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#5 「あのときの私、強かった」と思うために
マラソンは大嫌いだった。マラソン大会が近づくと、回避するための思いつく限りの理由を並べたりしていた。一度も逃げられたことはないけれど。
この間、散歩の帰りに高校の前を通った。母校ではなく、縁もゆかりもない高校。だけど、そこの校庭を周回している高校生を見て、マラソン大会を思い出してしまった。
運動は小さい頃から得意な方だった。体を動かすのは好きだし、落ち着きがなくて無駄な動きが多い子どもだったおかげで、周りよりも少しだけ速く走れた。それでも、マラソンだけはだめだった。持久力が足りないということよりも、気持ちがもたない。長い距離を走り切ろうとか、少しでも短いタイムで完走しようとか、そういう気持ちはどんなに頑張っても沸いてこなかった。
それどころか、スタート地点に立つ前からすっかり帰りたくなってしまっているし、ここまで来たことを後悔している。なんとか走り始めると、今度は「どうしてこんなことしてるの?」と自分の中の理性じゃない方が聞いてくる。これに打ち克つのは、なかなか困難で、走っている間中、疑問を押しのける努力をするはめになる。
それでも、途中でどこかに行ってしまうような勇気はない上、慣性の法則は怖いもので、自分と戦いながらゴールにたどり着く。これでゴールした時に、大きな達成感でも得られたら走った意味もあるけれど、肩で息をしながら、やっぱり「どうしてこんなことしてたの?」と思う。それは、平均より少し速いタイムでゴールできたとしても、変わらない。
だから、マラソンにはかなり後ろ向きな思い出を抱えている。
でも、思い起こしてみると、マラソンを走っているときの私は間違いなく今よりも強かった。そう思う。
走ることの目標とか意味とかを見つけられないでいるのに、ピストルの音と同時に走り出して、疑問を抱えながらもなんとかゴールまでたどり着く私は、どう考えても今の私よりも強い、と羨望に似た気持ちを抱く。
羨ましいという気持ちは、決してもう一度マラソン大会に参加したいとかそういうことではなく、過去の強かった私が羨ましいのだ。
「何事もマラソンのようだ」と言ってしまうと、大きくくくりすぎかもしれないし、もしくは、言い古されたことかもしれないけれど、似た状況に陥ることがある。
よくできたRPGのように、仕事と褒美が明確に見えていることはなく、途中過程で「どうしてこんなことを」と疑問を抱くことはしばしばある。たとえ、スタート地点では目標も意味もはっきりしていたときだって。「ゴールできても意味がなかったら?」とすくんでしまうこともある。
だから、羨ましいのだ。マラソン大会の日、嫌々ながらもゴールにたどり着いた私が。
「これは長期戦になる」と感じることに、ぶつかったとき。
途中で「どうしてこんなことをしてるの?」と理性じゃない方に聞かれたとき。
「あのときの私、強かった」と思うために。
そう言い聞かせる。過去の記憶を美化したためではなく、間違いなく、「あのときの私」は強かったのだから。
最強エピソードを更新していく中で、少しずつ成長していく。今はそんな風に思いながら、長期戦を切り抜けようとしている。
とはいえ、マラソン大会で7kmも走らされたことは、いまだに疑問に思っている。半分くらいでよかった。
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