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私の手のひらの上の幸せ

わたしと同じ時期に調理に興味を持ち、勉強を始めた友だちがいる。(細かい話をすると、私よりもその人の方が早くその門を叩いている。同じと言うとおこがましいので、敬意を表して。)

先程、連絡が来た。イタリアンが気になるとのことで、専門学校の先生の出している(私の想像した5倍分厚い)入門書を買っていた。「むちゃくちゃ分厚いのに殆ど作ったことないやつで、大海っぷりを知るよね」と言っていた。

それを読んだ時、そっとその気持ちを私なりに重ねた。...地平線に溢れる光が差して、とても眩しかった。私は、見渡す限りあるひらけた海にいた。その大海原を想像して、「大航海できるやつやな」と言葉を返した。「それって、すごく幸せ。」とも思った。知ることが沢山あって、興味を向けた先にどこにでも出会いがある!自分も同じ大海原にいるのに、全然気がつかなかった。


その後、「イタリア行ってみたい」という友だちに、私も行きたい、と強く思った。前回行った時は大学2年の夏だったと思う。すごくすごく幸せで、ここで過ごせたら何もいらない!と言うくらいに。私の仕事が何であるとか、収入がどれ程なのかとか、暮らせることと比べたら何の話でもなかった。ただいて、歩いて、ただ一日を終える。それが私の幸せだった。

少し話が逸れたが、それ程イタリアの"フィレンツェ"の街が好きで、もう一度と何度か思った。今も、いつか辿り着くものだと思っている。(また話逸れた!)
その時、建物とか絵画、別にそう思おうとしたわけじゃない、伝統を体いっぱいに含んだ風が(風に実態はあるのか。)肌にビリビリ来た。感動した。私が体験したのは記述したものの領域だった。その時、1週間半いたけど、料理に特に味わった、という記憶はない。それなりのものは食べたけど、今思うと料理に興味が無かったんだな、と思う。今料理に興味があるというのが『奇跡』なだけで、次行く時は食べたい料理に、探す段階から食べ終わりまで、終始目を輝かせているのだろうと思う。

実はちょっと友だちと話をする前、悩んでいた。

「調理(特に日本料理)にもっと関わる時間を増やすのか、どうしたいのか。私の興味はどのくらい?」等。

このnoteの最後の一文を読み、自分で「そんなのどうだっていい。」と思えた。

イタリアンという1つのその人の答えと、本を買って勉強をするという興味への純粋な行動に、私も背中を押される気がした。私もやるか、と。

気づいた今の私の回答は、「少なくとも今考えてもそれは答えは出ない。なるようになる(自分を信じて、心に沿って、)だろ。」
だから、前向きに先送り、です☆

その後、シェアハウスの友人と話した。その人はDIYをたまにする人で、昨日机に穴を開け、そして今は椅子を少し改良したいらしい。肘置きを付けるだとか、首をもたれさせられる器具を付けるだとか。私は"自分が心地良いところをつくる"というのには興味がある。その流れから、DIYってそれに近づく一歩なんじゃないかなって興味を持ったことがあって、とりあえずまだ、「私がやる」というイメージをDIYには持てていないのだけど。壁をぶち抜くとか、机に穴を開けるとかって、私が"分からない・そんな発想浮かばない"気がするのは、"興味が無い"というのが大きな要因なのではないかと思っている。

つくづく思う。これまでの人生、私って、興味があればとことん突き詰めるし、博学なのだ。逆に、特に興味が無ければ極端に無知である。『常識』というレベルすらままならないほどに。全然、記憶に入らないらしい。(地図がおぼわらないとかもその類だと思う。外に出ない自炊をせっせとしてると、飲食店を知らないとか、スーパーと駅の道しか分からない。そういう話。)本当に、こう、っていう自分街道がある。

私は、調理という『興味があるものがある』今、とても幸せなのだと思う。

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