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【創作大賞2024 恋愛小説部門】知見寺家の蔵には運命が眠っている 第8話

【第八話 水ににじむ慕情】

 
 探しものが見つかる気配は全くないまま、四十九日はとうとう明日に迫っていた。
 今日の蘭さんは日記の捜索もそこそこに、法要や納骨の準備でばたばたしているらしい。時折聞こえてくる足音は、いつもより少しだけせわしなかった。
 私は紺洋さんの寝室にいた。あたりを見回し、ざっと室内の配置を確認する。あちこちに視線を投げ、大事なものを隠すような場所を考えた。
 蘭さんと同じく、生前の紺洋さんはほとんどの時間をあの地下牢で過ごしたらしい。寝室はものが少なかった。一度目の捜索で、探せる場所はすでにあらかた探していた。
 ふと、天井に目が留まる。隅の天井板に、なんとなく外せそうな気配。この部屋で残っている〝隠せそうな場所〟といえば、やはり天井裏のたぐいか。
(蘭さんには、やめろって言われたけど)
 低身長は一人で高いとこ触んなよ、と告げたしかめっ面を思い出す。ただ、それを素直に聞いていたらなにもできない。
 私はかすかに息をついて、スマホを取り出した。カレンダーを立ち上げる。明日の予定に、『紺洋さん四十九日 バイト最終日』とあった。目元がかすかに歪んだ。
 明日、紺洋さんとの契約は終わる。いつまでもここにはいられない。急がなければならなかった。胸の底が重くなった。
 私はそっと襖を開けると、廊下の左右を確認した。蘭さんはいない。耳を澄ませても、足音は聞こえてこない。
 ぱたん、と襖を閉じた。軽く襖に額をつけて、ふー、と息をする。なんだか気が重かった。いつまでも何も見つからなければいいのに、と一瞬だけ思って、すぐに否定する。そんなのは誰のためにもならない。
 私はこっそり用意しておいた脚立を出すと、一番上まで慎重にのぼった。ぎ、と天井の板を押しこむ。案の定、簡単に外れた。
 ぽっかりと空いた穴に頭を差し入れ、そっと覗き込む。だが、真っ暗でなにも見えない。スマホのフラッシュライトをつけて、かざした。中はほこりまみれで、古びた箱がいくつか並んでいた。この中だろうか。
 不安定な脚立の上で、背伸びして手を伸ばす。思ったより箱は遠い。天井裏まで入れたら良かったが、この脚立では高さが足りなかった。
 ん、と声をあげて指先で探る。ようやく、いちばん手前の箱に爪の先がひっかかった。かり、かり、と引っかくように回転させて、引き寄せる。やっと箱の端を掴めた、と思って安堵した瞬間――ずるっ、と足の裏がすべった。
「あ――っ」
 間の抜けた声が出た。すっ、と重力が失われる感覚。ひやっ、と腹の底が冷えて浮くような感じがあって、視界の端で、掴みそこねた箱が落ちていくのが、スローモーションみたいに見える。視界がぐるん、と回っていく。みるみる床が近付く。
 ――どっ、と重い衝撃が来た。
 がっしゃん、とけたたましい音。叩きつけられた箱の中身が割れたらしい。しまった、と思うと当時に、したたか打ち付けた半身に、じいんと鈍い痛みが広がっていった。
「っ……いた……」
 倒れ伏したまま、ゆっくりと身を起こそうとしたとき。ばたばたと焦ったような足音がして、
「――雨宮ッ⁉」
 ばしん、と襖が開いた。あ、と声が出る。蘭さんだった。
 荒っぽい足取りで寝室に飛び込んできた蘭さんは、さっと辺りを見回した。床に倒れ伏した私とひっくり返った脚立、箱の蓋が開いて、中から粉々に割れた陶器の破片がこぼれおちている。
 一瞬でだいたいのことを察したのだろう。蘭さんは額に手を当ててはあーっ、とため息をつくと、私の傍にさっとしゃがみこんだ。
 二の腕を捕まれ、ぐっ、と助け起こされる。私はよろよろと上体を起こすと、ぺたりと座り込んだ。顔を上げる。
「あ、ありがとうござ――」
「バカ‼ 危ないことすんなっつったろ⁉」
 ものすごい声で怒鳴られて、ばしん、と頭をはたかれて、びっくりした。え、と声が出る。
 見上げた先の蘭さんは、本気で怒っていた。見たことのない顔をしていた。けれどその口から叱咤が出るより先に、あっ、と小さな声が聞こえた。
 しまった、と蘭さんが自分の手を見る。すぐに、ひどく真剣な視線が私の身体の上を走っていった。検分のような目付きだった。
「悪い。頭……いや、首から上は打ったか」
「打っ……てません」
 どちらかというと打ったのは肩だ。答えると、むち打ちあったら厄介だな、とぼそりと声がした。
「首は回るか。痛みは」
「ない、です」
「いちおう数日は経過見とけ。あと、腕は上がるか」
 バンザイしてみせる。そこまで確認すると、蘭さんはようやく、ほうっ、と深い息を吐いた。
 まだ呆然としている私に、痩せた手が伸びていくる。とっさにびくりとした。また叩かれるかと思ったのだ。
 けれど蘭さんの手は私の頭に触れて、そのままぐしゃぐしゃっ、と髪をかき回してきた。へっ、とバカみたいな声が出る。
 蘭さんはひとしきり私の髪をぐしゃぐしゃにすると、がっくりと頭を垂れてしまった。金色のきらきらしたつむじから、へろへろの声が聞こえてくる。
「っはー……びっっくりした……ほんと、いい加減にしろよなてめぇ……」
 その声は心の底からの安堵に満ちていて、私はぽかんと口を半開きにする。ぽろり、と声が落ちていた。
「怒……らないん、ですか」
「あァ? 怒ったろうがよ、めちゃくちゃ。うっかり怪我人に手ぇ出たわ」
(いや、でも、それは)
 危ないことすんな。蘭さんはそう怒鳴って、私を叩いた。ものすごく感情的になったかと思うと、割れた器も倒れた脚立も放ったまま、必死な顔で怪我の確認をした。それは、つまり。
 禁止された場所を勝手に漁ったことじゃなくて、箱の中身を割ってしまったことじゃなくて――このひとはただ、私が危ない真似をしたことを怒ったんだ。ただ心配して。
「……――っ」
 いつもそうだ。このひとは大人で、ちゃんとしていて、まっとうで誠実で聡明で優しくて、私なんかのことをいつだって気にかけている。嫌になるくらいに。泣きたくなるくらいに。
 ひく、と喉が鳴った。胸の底がずくずくする。心臓の脈動と一緒に血の吹くような鈍痛があって、息がものすごく苦しい。打ち付けた身体がずきずきするのに、それ以上に心みたいな部分がもっと痛くて、うまく呼吸ができなくなる。
「なんで……」
 震える声が漏れた。蘭さんが、ん? と顔を上げる。
「なんで、私なんかを心配するんですか」
「はァ?」
 蘭さんが、心底意味がわからない、みたいな顔をした。それがますます私の胸に引っかき傷を作って、見えない場所から血がにじむような感覚がする。
(私なんか。私――なんか)
 ぎゅうっ、と膝の上で手を握った。てのひらに爪が食い込んで、指がじわじわ、真っ白になる。下を向いたまま、絞り出した声が震えた。
「どうせ応えてくれないくせに」
「……雨宮?」
「優しくなんか、しないでください……っ」
 おい、と握った手に触れられそうになって、思わず激しく振り払う。ぱしっ、と乾いた音がして、蘭さんが息を呑んだ。
 はーっ、と長いため息が聞こえた。どさっ、と音がして、見下ろした視界の端で、蘭さんがあぐらをかくのが見える。あのな、と落ち着いた声がした。
「てめぇ、ここんとこずっと変だぞ?」
 どうしたんだよ、とやわらかな声が問いかける。その言葉に、答えることができないで、ただ顔を背けた。蘭さんが強烈に、戸惑う気配。かすかに覗き込まれて、なだめるように言われた。
「なあ雨宮。てめぇは十六の割には大人だし、ガキにしちゃ分別もあるし、まっとうに賢くて理性的だ。ちょっと振られたからって、ここまで変になるような奴じゃねえだろ。……なにがあった?」
「っ……」
 ずくっ、と胸が痛くなる。蘭さんの言葉はまっすぐで誠実で、なんの陰りもない、ただ純粋に私を心配するもので、あまりにも――見当違いで。
 心臓が痛かった。胸の底に、いくつもの引っかき傷が増えていく。蘭さんのやわらかな気遣いが、それがあまりにも苦しくて、痛いほどくちびるを噛み締める。見当外れのふさわしくない言葉たちが、私の喉をひどく詰まらせて、肋骨の真ん中がすごく痛かった。
(……変、だなんて――)
 そんなのはもう、ずっと前からだ。もうずっと長い間、私の前には運命が横たわっていて、納得なんかひとつもできなくて、覚悟だってなくて。このひとを好きでいたい、それだけのことが、どうしても上手にできない。
「……うるさい」
「え」
 みっともなく震える声が勝手に落ちた。蘭さんの、驚いたような、とても小さな声。あまりにも何もわかっていないそれに、ぷつりとなにかが切れるような感覚があって――

「ッ……もううるさいって言ってるの‼ いい加減にしてよ‼」

 だんっ、と両手で床を叩いていた。きっ、と顔を上げる。目の前の蘭さんの顔が、驚愕に見開かれた瞳が、ぼやぼやとにじんで揺れていた。ぐっ、と喉の奥に熱い塊がこみ上げる。
「蘭さんに私のなにがわかるの。蘭さんなんか、なんにも知らないくせに。なにもしてくれないくせに。許してなんかくれないくせに――」
 ぐうっ、と喉が苦しくなって、それ以上言葉が出ない。ただ頬の辺りを熱いものが伝って、ぼた、と手の甲にしずくが落ちる。それでも罵倒しようと口を開いたら、ひぐっ、と喉が鳴った。
 ぱしぱしと、まばたきで水気を払い落とす。ずっ、と鼻をすすって、震える息を吸い込んで、目をこすって。蘭さんが静かに私を呼ぶ。
「……雨宮」
 顔を上げ、ようやく見返した蘭さんは――ひどく静かな顔をしていた。穏やかで、でもどこか抑えたような表情が、まっすぐに私を見つめていた。淡々とした声が言う。
「あんた、もう、ここに来ないほうがいい」
「な――」
 薄いくちびるが開かれて、冷たい声音がなめらかに溢れる。
「これ以上あたしの傍にいても、あんたのためになんねぇよ。……クビだ」
 びくっ、と肩が震えた。たった三文字の宣告が信じられなくて、目を見開いて蘭さんを見る。かろうじて、震える声がくちびるからこぼれ落ちた。
「……私の、契約者は、紺洋さんです」
「ジイさんの契約は四十九日までだろ。オプションをつけたのはあたしだ」
 即答が返ってきた。その、なんの迷いもない返答の早さで――蘭さんが、本気なのだと悟ってしまった。すうっ、と血の気が落ちた。
「っ……」
 なにか言おうとして口を開きかけて、でも、言葉がひとつも出てこない。言わなければならないのに。なにかうまい言い訳や弁明や、謝罪なんかを口にして、まだ、ここにいなければいけないのに。ちっとも上手にできない。子供みたいな駄々が出る。
「いや、です」
「てめぇがなんと言おうと関係ねぇよ。雇い主はあたしだ。職場で癇癪起こして泣いて暴れるような奴を、雇い続ける義理はねぇ。退職金でもなんでもくれてやるから、出てけ」
「いらない、そんなの、私は――」
「――帰れっつってんだよ!」
「……ッ!」
 蘭さんの顔は、本気だった。ひどく静かで、冷たくて、でも色の薄い瞳の奥には『こうするのが一番だ』という、はっきりした確信の気配があった。なにを言っても無駄なのだとわかった。
「……荷物取ってきてやる。涙拭いとけ」
 それだけ言うと、ふいっと立ち上がって、蘭さんは部屋を出ていく。足音が、とつとつと遠ざかっていく。それがすっかり聞こえなくなって、しいん、とした痛みにも似た静寂がやってきて。私はぐっとくちびるを噛みしめると、鼻をすすって、きつく目元を拭った。

        ※

 門の外に出て、背後に鍵が閉まる音を聞く。合鍵は取り上げられてしまった。もう、招かれる以外この家に入る手段はない。
 さっき、玄関で靴を履きながら、明日の納骨は絶対に出ますから、と蘭さんを睨んだ。蘭さんは小さく頷くと、気をつけて帰れよ、と静かに言った。あんなひどい応酬があったのに、蘭さんはそれでも大人として私を気遣う。そのことを思うと、よけいに胸が苦しくなった。
 まだ明るい春の道を、足早に歩く。こんなに早く帰宅するのは久しぶりだった。家の人になんて言おう。気持ちがますます重くなる。
 そのとき、道の向こう、曲がり角のあたりで、ちら、と人の姿が見えた。この辺りでは見かけない男性だった。平日の昼間だというのに、帽子を深くかぶり、不自然に色のついた眼鏡をかけている。
「……っ」
 ちら、と思い浮かんだのはノートパソコンの画面だった。不審者が出没している、という文面を思い出して、私はくちびるを噛みしめる。こみ上げる苛立ちや、もやもやが私を一気に愚かにして、気が付けば、その場で声を張り上げていた。
「あなた、なんなんですか⁉ この前からうろうろしてますよね。いい加減にしてください!」
 びくっ、と男性が肩を引きつらせる。と思うや否や、ものすごい速度で走り去ってしまった。呼び止める間もなかった。
 あ、と小さな声が漏れる。けれどすぐにため息をついた。
「……なにやってんだろ、私……」
 こんなことをしたと蘭さんが知ったら、きっと激怒するだろう。押し殺した息がこぼれる。下を向くと、きらっ、と胸元で銀糸が光った。淡紫のお守りだった。
(……これも、返さないといけないのかな)
 それはそうだろう。なにせこのお守りは、知見寺の当主に代々受け継がれてきた大切なものだ。いつまでも私が持っているのは違う。
 お守りを首から外す。ぎゅっ、と淡紫の袋を握りしめると、私はふたたび歩きはじめた。とぼとぼと歩いて、今日はバスじゃなく徒歩で駅まで行こう、と思った。
 大きな屋敷ばかりの古い町並みを、黙って歩く。長い間そうして、邸宅街とニュータウンの境界の、小さな橋までやってきた。この橋を越えて、あとバス停を三つ分歩いたら駅だ。
 細い歩道の上、橋のちょうど真ん中で、私は立ち止まった。喪服用のパンプスは歩くのに適していない。足がずきずき、痛かった。それからたぶん、足じゃないところも。
 どうせこの道は人通りなどほとんどない。同じ川を渡るにも、人や車はもう少し西の国道橋のほうを通っている。だから私は安心して、一人で川を眺めることができた。
 欄干に腕を乗せて、ぼんやりと遠くを見つめる。川べりに、紫の花が咲いていた。水面がきらきら、春の日差しで金色に光っている。蘭さんみたいだ、と思った。鮮やかな紫に、まぶしいくらいの金色。私の好きになった人。
(なんで……こんなことになってるんだっけ)
 お守りを握ったまま、ぼんやりと考えた。まばたきのたびに川の表面がきらっ、とまたたいて、蘭さんの髪が脳裏で何度も翻る。紫の花がさらさら風に揺れるたび、下着みたいなキャミワンピがまぶたの裏にちらついた。

『――帰れっつってんだよ!』

 冷たい声が蘇る。ずきずきと、歩き通した足と、それから胸の奥の、心とかいう部分が痛い。そうだ。私は失敗したんだ。ただ蘭さんを、好きな人を好きでいることに。
(それだけのことが、どうして、うまくできない)
 わからない。どうしようもなく泣きたい気持ちになる。手の中で握り込んだお守りの、布の感触がちくちくと私を刺す。明日には返さなければならない。どうせ最初から、四十九日で終わる契約だった。
(それでも――)
 涙ぐみそうになって、ぐっ、とくちびるを引き結ぶ。じわ、と視界が揺れて、私は必死になにかをこらえた。目元を拭う。そのとき。
「あっ」
 ぽろ、とお守りが手から抜けた。淡紫の色彩が、橋の向こうに落ちていく。ひゅっ、と血の気が引いた。
 ばっ、と身を乗り出す。ひらひらと回転しながら落ちたお守りは、川の水面にはらりと浮かび、一メートルほど流れたかと思うと、ゆっくりと沈んでいった。
「っ、だめ……!」
 とっさに走り出す。橋を渡って土手を滑り降りて、私は喪服のまま川に突っ込んだ。ばしゃ、と冷たい水をかき分け、膝まで来る重い液体の塊を、勢いよく蹴散らしていく。
 幸いにして川は浅く、水は澄んでいた。沈んでいたお守りは水底の石に引っかかっていて、すぐに見つかった。
 ばしゃ、と拾い上げたお守りの端から水が滴り落ちて、流れるせせらぎの上にぱたぱたっ、としずくが落ちていく。守り袋はじっとりと水を吸って、すっかり重くなっていた。
 はあっ、と安堵の息をついて、けれどすぐに思い出す。この守り袋の中に秘められた護符は、知見寺家に代々伝わる、叡智と神秘の象徴だということを。
(護符って――紙? それとも木札?)
 どっちにしても、びしょ濡れになっていい素材じゃない。私は震える手で、お守りの紐に手をかけた。無事であってほしい、駄目ならせめて、修復可能であってほしい。祈るような気持ちで紐を解き、守り袋を開いたとき――
「……えっ?」
 私は息を呑んで、完全にその場に硬直した。膝の裏を流れていく水の冷たさも、重くなった喪服が肌に張り付く感触も、まったく気にすることができなかった。

        ※

 夜の自室で、私はぼんやりと学習机の前についていた。
 自宅学習用のパソコン画面がぼうっと光っている。その光を見るともなしに視界に移したまま、私は椅子の上に膝を抱えて座っていた。お行儀が悪いとわかっていたけれど、きちんと座る気にはまるでなれなかった。
 放置されたマウス、キーボードの横にはタオルが厚く敷いてあって、間に挟んだお守りを乾かしている。損傷が怖くて重りを乗せていないから、明日までには乾かないかもしれなかった。
 裾を絞ったせいでしわしわになった喪服のまま、ぎゅうっと膝を抱え込む。身じろぎに、椅子がぎしりと音を立てた。
 まばたきのたびに、あらゆることがまぶたの裏に蘇る。いいことも悪いことも、どちらでもないことも、全てが入り混じって、思い出は私の中をゆっくりとかき混ぜていった。
「……紺洋さん」
 ぽつり、とつぶやく。返事はもちろん聞こえない。あのあたたかい声は、乾いた手は、私に応えてくれた言葉は、もう二度と戻ってこない。私を導いてはくれない。それでも、問いかけずにはいられなかった。

 ――紺洋さん。
 運命ってなんですか。

 あなたに言われたとおり、運命とはなんなのか、その先がどうなっているのか、喪に服してずっと考えてきた。でもまだわからない。
 あなたの言うとおり、諦めることだけが運命じゃないというのなら。蘭さんの言うとおり、納得することこそ運命だというのなら。だったら運命ってなんですか。その先に一体、なにがあるんですか。
「私は、どうしたら――」
 夜はどんどん深くなっていく。長かった五月が、それ以外のものが、少しずつ終わろうとしている。
 放置されすぎたパソコンがスリープに入って、ふつっ、と画面が暗くなった。ぶうん、と小さな駆動音。それがなにかの拒絶みたいに感じられる。気のせいだとわかっていても胸が痛んだ。
 ぎしっ、と椅子が鳴る。三角座りの膝に突っ伏した。濡れた喪服に額がこすれて、ざらりとした感触を伝えてくる。
 もう寝なきゃいけない。明日は紺洋さんと最後のお別れだ。朝も早いし、法要や食事会の手伝いをするなら忙しくなる。わかっている。わかっているのに。

 その夜はまったく眠れなかった。私は一睡もしないまま、窓の外がゆっくりと明るくなっていくのを椅子の上で見届けて、五月最後の朝を迎えた。

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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