真直に


(続)併存




ー 私とテニス



この時はもうサトミは捨ててた。つもりだった。
誰かのために、じゃなく、私のために、頑張りたいと思うようになっていた。
私はテニスが大好きだから、強くなりたいから、頑張りたいと思えるようになった。
昔はテニスを頑張れば、試合で勝てば、父親が笑っていたから、機嫌を取るために頑張っていた。機嫌を取らなければ、テニスが出来なくなるから。

だけど誰かのためにやるテニスは面白くなかった。
これも苦しい原因のひとつだった。

せめて好きなテニスだけは私のために、そう思えるようになったのは黒田さんと茜さんの存在は大きかったのかも。
私はこれからもテニスと生きていく。そう考えるようになっていた。


顧問とのバトルはずっと続いていた。
テニスに対する価値観のズレ。試合で勝ちたい結果を残したいって相変わらず言うくせに何も変えようとはしない。部員に嫌われないように必死の顧問。滑稽。

私は試合で勝ちたいから、そのためにどうすればいいか考えて努力を続けた。
毎朝5時に起きて、ランニングとトレーニングをして学校に行く。通学も片道1時間半かけて山道を自転車で通った。ママチャリで。授業中はテニスノートを開いて勉強しているフリ。学校が終わったら22時近くまで練習。月曜〜土曜が練習で土日に試合のサイクル。
さすがに周りが勉強をしろと言わなくなった。行動で黙らせた。私の勝ち。


秋の団体戦で負けた。当然の結果だろう、って私は思った。
私自身の試合内容は良かったし次に繋げられるものだった。
学校として負けた事、全く悔しくなかったしもちろん涙も出ない。早く練習に行きたい、そんな気持ち。

試合終わり、顧問に全部員が集められる。
私が一番嫌いな時間。これほど無駄な時間は無い。振り返るもなにも無いじゃん。早く終われ。そう思いながら顧問と部員の様子を見てた。

長〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜い沈黙。鼻をすする部員。葬式か。泣いてんだか泣いてないんだかしらんけど。何に対して泣いてんだろ。泣けばいいと思ってんのかな。

ようやく喋り出した顧問の口から出た言葉、私が今まであいつにぶつけてきた言葉そのものだった。まるで自分の言葉かのように話して、満足気な顔。今でも忘れられない。ここまで人に対して厭悪えんおする事があるのか、と思うほどだった。
「次は勝てるようにもっと頑張ります。」そんな事を言ってたかな、みんな。覚えてもないや。
いつもと違う事を言う顧問に戸惑ってか、その後も沈黙が続いて動けない周りの人たち。たまに鼻をすする音だけが聞こえる。


なんだこれ。なんの茶番だよ。


耐えきれなくなった私は
「泣いて強くなれるんなら好きなだけ泣けばいいんじゃない?」
ってひとこと言って立ち去った。

途端に異常なほどの悔しさと怒りが込み上げてきちゃって、
みんながいない所で大泣きして

「ふざけんなよいい加減にしろ!!!!!!!あんなやつさっさと消えろ!!!!!!!!!どいつもこいつも!!!!!!!」

かつてないくらいに暴言を吐きまくってそのまま過呼吸起こして意識を失った。その後の事は覚えてない。


その数週間後、怪我をした。
練習中に違和感が出てきて、終わる頃には歩けなくなった。

何でこのタイミングで。マジで思った。
高校2年生の秋なんて、最後のインターハイとU18の試合に向けて追い込む時期なのに。


近所の病院に行って検査をして言われた、
「骨も折れてないし靭帯が少し炎症起こしてるね〜リハビリすれば治りますよ。」
毎日リハビリに通った。1ヶ月くらい。一向に治らない。痛い。日常生活ですら厳しい。さすがにおかしい。病院を変えた。
再度検査をした結果、

“剥離骨折と靭帯損傷” 

骨、折れてるし。折れた骨が単独で成長しちゃってるし。靭帯なんて使い物にならないくらいに伸び切ってるし。そりゃ歩けないわけさ。

この状態から治すには手術が必要。
でもこの時すでに冬。勝負は春。時間が無い。

手術をして高校のテニスは諦めるか、高校のテニスが落ち着いてから手術をするか。
どっちにしろ手術は必要。問題はタイミング。


悩んだ。本気で悩んで、自分のために自分で考えて答えを出した。


《高校で全国の舞台に立てなかったら、テニスを辞める。》


今までテニスを続ける事しか考えてこなかった私が、この怪我をきっかけにこの先もテニスを続けるかを考えるようになった。
手術をしないといけない状況になったからこそテニスとちゃんと向き合うことができた。

もちろん好きだから続けてきたのだけど、テニスを逃げ道にしてしまったのも事実。
両親からも、コーチからも、テニスをするのが当たり前だと思われていて、それを裏切る勇気がなかった。
大学に入っても当たり前にテニスを続けるもんだと思っていたし、社会人になってもテニスと関わっていくんだろうと思っていた。

私はまだサトミだった。

テニスを辞めない理由ばっかり見て、テニスありきの人生しか考えてこなかった。
やるのかやらないのか、と向き合えていないことに気付けた。


“テニスは義務じゃない”、その思考に辿り着くまで17年。


試合で勝てなくても、「大丈夫だよ、努力続けていれば勝てる日が来るから!」そう言ってくれるコーチを信じてひたすら頑張ってきた。

じゃあその日はいつ?

それこそ自分次第なんだけど。
アスリートにとって怪我はつきものだし、今の怪我が治ったとてまた別の怪我をするかもしれない。
なにより私には後遺症がある。治らない障害がある。
悲劇のヒロインぶるな、と言われるので口に出してこなかったし自分の中でも見て見ぬフリをしてきたけどこいつがまあしんどい。

顔面痛、めまい、耳鳴り、脱力。
この体で競技としてのテニスを続ける事、自信は無かった。

フラッシュバック。いつ死ぬかわからない恐怖。
精神的にもずっとしんどかった。

だから、今の最悪の状態でも結果を残す事が出来たら、テニスを続ける。ダメだったらテニスにケリつける。

覚悟を決めた。


競技としてじゃなく、コーチをするとか何かしらの形でテニスを続ける、という選択肢は無かった。テニスで食っていくか、離れるか。0か100か。白か黒か。その2択。

「今は手術せずに試合に出る。」


主治医、コーチ、両親にそれだけ伝えた。
覚悟は伝えなかった。
言っちゃったら、彼らはなんとしてでもテニスを続けさせる。
私を見る目、態度を変えて欲しくなかったから。

テーピング、痛み止め、ブロック注射、あらゆる手を打って今の最善の状態を作ってラストチャンスに挑んだ。


3月、U18の試合、都大会初戦敗退。

4月、インターハイ、都大会3回戦負け。

私はひとりで、テニスを辞める決断をした。

まだ団体戦は残っていたから、辞めますって周りに言わなかったけど。
全部終わってから言おうって決めてた。周りの意見を聞きたくなかったから。
私の人生、私がやる事は私が決めるって決めたから。


そんな中、顧問から呼び出された。

「団体戦出たいか?」

たぶん最後の嫌がらせ。

「勝ちたくないんですか?」

私も強気に出てみた。
これで出してくれないんならそれでもいい、と思って。

「そこまで言うなら出してやってもいいけど。」

そう言われた。いらんプライドだけは高いな相変わらず。

正直、試合は出られるなら出たいって思ってたし、こいつと同レベルでいたくないと思ってプライドを捨ててみた。かっこよく言うなら大人の対応をしてみた。

「出させて頂けるなら出たいです。」

頭を下げた。

嬉しそうな奴の顔。きっしょ。
最後まで気持ちの悪い人だった。


これが私の最後の試合。思いっきり最後までテニスを楽しもう。
モヤモヤも悔いも何も無かった。私のためにテニスをやり尽くそう。サトミはもういない。
テニスが無い人生なんて考えられなかった私が、少し前向きになれたような、そんな感じ。

6月、最後の試合が終わった。
やる事全部やり切った。肩の荷が降りた感覚。


これからの事はこれから考える。
私、頑張った。えらい。かっこいい。
生まれてはじめて私は、私の事を褒める事が出来た。

最後のインターハイ予選の個人で負けた相手がそのまま日本一になった。なんだか報われた。
私のテニス人生、物凄く自慢できるような戦績をたくさん残した訳じゃ無いけど、自分の中の宝物である事は間違いないから、テニス続けてきて本当に良かったと今でも思う。
続けさせてくれた両親にも感謝してるし、めちゃくちゃにしばいてくれたコーチたちには頭が上がらない。一緒に練習してくれた大勢の人たち、ダブルスのパートナー、対戦相手。
私のテニス人生に関わってくれた全ての人たち、本当にどうもありがとう。

「◯◯大の△△先生知り合いだから紹介できるよ。いついつ練習会あるから行ってみなよ。」
コーチに言われた。

「××大か□□大に行け。」
父親に言われた。


「テニスは高校で終わりにします。」


私の決断を伝えた。私の言葉で。


「もったいない、もっと上を目指せるのに。」

コーチ全員に同じ事を言われた。
結構前から決めてた、やり切ったから悔いは無い。
そう伝えたら受け入れてくれた。寂しそうな顔もしてくれた。

「これからもその根性で自分の人生頑張れよ!」

って送り出してくれた。

それに反して父親はなかなか受け入れてくれなかった。
もっと夢を見させてくれ、大きい舞台に俺を連れて行ってくれ、と。
案の定、まさか娘がテニスを辞めると言い出すなんて思ってなかったらしい。
私もそんな素振り全く見せないようにしていたし。

「怪我も後遺症もある体でこれ以上続けるのは厳しい。全部やり切りました。」

「選手としてじゃなくていい。コーチになるでも趣味でもいい。テニスを続けてくれ。」

その選択肢は私には無い、それを伝えた上で

「もうテニスはできません。辞めさせて下さい。」

私は頭を下げた。テニスを嫌いになったフリをした。
心苦しかったけど、私が決めた覚悟はそんな甘っちょろいもんじゃないから。


父親が折れた。


その後はその後で厄介だった。

この仕事に就け、だとか。今までテニス最優先にしてきたから、なんとなく大学に行ってなんとなくバイトをして友達と遊んで普通の大学生になって欲しい、だとか。

全部嫌だった。


”なんとなく” が一番嫌いで苦手だった。

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