求む文章力 その他雑記

なんとなく文章を書きたくなった。授業の課題で文章を書く機会はたくさんあるけれど。なんなら自分は文章を書くのが苦手な方であると再認識して少し落ち込んでいる。それなのに文章書きたいという気持ちが薄れなかったので、書いておくべきだと思った。一度書いたら「実はいい文章を書けるのでは」という気持ちに諦めがついて、この書きたい気持ちと自信のなさの間でストレスを感じることはしばらくなくなるだろう。多分。

自分は文章を書くのが下手だ、と感じたのは割と最近のように思う。
大学に入って、レポート課題というものに直面したとき、言いたいことはたくさんあって、少し頑張れば字数は埋まった。だけど出来上がった文章がなんかダサいのである。他人の文章と並べて出されるとなおさら。
それを何度か繰り返して、ああ、自分は文章が下手なのかもしれないと思った。言いたいことが伝わらない、というよりは、ダサいのだ。小学生が書いたような語彙力をしている。(言いたいことが伝わっているのか、というのもあまり他人に聞いたことがないので不明)
語彙力がない、というよりは、アウトプットが下手なのだ。作文の経験はきっと自分とそこまで変わらないはずの周りの大学生はどうやって大人っぽい単語や言い回しを文章に落とし込んでいるのだろう。
「思う」を「考える」にするとか、そういったあたりのところまではついていけていた。しかし「関心を寄せる」とか「醸し出す」とか「思考を巡らす」とかいう表現を自らの文章に利用することはできそうにない。
私はそこに辿り着くまでの道のどこかで周りから振り落とされてしまっているようなのだ。
あとは単純に表現力がない。比喩とか、喩えとか、全く思いつかない。

そういえば最近、高校一年の時のクラスLINEが久々に稼働した。成人式に合わせて、一年のクラスでも集まらないかという誘いだった。その文章では「います」は「おります」になっていたし、他にも「いたします」「皆様」「つきましては」「検討中です」など。
同年代の人間は今も周りにいるわけだし、高校の同級生と同窓会で久々に会ったとしてもそんなに変化がないだろうと油断していたが、不意打ちを食らい、しばらく物思いに耽るハメになった。
自分も含め、周りにいる友人たちも、状況に合わせてしっかりとそういった言葉遣いをするわけだが、その子のイメージが高校時代で止まっているために、その変化にそわそわしてしまったのだ。
今やっているクレジットカード契約案内のバイトで、社員さんが使う「お客様」も「さようでございます」も、気が付いたら自分も使うようになるのだろうか。なんだかわからない、少し寂しいような、自分を失っていくようで怖いような、感情。

ああやっぱり語彙力が足りない。


(下書き保存)


過去に自分が書いた文章(小説)を読んでみた。今よりはいい感じに見える。やはり書いてないと書けなくなるのだと思った。あとは、創作の方がいい。自分のことを書こうとすると、嘘がないように、自分はどう思っているのかを精査しすぎてよくわからなくなる。今度何か思いついたら創作で文章を書いてみよう。

VTuber家長むぎちゃんのnoteを定期的に読む。

普段のかわいい、いって仕舞えばネット配信者らしい声ではしゃぐむぎちゃんからは想像つかないような、抽象的で、繊細な文章を書く(普段の配信をそこまで見ていないのであくまでイメージに過ぎない)。全て理解することはできないけれど、溢れる感情や、むぎちゃんから見える、季節や生活の寂しさや美しさをうっすらと受け取り、ある種の疲れを感じることができて良い。

あとは最近、好きな文章を書く先輩のnoteを周回している。ありきたりな情景をありのまま、しかし綺麗に描いているのが素敵だ。やはり、いい文章を書く人は、世界を受け取るアンテナが敏感で、だから、文章が上手い人は、写真とか絵も上手いのかもしれない。逆も然り。

文章を書こうと思うから、アンテナを立てるのかな。
確かに、毎日日記を書こうと思っていたら、些細なことも見て、感じて、考えるかもしれない。

絶対に続かないし、疲れるからやらないけど。


まあ、また書かないことがストレスになったら書こうと思います。そのくらいがちょうど良いよね。




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