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雨の日は渋谷の夜を思って

雑多な街、東京。
その象徴はまさに渋谷だと思う。

様々なものが反発したり溶け合ったりしながら、何とかうまいこと収まっている場所。だからこそ、蓋を開けたときの情報量の多さにいつも圧倒されてしまう。

遠巻きにスクランブル交差点を眺めていると、人の群れがくっついて、また離れて。
ふと。何度も忘れようとしたのに、いつの間にか私の中からするりと居なくなっていた人のタバコの香りを覚えて心がざわついた。
歩行者信号が赤に変われば、待ちに待ったぞ!と言わんばかりにまた車が走り出す。

忙しなく動き続けている。景色も、感覚も。
それがどうしても好きになれなくて、心はずっと渋谷から遠いところに居たがっていた。

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珍しく祖父から知り合いの合同絵画展へ行きませんか、という誘いがあった。
祖父は若い頃から生業として映像を撮ったり、絵を描いたりしている「クリエイター」で、私はひとりの人間として彼の視点に興味があった。

バスに揺られて微睡んでしまうほど穏やかな午後、ふたりで市営のミュージアムへ足を運んだ。
平日だったので人はまばらで、祖父の速度に合わせてゆっくりと歩く。

展示室に入ってすぐ、一際大きなキャンバスに描かれた絵の前で長いこと足を留めた。

深い藍色の背景に浮かぶ色とりどりの傘。
濡れたアスファルトに映るキラキラの照明。
その中を、ひとりひとりが主役のように踊る人の波。


「雨の渋谷」を描いた絵だった。

これまでこの光景を目に映したことはあったんだと思う。けれど、私の中の渋谷は「どうせただ感覚がうるさい場所」。
そうとしか見ようとしていなかった。だから気付かなかった。渋谷の雑多さがこんなにも輝いて見えるということに。
完全にしてやられたな…という気分だった。

少し離れたところで、祖父と画家さんたちは「ここはこう描いた方が良いね」なんて話していたけれど、わたしは「素敵なのに…」と思いながらただ渋谷の雨に打たれ続けていた。

◻︎ ◻︎ ◻︎

日が傾きかけたバスの中で「あの絵素敵だったな」と呟いたら、「何故それを本人にきちんと伝えなかったの?」と祖父に問われた。

たとえ批判する人が居たとしても、感じた気持ちは本物だから消さなくて良いこと。大切にして良いこと。
素直な気持ちを伝えることで勇気付けられる人が居るかもしれないこと。

孫への優しさだったんだと思う。それと、曲がり形にも物を残す人間に対しての指摘。

頬が熱くなるほど何だか恥ずかしい気持ちだった。「素敵です」とただ一言、勇気を出して伝えるべきだったと心底後悔した。

それ以来、「雨降る渋谷の夜」が憧れと後悔の象徴として心の隅っこに住んでいる。

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明日も雨の予報だ。
誰かに、素直な気持ちを温かい言葉に包んで渡してみようと思う。
またあの画家さんにお会いできることを願って。

それでは、またきっと。

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