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【創作大賞2024 恋愛小説部門】知見寺家の蔵には運命が眠っている 第6話

【第六話 汚せない遺品】

 
 その日、私は初めて、喪服を着ずに知見寺家の門をくぐった。
 放課後に、臨時の補習があったのだ。おかげで、蘭さんに行くと告げた時間を大幅に遅れてしまった。メッセージを送ったものの、いつまで経っても既読すらつかない。
 別に機械に弱いなんてことはないけれど、蘭さんはほとんどスマホを見ない人だ。おそらくは、私が遅れるなんて知りもせず、いつもと同じようにあの地下牢で待っているのだろう。そう思うと余計気持ちが焦った。
 ようやく知見寺屋敷に辿り着いたときは、約束の時間から一時間も経っていた。預かった合鍵で門扉を開け、中庭の蔵を目指し、ほとんどもつれるように走った。
 息を切らして蔵の扉をくぐって、ようやく、自分がまだ制服のままだと気付いた。そんなことすら失念していたとは、よほど慌てていたらしい。汚したときのため、知見寺家に喪服の替えを置いておいてよかった。いま着替えるべきだろうか。
(でも、先に蘭さんにご挨拶して、時間を守らなかったことを謝らないと)
 きっとあの人は気にしないだろうけれど、礼儀として、謝罪と説明は必要だ。私はセーラー服の襟と裾を整えると、お守りを首から下げる。はずんだ息を整えて、地下への階段を下りていった。
 地下牢は相変わらず明るかった。この蔵はどうも特殊な作りで、地上階は普通の蔵なのに、地下だけは明らかに人が過ごすことを想定して作られている。外光をたっぷり取り込む窓といい、電気が通っていることといい、どうも歴代当主がめいめい過ごしやすく手を入れ続けた結果、今のような〝秘密基地〟になったらしい。さすが知見寺家というべきか。
 すん、と息を吸った。胸に広がる、書物とメンソールの匂い。白っぽい光がちらちらまたたく中、私は本棚の隙間を抜けて文机を目指した。突き当りの壁際で、きらきらっ、と金が光る。案の定、定位置に彼女はいた。
「……寝てる」
 そっと歩み寄る。蘭さんは、文机に突っ伏して眠っていた。ずり落ちたジャージの背が、規則的に上下している。腕の上に伏せた横顔からは、健やかな寝息が聞こえていた。
 本で散らかった文机の上に、私はそっと身をかがめた。驚かせないよう、できるだけ小声であの、と呼びかける。
「蘭さん」
 返事はない。もう少し大きな声で呼ぶべきだったろうか。私は屈み込んだ顔を近付けると、くちびるを開こうとして、
「ん……」
 ぴく、と蘭さんのまぶたが動いた。二、三回、痙攣みたいにぴくりとまぶたが動いて、長いまつげがゆっくりと持ち上がる。色の薄い虹彩が現れて、視線が数秒、たよりなげに辺りをさまよった。
 瞳だけがふらり、と動いて、ようやく私を捉える。ぼんやりした眼差しのまま、薄いくちびるがかすかに開いた。震えるような呼吸が聞こえる。なにか言おうとしたのかな、と耳を澄ませた、そのとき。

 するり、と白い手が持ち上がる。蘭さんの指先が、セーラー服のスカーフを少し撫でて、垂れかかった私の髪を一房、すくうように取った。文机に伏せた姿勢のまま、いつもよりぼうっとした表情の蘭さんが私を見て、

「……制服、かわいい」
 寝起きの掠れた声でささやくと――ふわ、と微笑んだ。
 
(あ――……)
 無防備な、安心しきった、見たことのない表情だった。
 淡く細められた眼差しは穏やかで、色の薄い瞳が、ぼんやりと私を見上げている。半開きになった薄いくちびるが笑みを作って、寝起きのせいだろう、頬がうすく上気していた。
 子供みたいに突っ伏した蘭さんの、あどけない表情にかかった金髪が、日差しを受けてやわらかく光っている。その隙間から、きらっ、とピアスがひときわまぶしく輝いて、私の視界を白く焼いて、

 ――どくっ、と心臓が鳴った。

 訳のわからない衝動が胸をかきむしって、息が急に苦しくなる。すごい勢いで鼓動が早くなって、は、と喉の奥から押し殺した息が漏れた。
 どっ、どっ、どっ、と耳のすぐ横で心臓が音を立てる。よくわからない感覚が、情動が、胸の底をぐしゃぐしゃにかき乱して、足元がグラグラする。

 なにひとつ訳のわからないまま、身体だけが勝手に動いていた。
 屈み込んだ上体をますます深くして、私の髪が、蘭さんの上を、囲うように降りかかる。文机についた腕を曲げて、ゆっくりと近付くごとに、メンソールの匂いがふわりと立ち上ってくる。少しずつ近くなる体温。ぞくっ、とした。

 焦れるような速度の果て、くちびるがとうとう、蘭さんのこめかみに触れた、その瞬間。びりっ、と電流のような震えが走った。じいん、と体中がしびれるような感覚。ほとんど酩酊に近い、どうしようもない多幸感。
 それで――ようやく、わかった。

 ――私は、このひとのことが、好きだ。

 そうだ。あのよくわからない感情も、得体の知れない衝動も、もどかしさも、むず痒さも、全部。このひとが好きだから。ただ、それだけが理由の。
(そう、か……)
 は、と息をついて、そっと身を離した。顔が熱くて、耳のすぐ傍でどくどく音が鳴っていて、息が苦しい。目の前ではこめかみを押さえた蘭さんが、ぽかん、とした顔で私を見上げている。
 半開きの口のまま、蘭さんがゆるゆると身体を起こした。キャミワンピの肩紐が片方、すとんと肩から落ちる。手を伸ばして直してやりたい衝動に駆られて、でも、それより先に伝えるべきことがあった。だから口を開いた。
「ら……蘭さん。私、あなたのこ」
「――待った」
 なにを言う間もなかった。すぱん、と言い放たれた制止の言葉は、あっさりと私の告白をさえぎった。え、と口を開きっぱなしで静止した私に、蘭さんは思い切り顔をしかめる。
「そういうのはな、気の迷いだ」
「え……?」
 蘭さんが、なにを言っているのかわからない。間抜けな顔で首を傾げる私の耳に、チッ、と小さな舌打ちが聞こえた。
「ただの勘違いだよ。ガキが血迷ってんじゃねえ」
「な――勘違いって、私、そんなこと……!」
 思わず語気を強める。でも、蘭さんは聞く耳をもたなかった。勘違いなんだ、と強い口調で返される。
「てめぇは未来ある若人だろうが。こんな干支ひとまわりも上の女にのぼせあがってんじゃねえよ。いずれ絶対黒歴史だ」
 ほら、忘れてやっから。呆れたように返す蘭さんの顔は、いつものあの、私を子供扱いする、大人の表情だった。いらっ、とした。ぎりっ、と手を握りしめる。
「……っ」
「さ、とっとと作業すっぞ」
 私の肩を押しのけて、無造作に立ち上がろうとする仕草。それが無性に気に障って、むかむかして、だから。
「今日で蔵終わるといいけ――う、わ……ッ⁉」
 足払いは、思った以上に美しく決まった。尻もちをついた蘭さんが、咄嗟につこうとした手首を捕まえて、痩せた身体に乗り上げて。全身の体重をかけて、蘭さんにのしかかった。
 目の前で、蘭さんの喉がひゅっ、と鳴る。色の薄い瞳がいっぱいに見開かれて、押さえ込まれて身動きの取れない身体が、びく、と痙攣した。
「な、なに、てめぇ、雨宮……」
「……知りませんでした?」
 思ったよりずっと低い声が出た。ぎゅっ、と握ったてのひらの内側で、蘭さんの手首がぴくりと震える。抗う仕草に、笑った。
「緩和ケアのボランティアって、意外と肉体労働も多いんですよ」
 文机にかじりついてばかりの哲学者に、太刀打ちなんかできるはずがない。身をよじる蘭さんの貧弱な抵抗を見下ろして、私は薄く目を細める。
 引きつった半笑いを浮かべ、蘭さんは無理に作ったような反抗的な目で私を見上げた。
「……すげー顔すんじゃん、てめぇ」
 どういう顔だ、と思ったのが表情に出たらしい、蘭さんがはっ、と喉を鳴らす。
「油断したら食い荒らしてやる、って生意気な顔」
「……生意気、ですか」
 こんな状況でも、このひとはどこまでも口が減らない。
(ああ、だったら)
 本当にやってやろうか。
 むかむかとこみ上げるのは暴力的なほどの自暴自棄で、胸の内を荒らしていく感情と衝動が、私をひどく苦しくさせる。
 目の前のこの人が、私の気持ちを受け入れないのは自由だ、でも。私の感情は、このどうしようもない衝動は、他の誰でもない、私だけのものだ。気の迷いでも若気の至りでもない。否定されるいわれなんてない。
(そうだ、)
 ぎっ、と骨ばった手首を握った。組み敷かれた蘭さんが、ひく、と喉を鳴らして顔をしかめる。その口元がかすかに歪んで、雨宮、と私の名前を呼ぶ、忌々しい生意気なくちびる。それが無性に癪に障って、今すぐ黙らせたい、と思った。
 そっ、と肘を曲げる。垂れかかった私の黒髪が蘭さんの周りを囲んで、まるで檻みたいだと思った。
 じりじりと、顔を近付けていく。私の意図を悟ってか、蘭さんが息を呑んだ。
「っ、よせ雨宮」
 引きつった声がする。逃げるように反けられた顔の、顎を片手だけで強引に掴んで、ぐいと戻した。肘を曲げて、顔を近付けて、くちびるに蘭さんの、戸惑いで引き攣った吐息がかかる。むしゃくしゃする。
 このひとが拒絶するのは自由だ。でも、私にだって想う自由はある。子供だろうがなんだろうが、否定なんかされたくない。誰にも触らせたくない。それに。
 ちらちらと蘇るのは記憶とも呼べない断片だ。十六年分の感情と情動と痛いくらいの諦念と、どうせ、という言葉たち。
(そうだ、どうせ)

 ――どうせ運命なら、

「好きな人を好きでいたい」
「雨宮ッ」

 ぐ、と顎をとらえて、くちびるを近付けて。すぐ目の前、近すぎて焦点を失った視界の中で、あの色の薄いきれいな目が、いっぱいに見開かれている。

「そう思うことの、なにがいけないんですか」

 あたたかい息が混じり合う、たった一センチほどの距離。まだるっこしいそれをとうとう、呼吸ごと完全になくしてしまおうとした、瞬間。
「――っ……雨宮ッ‼」
 ばしん、と頬のあたりで衝撃が弾けた。目の前になにかきらっ、としたものが翻る。はっ、と目を見開いた。
(あ……)
 陽光を受けて強く銀糸の輝いた、淡紫のお守り。それが宙に浮いて、私と蘭さんの間をさえぎっている。
 少し遅れて頬がじん、と痛みを訴えて、蘭さんにひっぱたかれたのだと悟る。そのとき紐が引っ掛かって、お守りが弾け飛んだのだということも。
 淡紫の守り袋。あの人に預けられたもの。知見寺の神秘と叡智の象徴、歴代の当主が守ってきた、あの人からの信頼の証。
(紺洋――さん)
 ――一瞬で、頭から水をぶっかけられたような気分になった。
 紺洋さんの笑みと、あのあたたかい乾いた手の感触が、ちかちかと蘇る。紺洋さんが孫娘を語るときのやさしい瞳と、それとよく似た蘭さんの、紺洋さんの遺影を見つめるときの、穏やかな眼差しも。
 そうだ。この人は、私を尊重して導いてくれたたったひとりの人、知見寺紺洋氏が遺した、大切な存在だ。それなのに私は、
(私は、なにを……)
 どくっ、どくっ、と心臓が早鐘を打って、それとは裏腹に、指先は痛いほど冷たく痺れていた。間違いなく後悔と呼ぶべき感情が、私の舌をもつれさせる。それでも、謝罪だけは言わなければ、と思った。
「……すみ、ません」
 ほとんど吐息みたいな声で絞り出す。よろよろと蘭さんの上からどいた。蘭さんの喉から、は、と潰れたような息が漏れる。まだ床に倒れたままの、胸元で握られた白い指先は、よく見なければわからないほどかすかに震えていた。ひどい後悔が胸を乱した。
 よろめきながら立ち上がって、蘭さんから距離を取る。そうすべきだと思った。少し早口で、もうしません、と言う。そこまで言ってようやく、蘭さんはゆっくりと上体を起こした。
 蘭さんがこちらを見る気配があって、でも、淡い色の瞳を、あの薄いくちびるを、見返すことができない。心臓がじくじくと痛みを訴える。
「――着替えてきます」
 それだけを小さく言うと、私は、逃げるようにその場を離れた。蘭さんは私を呼び止めなかった。
 地下牢からの階段は、数も角度もいつもと変わらない。それなのに、駆け上がる私の肩はしきりに上下して、息が無性に苦しかった。


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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