【看取り日記02】入院から退院まで
前回のお話はこちら▼
入院8/13〜
入院した次の日からわたしははぼ毎日母に会いに行きました。
正直この時は家に元気に帰ってくると思っていました。
入院した次の日、母はまだ高機能病棟に居り会える時間は10分くらいでした。
腎ろうの手術後が痛むのか居心地が悪そうでした。
ころころ体位を変えてもらい、馴染むところを探していました。
入院の1番の目的「眠る」はどうか。
「どう?眠れてる?」
「う〜ん」
とのこと。
***
入院生活 数日目
なんとなく話が噛み合わなくなってきた気がしました。
後はぼ〜っとしていることが増えたのかも、と感じることが多くなりました。
多分ですが痛み止めでモルヒネが入っていたのだと思います。
ここから母は幻覚がよく見えるようになっていきます。
母が言っていたことですが
夜ベットの横に私や伯母が居たそうです。
こういう発言が増えていきました。
ですが、まだ携帯でやり取りができたり、TVカードを買って見たり、飲み物を買って飲んだりしていました。
※買って持っていくのは家族。母は動けなかったです。
4日後には高機能病棟から普通の病棟に移動になりました。
***
担当の看護師さんとお話し
看護師さんでは無かったですが、退院後要介護3がつくのでその申請や介護用のベットや訪問看護さんなど諸々の手配をしてくださる方と話をしました。
母が早く退院したがっているので準備していきます。とのこと。
その際に「終末期に入っています」「看取りの準備にはいります」ともお話しありました。
話を聞きながら涙が止まらなかったです。
もうそんな時期なんだと、まだまだ一緒にいるつもりでしたし、私は結婚して半年くらいだったので妊活を始めて亡くなる前に孫も見せてあげたいなと思っていました。
旦那とも妊活の話を始めたばっかりでした。
それなのに、1ヶ月前には歩いて結婚式に来てくれてたのにもう終末期なのかと。
正直実感が湧かなかったです。
退院までの準備
まず、私は会社に説明をし基本在宅ワークにしていただきました。
上司は2年前から介護をしているのも知っていたので、そこはスムーズに話も進みました。
会社には本当に感謝しております。
介護用のベットは退院前日に搬入になりました。
部屋の家具の移動などは私と伯母で対応しました。
ベットさえ入ればどうにかなるだろって思ってました。(どうにかなった)
リビングに母を迎え入れる準備を進めました。
友人と電話
看取りに入ると聞いてから私はふとした時に涙が出るようになりました。
死んでしまうんだ、と言葉の重みを強く感じてました。
ですが、2日くらい過ぎると私は「ま、後どれくらいなんてわからんし」という感情と
病院に行ってママに会うと「あれ買ってきて」「TV見たい」「早く退院したい」などの要望をよく聞くし、
高機能病棟から移った際はベットでは無く車椅子に乗って談話室に来るのでどんどん元気になっていると思っていました。
※コロナ禍で病室へ入ることは禁止されていました。会うのは談話室のみでした
その際に友人に電話した際「今年の冬を越せなさそうだと思っていたけど、いけそうだわ!」「なんか元気になってきたわ!」と元気に電話してました。
本当に年が越せると思っていました。
ママの大好きなみかんを一緒に食べれると思っていました。
***
早く退院したいママ
会いにいくたびに「いつ退院なの?」と聞かれていました。
本当に病院がしんどいのか、死期を感じで家に帰りたいからかはわかりません。
とにかく家に帰りたがっていました。
いくたび「まだ先生からの許可も降りないし、手術して○日だよ、もうちょっと安静にして治さないと」とずっと話をしていました。
その度本当にがっかりした顔をしていました。
個人的には病院の方が何かあった時に対応できるのでもうちょっと安定するまで入院しててほしいが本音でした。
足のむくみも入院する前よりも酷かったし、腎ろうの手術後も痛そうに見えてたからです。
退院
看取りに入りますと聞いてから数日後退院の日程が決まりました。
それは明後日(8/25)との事。
「え!?そんな早いの!?」「まだ部屋の準備できてないよ」(介護用ベットの連絡はまだ取れていなかったです。
ですが、これを逃すと週明けになって+2日後になります。
私や伯母は準備がまだまだだったので週明けの方が助かる…けどという気持ちがありましたし、
退院の次の日私は友人の結婚式に行く予定があったため
母が日中1人になってしまうという心配がありました。
ですが、どうにかしようということで
入院して12日、8/25(金)の10:00に退院という運びになりました。
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