじゃか届く督促状と請求書の山。この時に抱えた借金にディアギレフはずっと苦しめられることになります。舞台装置や衣装は差し押さえられました。この興行的失敗はディアギレフのキャリアの中で最大の失敗でした。ディアギレフは意気消沈しました。
迷信深いディアギレフはこの失敗をある種の凶兆(呪い)だと捉えたようです。

この後もバレエリュスは活発に活動を続け、素晴らしい作品を次々と発表します….ストラヴィンスキーとピカソの「プルチネルラ」、ミヨーとシャネルの「青列車」マリーローランサンとプーランクの「牝鹿」
でも1921年の「眠り」の公演は集大成でもあり、
どこか終わりの始まりのようでもあるのです。

バレエリュスは1929年ディアギレフの死によって解散になります。ディアギレフ57歳。
この一座はディアギレフの完全なワンマンでしたから、
ディアギレフがいなくなったらもう続きません。
ディアギレフの遺産は借金だけでした。
ディアギレフの葬儀の費用はすべてシャネルが出しました。

プーランクは言う
「ディアギレフ、不世出のディアギレフ、彼はまさに魔術師でした。手品師でした。あの人は成功を得たと思うや否やそれまで持ち上げたものを焼却してしまうのです」(プーランクは語る)

ラフマニノフの連弾版


今日はラフマニノフ編曲の連弾版で「眠れる森の美女」の組曲を聴いていただきます。1890年のバレエの初演の直後、チャイコフスキーは出版社のユルゲンソンに連弾版の出版を依頼します。それでその連弾アレンジの仕事がラフマニノフに回ってきます。ラフマニノフの従兄弟の名ピアニストアレクサンドル・ジロティとチャイコフスキーはラフマニノフのアレンジ譜をちゃんと校訂していますから、これは非常に由緒正しいアレンジなのです。ラフマニノフは当時まだ17歳でモスクワ音楽院に在学中です。ジロティはチャイコフスキーの楽譜の校訂の仕事もしていて、モスクワ音楽院でも教えていました。チャイコフスキーや出版社からの信頼も厚かったでしょう。チャイコフスキーもまたラフマニノフの才能を知っていて、目をかけていました。このアレンジの仕事がラフマニノフに回って来たのはジロティの口添えがあったようです(無理に押し付けられたような感もあるが…)。だから、このことはチャイコフスキーも承知していました。

ジロティとチャイコフスキー
ジロティとラフマニノフ

1893年、チャイコフスキーが亡くなるとラフマニノフは追悼のために『悲しみの三重奏曲 』Op9を作曲した

組曲は以下の5曲です
1序奏とリラの精2アダージョ3長靴をはいた猫 4パノラマ
5ワルツ

では、聴いていただきましょう
堤先生、莉佳登場
演奏
退場

休憩

余談:「眠れる森の美女」の音楽について


チャイコフスキーの三大バレエは「白鳥の湖」(1877)「眠り」(1890)「くるみ割り人形」(1893)の順で成立した。
三大バレエはどれも有名で、その完成度、ポピュラリティとどれを取っても三作ともほとんど同等と言える。
ただし、豪華絢爛さ、規模の巨大さという点で言えば「眠り」が群を抜いているといえるだろう。おれは「白鳥湖」も「くるみ」もあらゆる点で「眠り」に比べたら規模が小さいと思ってる。「くるみ」はどんなに華やかに壮大に盛り上がってもどこかフランスの洒落た小品の趣があるし、「白鳥湖」もゴージャスだけれど、悲劇的な凝縮力が強く「眠り」ほどの凄い広がりと華やかさはないのだ。
おれは三大バレエをオケの指導で一応すべて体験しているが、その規模と豪華さに一番圧倒されたのは、断然「眠り」だ。構えの巨大さや色彩の華麗さは明らかに別格だと思う。
それはまさに皇帝の栄華そのものだ。
チャイコフスキーは帝室劇場(マリインスキー劇場)の支配人フセヴォロシスキーのから作曲依頼の手紙を受け取る。そこには以下のように書かれていた。「この作品の時代背景をルイ14世のスタイルにし、装置はミュージカル・ファンタジー風に、音楽的な色彩はリュリやラモーの宮廷バレエ様式風なものを採用して下さい。」当時のロシアでは皇帝アレクサンドル2世の暗殺事件(1881)で失墜した皇帝の権威を取り戻すべくニコライ2世が凄まじい圧政を行なっていた。民衆の不満は鬱積し、民心は帝室から離れるばかりだった。
そして血の日曜日事件(1905)、日露戦争の敗北(1905)、という具合に時代は後戻りできない勢いでロシア革命に向かって行くのだった。アレクサンドル2世の暗殺はまさにロシア帝室の終わりの始まりだった。そんな中でマリインスキーの支配人はルイ14世当時のヴェルサイユとロシアの帝室劇場を重ね合わせたバレエの製作して帝室の威光を示そうとしたのだ。(だからペローの原作が選ばれたし、ラモーやリュリの様式が重要なのだ)。そもそもバレエは太陽王ルイ14世の庇護のもとで基礎が築かれた芸術。ヴェルサイユで上演された超豪華なバレエでは王自身がダンサーとして踊った(太陽神アポロンを演じた)。ここでは政治とバレエは完全に一体だった。王の威光はバレエそのものだから、それは絶対にウルトラゴージャスでなければならなかった。だから「眠り」のラストの「アポテオーシス」ではルイ14世の姿をした太陽神アポロンが唐突に登場したりする。でも、これは皇帝万歳バレエなのだから、もちろんそれでいいのだ。いや、そうでなければいけなかった。ヴェルサイユでもそうだったのだから….
皇帝讃美の「眠り」の舞台には帝室の威信をかけて膨大な予算がつぎ込まれ、帝室劇場でもっとも費用がかかったバレエとして評判になった。チャイコフスキー自身も音楽の出来には満足していて「オネーギン」「スペードの女王」「眠り」を自身の作品の中で優れたものだとしている。
チャイコフスキーは「白鳥の湖」で振付師との連携不足で初演がうまくいかず痛い目をみていた。その反省もあったのかもしれないが、「眠り」では振付のプティパと緊密に連携した。めっちゃ細かいプティパの指示に従って(縛られながら)「職人的に」作曲を進めた(時々踏み外しもあったものの指示は概ね忠実に守った)。その結果、振付と音楽の高度に芸術的なコラボレイトが実現した。チャイコフスキーの凄さは「職人的」に仕事を進めながら感動と霊感に満ちた創作を実現させたことなのだ。

どうか↑の5m55sあたりから(ローズアダージョのクライマックス)じっくり観て頂きたい。ここまで絢爛豪華で圧倒的な盛り上がり(広がり)はチャイコフスキーの全作品の中でも間違いなく屈指のものだ。↑の演奏はドレスデンの聖母教会の響きも素晴らしく、演奏もめちゃ感動的。Youtube
で視聴可能なローズアダージョの演奏動画では屈指のものだろうと思う。
バレエのオケピットのオケはこーゆー鳴りにはならない。バレエはもちろんそれでいいのだ。


↓バレエではこんな感じ。ローズアダージョはオーロラ姫に求婚する4人の王子がオーロラに薔薇を渡す場面。全曲中でも最大の見せ場のひとつ。プティパのリクエストで拡大されたハープの序奏はハープ奏者にとっても最高の見せ場になっている

そして、グラン・パ・ド・ドゥ!こんなゴージャスなパ・ド・ドゥはそうないだろう。
まさに「グラン」パ・ド・ドゥ👏

そしてもちろんワルツ!これはディズニーのおかげで、世界中の子供たちに親しまれている。三大バレエのワルツの中で一番無意識下への浸透力が強いのはこれじゃないかな。やはり子供たちへの刷り込みって凄いよね

青い鳥のパ・ド・ドゥ

カラボスの場面の凶暴な音楽は凄まじい。ほとんどストラヴィンスキーの表現に接近してると思う。対位法的手法が導入され、それが一層エキサイティングな強烈さを増している。
「くるみ」のネズミの戦いの場面の音楽もすごいけど、「眠り」のカラボスの場面はダークな凶悪さでちょっとくるみを圧倒してるかなと思う。

余談:「眠れる森の美女」の成立
チャイコフスキーの三大バレエは
「白鳥湖」(1877)→「眠り」(1889)→「くるみ」(1893)
の順番で作曲された。

休憩
堤先生、莉佳。板付きで待機。

後半はパントマイムとダンスで「ティル・オイレンシュピーゲル」です。どうぞお楽しみください。
バレエ・リュスの代表的プリンシパルダンサーはなんと言ってもニジンスキーです。ニジンスキーは1909年から数年間しかバレエ・リュスでは活動しませんでしたが、やっぱりどうしたってニジンスキーなんですよね。
ニジンスキーは1913年の春の祭典の後で退団してしまいますが、1916年のアメリカ公演だけ戻ってきてバレエリュスで踊りました。これはアメリカ公演の契約の条件がニジンスキーの出演が前提だったので、ニジンスキーは戻ってきたんですね。ティル・オイレンシュピーゲルはこの時に上演された演目です。音楽はリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ティルオイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」。振付と主演はもちろんニジンスキー。美術はジョーンズ。非常にカラフルで華やかな舞台でした。

ジョーンズによるティルのセットデザイン(1916)
ジョーンズによるティルの衣装デザイン(1916)


ジョーンズによるティルの衣装デザイン(1916)

ニジンスキー演じるティルは例によって悪戯で人々を巻き込んで大騒動を起こした挙句、泥棒だとして捕らえられて死刑を宣告される。というようなお話です。バレエもシュトラウスの音楽も物語の骨子は同じです。音楽はリヒャルト・シュトラウスが1895年に作曲した交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」Op28。昔から非常に人気のある作品でオーケストラのコンサートではよく演奏される名曲です。冒頭に演奏されるメロディは昔話の定番の決まり文句「むかしむかしあるところに….」を表してます。(弾く)

むかしむかし….


その後に出てくるホルンによるテーマがティルオイレンシュピーゲルのテーマです。ザ・ホルンなテーマですよね。

ティルオイレンシュピーゲルのテーマ


曲中に何度も出てくる印象的なクラリネットの音型がティルの笑いです。小馬鹿にするような嘲笑ですね。ティルはいつも笑ってるんです。

ティルの笑い

高い音から半音階で一気に滑り降りてくるソロヴァイオリンの音型はティルのあくびです(今日の上演では「あくび」とは違う使い方をしますが….)。

ティルのあくび

ロマンティックで夢見るようなメロディは愛のテーマです。

愛のテーマ

最後の 暗く重いファンファーレは死刑のテーマです。これはティルの死の予兆として現れ、最終的には圧倒的な死刑の宣告となります(最初はティルにもこれを笑い飛ばす余裕がありますが、最後にはその嘲笑は恐怖で甲高い悲鳴に変わってしまいます)。
凄まじいffで残酷に響くファンファーレ。

死刑のテーマ

曲の最後は「むかしむかし」のテーマが戻ってきて
ああ、やれやれとなるところですが……….

ってな感じでリヒャルト・シュトラウスはとても上手に物語を表現しているのです



余談:ニジンスキーのティル

ニジンスキーは1916年のアメリカ公演のために「ティル・オイレンシュピーゲル」とリストの「メフィストワルツ」の二曲を準備していたが、結局実現したのは「ティル」だけだった。「メフィストワルツ」は既にプログラムにも印刷されていたが、振付が間に合わなかった。この当時から既にニジンスキーのs離心状態は不安定だった。
ニジンスキーのメフィスト、実現したらどんなによかっただろう!
「ティル」は1916年ニューヨークで初演された。初演は大成功でカーテンコールは長く続いた。「ティル」はアメリカ公演で20回以上繰り返し上演された。
ニジンスキーは概ねR・シュトラウスの物語通りに振り付けた。
エピローグはティルが死を免れた(生き返った?)ように振り付けたという(ペトルーシュカのように)。
ニジンスキーの妻ロモラは「ティル」を夫の最高傑作だと書いている。ニジンスキーはアメリカで「牧神」も踊っている。
1917年の南米公演に出演したニジンスキーは完全に精神を病んでしまった。1918年にディアギレフはニジンスキーが「発狂」したという知らせを受けた。
ニジンスキーは精神病院をたらい回しにされ、1950年4月8日ロンドンの病院で死んだ。

ティルオイレンシュピーゲル(1916)


ティルオイレンシュピーゲルのニジンスキー(1916)
ティルオイレンシュピーゲルのニジンスキー(1916)
ティルオイレンシュピーゲルのニジンスキー(1916)

ティルを踊るニジンスキーの映像↑(1916)


ティルの楽譜を見るニジンスキー(1916)



ティルはアメリカ公演以降ずっと再演されず、1990年になってようやく復元の試みが行われる。不明な点も多く「牧神」のようなしっかりした復元は難しそうだが、それでも試みは続けられている。
👇はローマでの試みのニュース映像。



余談:ディズニーの「眠れる森の美女」(1959)



バレエはその規模の大きさが特徴だが、
この有名なアニメーションもその豪華さが特徴のひとつだ。大型スクリーン前提で70mmスーパーテクニラマ方式、6本サウンドトラック・ステレオ音響。300人のアニメーターによるセル画数100万枚ってのも破格だといえる。
今作は1959年までのディズニーアニメで最も贅沢で豪華だった。「白雪姫」(1937)「シンデレラ」(1950)を軽く上回るスケール感だったのだ。
オーロラ姫は基本眠ってるだけなのでディズニープリンセスたちの中ではやや地味に感じるかもしれないが、それ以外の見どころが多い。悪役のマレフィセントの圧倒的存在感が凄いし、フローラ、フォーナ、メリーウェザーのおばちゃん精霊トリオは抜群だ。原作の7人の精霊を「3人のおばちゃん」に改変したのがディズニーの凄さ。個人的には白雪姫の7人の小人に匹敵する名キャラだと思う。この3人のおばちゃんの育児物語になってるところも素敵だ。

トーク動画の合言葉
11/18のトークに合わせてティルの稽古の様子も何本か👇の合言葉で見られます。有料部分に書いてあります




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