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親友とメサイアコンプレックス

 あらかじめ言っておく。この文章はだいぶキモい。耐性のない人はブラウザバック推奨だ。

 私は性悪説を前提とした人間関係を構築しようとしている。中学・高校と親友に裏切られたからだ。裏切られた?勝手に期待して勝手に依存して勝手に失望しただけだ。

 人間関係というのは経済だ。自己利益の極大化を目指すのが通常だ。人は自分に都合のいい人間としか付き合わない。都合の悪い人間は切られる。それを理解していなかった。

 中学時代のTくんは私のことを親友だと言っていたが、彼は誰に対しても社交的で別に私を必要としていなかったし彼は私に何も与えなかった。当時、場面緘黙ぎみだった私は学校で孤立していたが、彼は私の孤独を埋めることに何ら寄与しようとしなかった。

 高校時代のYくんは、高校1年の頃クラスが同じで仲が良かった。私は高校2年のクラス替えで大外れのクラスを引き、孤立していた。また、部活でちょっとした事件があり、部活でも孤立することになった。私は勝手に彼に依存した。友達だろうと思っていた。しかし彼は私を何とも思っていなかった。仲がいいと思っていたグループで俺抜きで富士急に遊びに行った。

 さすがにそこから学んだ。私が得た教訓は3つある。

  • どうしても分かり合えない人間はいる

 当たり前だ。頭お花畑人間はやっとこれを学んだ。人間関係は片想いばかりである。それを前提としていないと足元を救われる。人に依存してはいけない。

  • あえて距離を取ることで人間関係を維持するという手法

 これは結構有効だ。親友なんかいなくてもいいんだ。近づきすぎる人間関係は破滅が近くなる。最近の私は兄との関係でわざと距離を取っている。連絡は半年に一回くらいしかしない。兄とは末長く仲良くせねばならないから。

 もし、私のことを親友だと思っている人がいるなら考えを改めた方がいい。私に友達はいても親友はいない。それは俺のためでもあり、あなたのためでもある。

  • 人間関係に不満があれば口に出して言うこと、そしてそれで改善しなければその関係は切るべきということ

 中学時代のTくんにはもう少し口に出して不満を言うべきだったかもしれない。わかってくれる可能性はあった。Yくんは口に出して不満を言ってもダメだったから早々に見切りをつけるべきだった。

 当時は人間関係を切るということに罪悪感を覚えていた。比較的切られる側だったからだ。しかし、人間関係は最初に与えられたものを丁寧に育てていくのではなく、与えられたものを組み替えていきながら作り上げていくネットワークなんだと今では理解している。

 もちろん、大げんかして人間関係を切るんじゃなくて、自然消滅させるのだ。どうせ、長期間連絡してこないようなやつは友達でもなんでもない。


 なんか話がとりとめもなくなってきた気がする。最後に私の人間関係形成における大前提のようなものを発表して終わろう。

メタ的に捉えて何が最善かを考えよ

 コミュニケーションの天才でもない限り、常に頭をフル回転させなければいい人間関係は作れない。


補足:なんか人間関係って深層学習と似てるな。最適化問題だし、いい人間関係に高い重みづけしていく行為だし、刈り込むとより良くなるし。何か根本的共通点があるのか?


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