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【備忘録2】ていねいに無駄なく生きたい 対人編

ていねいに無駄なく生きたい。

前回、『ていねいに無駄なく生きること』は効率がよく、心に余裕が生まれると記述した。今回は、心に余裕が生まれることが私自身にどんな影響を及ぼすか、ということを対人編と称して。

突然だが、皆さんは自身がギバーかテイカーかを考えたことがあるだろうか。とても簡潔に言うと、自分が受け取るよりそれ以上に相手に与えようとするか、与えるより多くを受け取ろうとするか。(これに関してはとてつもなく長くなるので気になった方は詳しく記載のある本やnoteを読むことをお勧めします)

この質問はそもそもどう考えていますか、という無意識の範疇でどうあるかとということであるが、考え方を二極化(正確にはマッチャーの三分化)されていることを知ってしまった以上、どちらかでありたいと思うのではないだろうか。

結論から言うと、私はギバーでありたい。ありたい、と言うくらいだからある程度の意識が必要で心に余裕があるとギバーでいやすくなる。つまりギバーであるためにていねいに無駄なく生きたい。

小さな努力ではあるが、常にていねいな生活を心がけてまでもギバーでありたい理由をつらつらと。(以下に関しては雇用契約がある場合を除く。ただ働きは心に余裕がなくなるから、ここに関してはマッチャーでありたい、仕事でもギバーが良いらしいがその域までまだ達せていない)

まずテイカーについて考える。与えるより多くのものを受け取るには、他者に対し信頼・期待するということだ。例えば飴玉を1つ渡して2つお返しが来ることを期待し、相手は2つくれる相手だと信頼しなければならない。

え、これめっちゃハードル高いかつおこがましくない?(突然の関西弁)ではないだろうか。

それに対してギバー。飴玉を2つ渡して1つお返しが来た場合は意外とそんなに心は乱れなかったりする。ただ心に余裕がなければ多少落胆が生まれる。ものでなくても、あんなにしてあげたのに。めちゃくちゃ考えたのに、あんなに手伝ってあげたのに。どうして?なんで?これっぽっちなの。

根っからのギバーであればよいのだが、上記のような思考回路を持っている時点で根はマッチャーなのだろう。そんな私がギバーになるためには心に余裕が必要だ。時間の余裕も必要だ。そして確実に相手よりも多くのものを与えられなければならない。飴玉2つは自分の全力であり、なおかつその人の好きな飴TOP2の黄金糖とパイン飴をあげるくらい自分の中のベストを尽くさなければならない。そうすれば、そこを上回れることはないだろう、と必然的にギバーであれると言う考えだ。(ちなみに黄金糖とパイン飴は私の好きな飴TOP2です、3位はミルキーです)

そして数年前からそのことを心において生活をするようになった。相手はどのようなものが好きか。また連絡のレスポンスは早めにする、何か求められたら120%の返答をする、調べやすくみやすい情報提供をする、些細な事を覚えておく。これらは大したことではないが意外と癖づけるまでには時間がかかった。

そして個人的に1番大切だと思うのが、上記にも通ずることかもしれないが人が普段しないような手間をかけるということ。

例えば何か渡すとき、返すとき、貸すときに一言直筆で添えるだけで印象が変わる。それを一番体感したのは、職場で50社のお客様にバレンタインのチョコレートを渡す機会があった時。小さな手書きのメモを一つずつつけた。一斉に介する場でお渡ししたのでお客様は50こ全てにそれがついていることがわかる状態。雇用契約云々を書いたがこの時はお客様を企業としてではなく一個人の“普段お世話になっている人”という認識だったこともあり、自発的に行った。とはいえ、弊社から御社へというあくまで企業間のやり取りに過ぎないのだが、渡す前と後とのお客様の顔は明らかに異なり何とも言えない満足感があった。ギバーの幸福感を心底体感した瞬間となる。

手間はちゃんとまごころになる。

一方でこういう事を始めた頃、よく「重たい」と言われた。その言葉は私を傷つけたし、また逆に相手に対してそれが重たいラインがどうなのかを察することもギバーの役目なのかと奮闘したりもした。この人はTOP2の飴まで知ってると気持ち悪がられるのか、そんな具合だ。

そして不思議な事にここ数年で変わってきた。
気持ち悪がられるような人が周囲から減り、逆に初めからTOP3の飴3つをもらうようなことが増えてきたのだ。

つまり、相手は自分の鏡とはよく言ったもので、自分がギバーであり続けると身の回りの近しい人はギバーが多くなる。そしてもともと高く保つよう意識してきた自分の思考よりも大きく上回るものを与えてくれる。それは決して金銭面だけでなく、相手を思いやる気持ち、考え、時間すべてがそれにあたる。

多少ネガティブ思考を持ち合わせてるわたしにとってギバーが周囲にいるというその事実は大げさかもしれないが世の中に自分の味方が増えたような気持ちになった。圧倒的に生きやすくなる。

先日とあるものを頂いたとき思わず泣いてしまうほど嬉しかった。本当に好みのものだったからなのだが、それ以上に自分を思いやってくれる、そんな想像を超えるギバーがいてくれることを実感したから。そして「重たい」と言われようと気持ち悪がられようと貫いた自分の多少の努力も報われ肯定されたような気がしたのだ。

これからも自分のためにギバーであり続けるためにていねいに無駄なく生きたい。




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