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2023.10.27

この時期になるといつも自分の中で大きな価値観の変化をもたらした人たちのことを思い出す。
自分の人生の根幹を変えてしまうくらいに大きな存在だった、二度と会うことが叶わない人たち。
どちらもインターネットで知り合った、普通に生きていたら出会うこともなかっただろうなって。
言ってしまえばそんな見ず知らずの人に自分の人生を変えるものがあっただなんて不思議なものだなあとも思う。
多分昔から人の話を聞くことが好きだったから、というのもあったのかな。
人生は人によって全く異なる道で構成されていて、自分もそのひとつに含まれて生まれ死んでいく。
どれほど他人の人生を歩みたいと思ってもそれは結局模倣でしかない。
人生を垣間見ることと物語を読むことは似ているなと思う。だから小説を書いている。
自分がまだ知らない人生や物語が無限にあって、一生かけてもそれを全て知ることは出来ないし、この間にも道は増えて分岐し続けている。
その人を構成しているものは見ているものだけではないことを、自分も肝に銘じて生きているつもり(他人からみても恐らく自分の事を理解する人は存在しないから)
だから他人に期待することって割とリスクがある。
期待しなければ失望もすることがないから。信用しなければ裏切られたと悲しむこともないから。
けれど人はそのリスクを背負いながらも人を信用しようとするし、期待もして生きていくことを選んだのだと思うと人間って面白い生き物だなあと思う。
自分も人間なのにね。

昔哲学を学んでいる人と初めて会って話す機会があった。
自分も実は大学は哲学科か心理学科と決めていたので(結局心理にしたけど)、今思うと凄く貴重な体験だったなあと思う。
彼女とは死生観について永遠とカフェで議論するという(カフェでしていい話ではない気もするが)、とても面白い時間だった。
心理学でも老年期における死の受容プロセスは学ぶんだけど、それはあくまでプロセスを学ぶだけでそれひとつひとつに問答するわけではない。
哲学はそこをアプローチする学問だから、まず死生観についての定義付けから始まるんだけど…そこが議論としては白熱するところで…

ここまで書いていて流石にこれ面白いと思って読んでる人いるのか?と思い始めてきたけど続けてもいいのかなこれ。
まあ誰も何も言わないから続けるんだけど。

死生観は宗教や心理学、哲学とか色んな学問からのアプローチがされていて、それぞれに定義とかが異なるからここでは哲学や心理学からのアプローチとして。
ちなみに大学は仏教系だったので仏教の死生観もまたこれとは異なって存在してる。
どれが正解とかはもちろん無いし、人によって色々と抱くものも違うからわたしたちは真の死生観とはどのようなものだと考えるか、という題で議論をしていた。
まあ真の…とかいうと急にうさんくさくなるのはお決まり。
輪廻転生とか涅槃原則とか(別名ニルヴァーナとも言う)、人は死んだら一体どうなるのか、何処へ行くのか。
その答えを知るのにどうしたらいいんだろうとか。
自分が実際死んでみないと分からないから、どうにも確認しようがないんだけどさ。
一度は考えたことがあるよね(と信じてる)。 

こういう事を考えていると無限に時間が経つ訳なのです。哲学には答えがないから、オチもないんだけどね。
何が言いたかったかと言うと、こういう話がとても好きで色々と議論してみたいなあとふと思ったという話。
文章の組み立てがあまりに下手すぎて読めたもんじゃないなこれ。

すみません、どうしても眠れない時にでも見て貰えたらいいです。余計に眠れなくなったら申し訳ない。
自分も今書いててよく分かってないから大丈夫。
でも楽しいよね考えるのは。
どうにかこのエネルギーを創作に活かすべきなんだけど…自分が1番願ってることだったな。

いや長すぎる!!
せっかくなので思考のメモとして残しておきます。

来週amazarashiのライブだからそわそわして
つい何か哲学をしたくなるんだわきっと。
虚無病にも涅槃原則の僧侶出てきてふと考えてしまった。
こういうちょっとカルトっぽいライブ大好きなので
このまま貫いて欲しいな。
あとどうでもいいけどニルヴァーナって言葉格好いい。
肩書きに欲しいくらい。
ほんとどうでもいいわこの話。

またね、いつかどこかで会おうね。

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