見出し画像

チャグチャグ馬コで賑わうレトロな街並み・盛岡の旅

※2024年6月の話です
チャグチャグ馬コのほか、 さんさ踊りや川守稲荷神社・荒神神社 例大祭などがあり1日中お祭りモードな盛岡市内を楽しんできました



盛岡の歴史

盛岡駅に到着!いいお天気に恵まれて絶好のお祭り日和です

盛岡駅前にある石川啄木の碑

盛岡市は、2023年1月12日付けのアメリカのニューヨーク・タイムズ紙にて「2023年に行くべき52カ所」に選ばれた都市です

参照:https://www.city.morioka.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/026/248/map/R4map/R4map_nihongo.pdf

その歴史は古く、奈良時代の803年に国府である志波城が建てられました
平安時代の主な砦として安部館遺跡や厨川柵跡も残っています

江戸時代には盛岡城を中心に南部家がおさめ、1817年には南部藩から盛岡藩へと改名
以前の5000円札の顔だった新渡戸稲造の新渡戸家は、この南部藩の藩士で中津川付近に生家があります
初の平民首相として有名な原敬の出身地でもあり、駅の西側にその邸宅跡が残っています

また、石川啄木や宮沢賢治などの文学にも縁があり、材木町よ市・中央通りの近辺にゆかりの史跡が残っています

盛岡駅の改札を出て東口側にいくとあるのが…
『わんこロード』
北口改札と南口改札を繋ぐ通路です
岩手県のゆるキャラ・わんこ兄弟がお出迎えしてくれます かわいい🩷

盛岡は岩手山をのぞみ、市内に北上川と中津川が流れる自然豊かな光景が広がる都市です
天気もいいので気持ちの良い流れ

開運橋と北上川
旭橋からみた北上川

盛岡駅からまっすぐ行ったところにある開運橋
そのたもとの船乗り場からは舟下りができるようで、夏には楽しそうです

乗船場「もりおか港」もある木伏(きっぷし)緑地「MORIOKA KIPPUSHI WATER NEIGHBORHOOD」
開運橋と旭橋の横にある公園でなかなかおしゃれ
カフェやバーなどもあり、新しく整備されているようです


川守稲荷神社・荒神神社

旭橋横にある「川守稲荷神社」「荒神神社」
こちらも今日が例大祭だったようで、お神輿や河川敷に屋台の準備がされていました

こちらの神社、階段を登って2回に社殿があります
もともとは川の方にあったようですが、河川敷の再開発でこちらのビルの2階に移ったそう
朝早かったのでまだ門が空いておらず下の方からお参りしましたが…珍しい


注文の多い料理店発行の地「いーはとーぶアベニュー材木町」

旭橋をとおって材木町の商店街「いーはとーぶアベニュー材木町」へ
こちらは宮沢賢治の「注文の多い料理店」の発行所があった場所です
昭和50年より、4月〜11月の毎週土曜日15時10分〜18時30分に「よ市」が開催かれており、この通り全体が歩行者天国になりたくさんの人で賑わるそうです
「よ市」とは聞き慣れない言葉ですが、名前の由来はこういうことだそう

多種にわたる(萬)
余るほど豊富な(余)
良い商品を(良)
お客様に提供し(与)
満足していただく(喜)

というように、
萬(よろず)、余(よ)、良(よい)、与(よ)、喜(よろこぶ)というたくさんの意味が込められています。

https://www.zaimokucho-yoichi.com

なるほどね〜
この日も午後から「よ市」があり混み合うとのことなので、午前中の人のいない時間帯に行ってきました

入ってすぐのところに宮沢賢治の像があります

宮澤賢治像

手の中にいる「ツェねずみ」の頭を撫でると願いがかなう…とのことなのですが
ねずみさんどこだろう?

いた!
ちょこっと顔覗かせています
短編集に出てくるツェねずみはあまりいい感じのキャラクターではないのですが…銅像になると憎めないかわいさが出ています
小さくて、手のひらでなでるというより、指先でちょいちょい撫でてあげる感じ
ちっちゃいな〜

この他にも商店街の通りには6つのオブジェがあります
6つとも宮沢賢治の人生や作品にちなんだオブジェになり、何をイメージしているのか考えながら見ていくのも楽しいです

背広姿の若々しい賢治を描いた彫刻「石座」
夜になると淡い光が点滅する銀河系をイメージした「星座」、
チェロのオブジェから賢治の作曲した『星めぐりの歌』『種山ヶ原』が聴こえてきそうな「音座」、
シルクロードへのはるかな憧れを伝える「絹座」、
賢治の設計した花壇をイメージした「花座」、
そして商店街の北の入口に休憩所をかねて設けられた「詩座」

https://www.odette.or.jp/?page_id=1803
石座と宮澤賢治像
星座
音座
絹座
花座
詩座

夕顔橋方向には「雨ニモマケズ」の全文の詩碑もあります
天気がいいとちょっと読みにくいな…

「雨ニモマケズ」詩碑

さて、一番宮沢賢治と縁のある場所が「光原社」
こちらは賢治の生前に唯一出版された童話集「注文の多い料理店」を発行した出版社であり、社名も賢治により名付けられたのだそう

光原社本店
光原社本店向かいにある光原社モーリオ

商店街の通りからお店に入り、裏手に回ると…いーはとーぶの世界のような光景が
南欧風の街並みのような風景…その一角に「注文の多い料理店出版の碑」と童話「烏の北斗七星」の一節を刻んだ石碑があります

マヂエル館
カムパネルラ館
喫茶 可否(こーひー)館
注文の多い料理店出版の地 石碑
童話「烏の北斗七星」の一節を刻んだ石柱と宮沢賢治のレリーフ

(あゝ、マヂエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに早くこの世界がなりますやうに、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまひません。)

宮沢賢治 烏の北斗七星 (aozora.gr.jp)


また星座の反対側、通りを一本奥にいくと永祥院(えいしょういん)につきます
ここには地元の昔話にある「酒買地蔵尊(さけかいじぞうそん)」が祭られています
商売繁盛の守り本尊だそうなので、活気のある商店街にぴったりのお地蔵様ですね


石川啄木新婚の家

材木町から中央通に向かうと、
岩手県出身の歌人、石川啄木の新婚時代の家があります

「ふるさとの 訛りなつかし…」など、教科書などでもお馴染みですね
その歌碑は上野駅のホームにあります

もとは茅葺屋根の武家屋敷だったそうで、今では盛岡市内に唯一残った武家屋敷になるそう
石川啄木の史跡としても、盛岡市内で残っているのはこれだけだそうです

床の間のある一番大きな部屋
啄木・節子夫妻の写真
「花婿のいない結婚式」を挙げた部屋
啄木・節子の部屋

新婚当時の様子は随筆「閑天地」の「我が四畳半」に書かれています
…とはいえ、ここには約3週間しかいなかったみたいですね
盛岡・北海道・東京と生涯転々とし、盛岡市内でもあちこちにお引越ししているようですし…本当に住んでいた家、しかも結婚という人生の一大イベントの時期に住んでいた家がよくまあ残っていたものです
また、旧盛岡高等農林学校本館には、啄木の妻・堀合節子の実家があったそうで、その生誕の地として「節子の井戸」が復元されています


原敬邸別邸

またこの近くの七十七日生盛岡ビル・アートホテル盛岡のところに、原敬邸別跡があります
原敬の母が晩年暮らした「介寿荘」の跡地になり、今は同じ名前の日本料理店がアートホテル内にあります

本宅の跡は盛岡駅の西口側の本宮にあり、現在は原敬記念館となっております

最期は東京駅にて凶刃に倒れた原敬首相ですが、
現場である八重洲口改札の横には「原首相遭難現場」のプレートと床面に印があります

東京駅丸の内南口 改札口

石割桜

中央通りを県庁に向かって進んでいくと、裁判所の敷地内にあるのが「石割桜」
国の天然記念物に指定されている桜で、大きな花崗岩の割れ目から伸びている巨大な盆栽のような桜です

…ガッツリ割れてるなぁ…
樹齢は300~400年、幹の太さは4.6メートル、石は周囲21メートルもあるそう。大体江戸時代初期ぐらいからある桜の木です
枝がとても広がっているので、お花見の時期であれば桜の屋根のような光景が見れるかと
もともとここは盛岡藩の家老・北家のお屋敷だったそうで、そこの庭石の隙間に桜の種が入り、芽を出し、さらに庭石を割るように大きくなったとのこと
石の下から、石を割って伸びてきたわけではないんですね
でもそれにしても不思議な姿の桜です


鬼の手形(三ツ石神社)

ここから鬼の手形で有名な三ツ石神社のある、北の名須川町へ
日本の道百選にも選ばれた「北山寺町通り」を北に向かいます
青空と石畳・白壁がとってもきれい

南部藩時代に整備された寺町で20軒ほどのお寺が集まっており、宮澤賢治や石川啄木ゆかりのお寺、国の天然記念物に指定された「モリオカシダレ」の桜の木、昔話や伝承が伝わるお寺など興味深い見どころがたくさんあるエリアです

ちょっと入り組んだ道を通って無事到着
境内には大きな石が3つ…

でっっっっっつかいな!!!!!
手のような跡がついている「石」があるのかと思ったら、豪快に三つに割れた「大岩」がありました
岩手山が噴火したときに飛んできた岩とも言われていますが…ここまでこのサイズの岩が飛んでくること自体がすごい
それにしてもこれはでかいなー

伝説によると、この地方に住む羅刹(らせつ)という鬼の悪行に苦しんだ里人が、三ツ石の神に祈願して鬼を退治してもらいました。境内にある巨大な三ツ石に縛りつけられた鬼は、ふたたび悪さをしないことの誓いの証(あかし)として、三ツ石に手形を押し、逃がしてもらいました。

さんさ踊りは、鬼の退散に歓喜した里人が、三ツ石の神への感謝のために踊ったことが起源といわれています。

http://morio-j.com/mp/kanko_course/?sid=32

この鬼が手形を押したところには苔が生えないとの言われていますが…どのあたりになるんだろう?
また、鬼が二度と来ないという意味で、このあたり一帯を「不来方(こずかた)」と呼ぶようになったともいわれています
石川啄木の詩「不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心」にもあるように、不来方(こずかた)という地名は、廃藩置県後も地元の人々には馴染みがあったようですね
さんさ踊りの起源にもなっているようですが、その名前の由来もいくつかあるようで…

  • 神様にお供え物をして踊るという「さしあげ踊り」がもとになっているという説

  • 三十三もの踊りの種類があるので「さんさ」となったという説

どれなのかはまだわかっていないようですが…北東北には不思議な名称が多いので、どれもロマンのある説ですね


さてまた市内中心部にもどり、盛岡城跡に到着
三ツ石神社の大岩と同じ花崗岩でできた石垣が残っています
高さがあって迫力ある石垣だな

場内の石垣には三角錐の形をした石垣など、見どころがたくさんあるそうです
ちょっと今回は工事も入っており、お城はここまでで断念しました
城跡公園の敷地内にあるもりおか歴史文化館には、お城についての詳しい資料が展示されています

盛岡八幡宮に展示された盛岡城模型

櫻山神社

城跡公園内にある櫻山神社にお参り
道向かいから続く鳥居が不思議な空間です

ちょうど夏越の祓の茅の輪があったので、くぐってきました
水無月の~夏越の祓する人は~…

御祭神は南部氏のお殿様たち
南部氏の祖・光行公と、盛岡藩初代の信直公、利直公、利敬公を御祭神としてお祭りしています
南部氏は、八幡太郎で知られる源義家の弟・新羅三郎義光こと源義光の子孫で、もともとは甲斐国(現在の山梨県南部町)に領地があったようですね。
奥州藤原氏攻めにて戦功をあげたことによって、青森の二戸(にのへ)・三戸(さんのへ)・七戸(しちのへ)・九戸(くのへ)を源頼朝から与えられ、そこから幕末まで陸奥国の下北半島~岩手県中央部と広い範囲を治めることになります

南部氏が陸奥国にきた時期は諸説ありますが
もし鎌倉時代から治めていたとすると、この盛岡の南部氏は鎌倉から幕末まで700年近く同じ場所を治めていたお殿様ということになります
これは、福島の相馬氏、九州の島津氏などと同じで、世界的にもそうない珍しいケースだそう
まあ、間に群雄割拠の戦国時代も、お取りつぶしや転封も頻繁にあった江戸時代もはさむので、本当にまれなお殿様一族と地域のようです

門のところでお出迎えしてくれたのは…チャグチャグ馬コの衣装をきた…アルパカ??
チャグパカちゃんだそうです
かわいいね
その後ろには「長寿院亀之助」がいます
たわしで甲羅をこすると寿命が延びるそう
なんかかわいいキャラクターたちが多いな、この神社

チャグチャグ馬コの衣装をきたチャクパカと長寿院亀之助

おみくじもありますね~
盛岡城のお堀跡、亀ケ池・鶴ケ池にちなんでの鶴亀おみくじでしょうか?

…って、ジョジョにいたな…このカメさん…
この鍵のオブジェをとると、中におみくじが入っております
だれが作ったんだろう?結構よくできています

黄金の風を思いおこさせるカメさん

また社殿の隣、一段登ったところに「烏帽子岩」があります
不思議な形をした岩だな~
こんな岩が出てきたら、そりゃ縁起いいっても思うよね

盛岡城築城時、この地を掘り下げたときに、大きさ二丈ばかり突出した大石が出てきました。

この場所が、場内の祖神さまの神域にあったために、宝大石とされ、以後吉兆のシンボルとして広く信仰され災害や疫病があった時など、この岩の前で、平安祈願の神事が行われ、南部藩盛岡の「お守り岩」として、今日まで崇拝されています。

桜山神社-盛岡のパワースポット。超巨大「烏帽子岩」で運気アップ! | 岩手小旅 (kotabi.jp)

もりおか歴史文化館

櫻山神社の横にあるもりおか歴史文化館
本日のチャグチャグ馬コなどのお祭りや観光情報、盛岡の歴史など盛岡のいまむかしがわかる施設です
有名な黒田官兵衛の兜が所蔵されているのもこの施設です

館内は盛岡藩の歴史や南部家の貴重な資料が展示されています
南部家の展示エリア、黒を基調にしたシックでかっこいい空間です

盛岡城以前の不来方城からの変遷など、地図が多く、とても変化がわかりやすかったです
なるほどね~こうやって今の城下町に変わっていくんだ

また南部家と関わり深いのが、福岡藩の黒田家
黒田官兵衛の使用していた合子形兜が、ここ盛岡にあります
黒田騒動にて、2代目藩主・黒田忠之(黒田長政の息子)と対立した栗山利章が盛岡藩お預け→栗山家が盛岡藩士となった経緯で、盛岡の南部家に代々伝わるようになったとのこと
はるばる九州から東北の盛岡まで、大事に伝えられてきたんですね

銀白檀塗合子形兜(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)複製

↓↓日光さんと日本号に会いに行った福岡の旅はこちら。福岡市内に大宰府、立花家の治めた柳川をまわっています

このたび展示されていたのは複製でしたが、09/10~9/23に実物が展示されるようです
毎年9月の中旬の連休頃に展示がされているようです

今回の企画展はお殿様たちの温泉旅行の資料を展示した「We Love温泉!!ー盛岡藩の湯治事情ー」、
テーマ展は昭和に誕生した南部家の若君・利久君の誕生祝に作られた鯉の置物「若様に、鯉をー堀江尚志作「鯉置物」とその周辺ー」でした
これらの企画展のポスター、見た目もおしゃれなんですが、キャッチコピーもわくわくしますね
どんな展示なんだろう?と気になるコピーです

お殿様の湯治旅行、といっても視察を兼ねた一大事業になります
その旅程や、どこに行って何を見てきたのか、どんな人と会合したのかなど、細かく記録が残っています
途中、風光明媚なところで和歌を詠んだりと、なかなか雅な旅だったようです

遠くは青森の下北半島の下風呂温泉や秋田県の大湯温泉まで行っていたようです
お殿様の健康維持や病気治療のために温泉のお湯をわざわざ運ばせていたことも
…お殿様って大変な立場のお仕事だなぁ…持病の治療とか細かく記録されて、カルテがなん百年もたって博物館で展示されるわけだから…
プライバシーとは…

テーマ展の「若様に、鯉を」
1932年に生まれた若様・利久君へ、南部同郷会から贈られた鯉魚(りぎょ)置物が展示されてます
その4~5年前に、南部家では19歳の嫡子・利貞、45歳の当主・利淳を相次いで亡くしていたため、待望の若君だったようです
すでに昭和の時代になっていましたが、700年地元を治めていたお殿様と南部同郷会・北斗会は交流が続いていたようで、盛岡に縁のある地元出身の3人の作家によって制作されたそう
当時35歳の堀江尚志が原型を作り、鋳金家の内容春治が鋳造、台座は工芸家の安部郁二が制作
本当に盛岡の縁者総出の贈り物だったようです

若様の鯉、原寸大の大きなブロンズの置物ですが、鱗までリアルな鯉の彫刻というより、素朴な姿の置物です
幼い若様がさわっても怪我しないようにとの配慮でしょうか?
待望の若様に対する、周囲の人々の温かいお祝いの気持ちがこもっているようなフォルムです


中の橋からみた中津川

さて、文化館を出てそろそろチャグチャグ馬コの行列待ちしようと思います
中の橋を渡って中津川をこえ、赤レンガ館を目指します
中津川は毎年鮭が遡上してくる川
鮭たちは宮城県の石巻の河口からはるばる遡上してくるそうです
長い旅路だなあ
最近は戻ってくる鮭が少なくなったとのことで、人工孵化した鮭の稚魚を放流したりと、地域の川と魚を地元の方が守っているそうです


赤レンガ館

中の橋を渡り最初の十字路にあるのが、チャグチャグ馬コの大通りパレードの一番のスポット「赤レンガ館」
こちらのレトロな建物を背景に、華やかな衣装を着けたお馬さんが通っていきます

中に入るとこれまた雰囲気のある内装
明治・大正のドラマに出てきそうなきれいな建物です

この赤レンガ館、もともとは現・岩手銀行の本店だったんですね
なので、銀行の窓口やカウンターがあります
今は多目的ホールとして、さまざまな催しものが行われています
この日も「Waのまちクラフト市」が開催されていたようで、地元の作家さんの作品販売や占いやマッサージなどのブースがたくさんありにぎわっておりました

さてこの建物、なんかどこかで見たことあるな~と思った方、その感覚あたりです
東京駅を設計した辰野金吾の教え子・葛西萬司が設計した建築物になります
確かに先生が設計した東京駅と、教え子が設計した赤レンガ館、なんとなく似てますね
東京と盛岡、東北新幹線で繋がる二つの地域に縁やつながりがあるのはなんか嬉しいです

盛岡の赤レンガ館
東京駅

チャグチャグ馬コ

やっとこさ、チャグチャグ馬コの通る時間になってきました
ちなみに今年のポスターもおしゃれでかわいいです

お祭りの由来や歴史については、下記のとおり
もともと人と馬が同じ屋根の下に暮らす「南部曲り屋」に見られるように、馬を家族の一員として大事にする心から生まれたお祭りなんですね

端午の節句(5月5日)には、農繁期中唯一の休息日として、仕事をせず農耕に疲れた愛馬を癒やし、無病息災を祈ることを目的に、馬の守り神である 「蒼前神社」や「駒形神社」へお参りするようになりました。それが慣行化され「お蒼前参り」として定着していきました。このお蒼前参りの際に、小荷駄装束(こにだしょうぞく)を着せた馬を引くのが流行し、チャグチャグ馬コの原型が芽生えたと言われています。

歴史 - チャグチャグ馬コ保存会公式ホームページ (chaguuma.com)

1930年に馬好きで知られる秩父宮殿下がご来県された際に、滝沢市の鬼越蒼前神社(おにこしそうぜんじんじゃ) 参詣後、列を成して盛岡八幡宮の神前馬場で馬ぞろいをお見せしたところ大変な評判となったため、翌年からもお参りの後に盛岡八幡宮まで行進し、開催するのが恒例となりました。

60頭~100頭ほどの馬が、鬼越蒼前神社から盛岡八幡宮まで14キロの道のりを約5時間かけて行進します。このような形式の祭りは世界的にもほとんど例がなく、1978年に文化庁から無形民俗文化財に指定されました。

またチャグチャグ馬コの名称は、馬が着ている煌びやかな装束についている大小700個の鈴の音が「チャグチャグ」と鳴ることが起源となっていますが、その鈴の音が1996年に環境庁(当時)の「残したい日本の音風景100選」にも選出されました

歴史 - チャグチャグ馬コ保存会公式ホームページ (chaguuma.com)

行進のルートは、9:30から滝沢村を出発し、盛岡市内の盛岡八幡宮まで
これまでご紹介してきた、材木町の商店街や夕顔橋・旭橋・開運橋、櫻山神社、中津川などを通って、5時間ほどかけて進みます

参照:extension://elhekieabhbkpmcefcoobjddigjcaadp/https://chaguuma.com/cms/wp-content/uploads/2024/05/行進案内図.pdf

やってきました!
シャンシャンと鈴の音と一緒に、おしゃれしたお馬さんたちが登場です

行列をを追いかけて「ホットライン肴町」の商店街へ
こちらのアーケード下では、さんさ踊りが披露されています
テンポが良くて、とてもノリのいいお囃子
ぴょんぴょん飛び跳ねたり元気のいい踊りです
北東北の踊りって、テンポが速かったり飛び跳ねたりする動作が多いのですが、これも馬に関わることの多い地域性や文化からきているのでしょうか?


さらに、盛岡八幡宮の通りへ
途中の消防センターの屋根の上に、八幡町番屋望桜があります
明治の河南大火のあとに建てられた消防第四分団い組の番屋で、国内の消防施設としては最古のものだそう
その望楼部分を2003年に消防センターの屋根に移設し残したそうです
こうやって貴重な建物が保存されているのはありがたいですね

八幡町番屋望桜

盛岡八幡宮・岩手護国神社

やっとゴールの盛岡八幡宮に到着
1062年の前九年の役にて、源頼義・義家親子が勧進した神社とのこと
南部氏も義家の弟・義光を祖とする一族ですから、南部氏の時代も篤く信仰されていたようです

それにしても天気が良くて暑いぐらい!もうすっかり夏日ですね

盛岡八幡宮

社殿までの石畳に十二支の文字がちりばめられているそうですが…
う~ん…そもそも石畳のエリアが広すぎて…こりゃ全部は見つけられないな…

お隣には岩手護国神社が
こちらは明治維新に貢献した郷土の勤王の志士を祭るため、明治2年に創建されたそう
比較的新しい神社なんですね
平安時代の国家鎮護と明治時代の国の平和と繁栄の願いが込められたお社が並んで立っているのはとても心強い感じです

岩手護国神社

護国神社の前の広場が、お馬さんたちの休憩所になっておりました
大きなお馬さんたちがたくさん
今年も大きなお役目が終わって、まったりしているようです

神馬輸送中と書かれたトラック
お馬さんたちはトラックに乗って帰ります

朝から滝沢村から歩いてきて、おねむのお馬さんも
疲れたよねぇ

ずっと見たかったチャグチャグ馬コのほかにも、盛岡の名所をまわることができて楽しかったです
次は滝沢村のほうにも行ってみたいな
のどかな村を歩くチャグチャグ馬コの光景もいつか見てみたいものです


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?