見出し画像

北海道の義経神社から見える、義経伝説~チンギスハンと同一人物説~

こんにちは。北海道にある義経神社へ参拝し、これは本当では??と考え、考察しました。

歴史の教科書がひっくり返る!?源義経は平泉で自決せずに生きていた!?これは単なる伝説か!?それとも事実なのか。義経の痕跡をたどっていきます。

鞍馬寺で天狗と修行したといわれ、五条大橋で身体の大きな弁慶と戦い、勝利。      
その後、壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼし、源氏勝利の最大の功績者となりました。
   

その後、兄の源頼朝に追われ、岩手県平泉で自決。 
これが通説であり、私たちが歴史の教科書で習った事です。

一方で、ある説があります。 
源義経は平泉で自決せず、そのまま生き延びていたという生存説。
さらには生きているだけでなく、モンゴルでチンギスハンとなり元という一国を率いた。という伝説です。


今回は平泉で自決したとされる源義経は実は生き延びていた!
その後を追っていきます。
もちろん義経の相棒である弁慶も同行していますよ。

北海道平取町に義経神社という神社があります。

画像1


その平取で伝わる伝説やいわれを中心に今回はお話していきます


これはただの伝説ではありませんよ


岩手県平泉で自決されたと言われる源義経


しかし義経は死んでいなかった。

ここから伝説は始まります。


ひそかに、平泉の高館義経堂を出た一行は、

陸奥を移動し続けました。

もちろん追ってが来る可能性はあります。

かなり慎重に行動していたでしょう。


そんな中でも宮城県や岩手県平泉よりも北に源義経や一行が訪れたとされる神社やお寺がかなりあります。


岩手県宮古市には判官(はんがん)稲荷神社があり、

義経の徳を忍び、甲冑が埋められた上に祠をたてたといわれています


祭神はもちろん源義経です。
陸奥を移動し続け、現在の青森県の北津軽の三厩へ到着

そこから主従の三騎を引き連れ、津軽海峡を渡りました。


ちなみに三厩という地名、三つの厩と書きます。

義経の厩であったといういわれが残っています。


ちなみに厩というは馬や牛を飼う小屋のことですね。
そう、この地名の由来も義経が関係しているのです。


三厩を出港した義経一行は現在の北海道福島町である蝦夷地、

白神へ渡りました。

なぜ、義経は北へ逃げたのでしょうか。

兄の頼朝から逃げるためでしょうか?

実は義経は逃げるためだけに蝦夷へ渡ったのではないのです。
以前から中国大陸への進出計画があり、

そのための行動として蝦夷へ渡ったのではないかと考えられています。

逃げるというよりも攻めていた部分もあったんですね


白神に到着した義経は弁慶などの一行と共に、
西海岸を北上し北海道の中央あたりの羊蹄山の麓を周りこみ
勇払を通過します

そして、当時アイヌ民族が多く住んでいた日高の平取町へ到着しました。


義経一行は東海岸から来たのではなく、西海岸から回ってきていたんですね。
かなり遠回りですね。

そこで主に義経神社のある平取町を拠点に
東は新冠周辺、
西は鵡川や勇払方面を移動していたとされています。
勇払にはアイヌ集落の遺跡から和人との交流を示す通貨や漆器も見つかっています。和人である源義経との交流があったとも示唆されますね。


また、平取町(びらとり)から新冠町へ行く道には「義経峠」と言われている峠があります。

画像2


この峠を通っていたのでしょうね。
また、新冠町には判官舘という地名があります。
この、判官舘という地名は源義経が新冠町へ住んでいたという説があります。

なぜ判官が義経なのかという事ですが、
源義経の名前は源九郎判官義経という役職や仮名があったのです。


この義経の名前からも、地名に判官という言葉が使われているのは義経の存在を感じさせますね。

蝦夷に来た義経はその土地でどう過ごしていたのでしょうか。

義経は蝦夷の平取ではアイヌ民族と仲良くやっていたそうです。


義経は造船や、農耕、狩猟、機織の技術や知恵を
アイヌ民族に伝えました。
特に栗の耕作について教えていたそうで、
義経神社のご神木は栗の木です。

画像3



神社の参道の至るところに栗の木があり、
義経が教えていた事が現在も残っています。


ここで少し、義経神社についてお話しておきますね。

画像4


江戸時代後期に近藤重蔵守重がご神像をアイヌの方々へ寄進しました


元々、神社として建物内にご神像が安置されていたわけではなく、

アイヌの方々の信仰の地が現在の義経神社よりも

さらに山奥の断崖にて安置されていました。


このご神像は何度も北海道の厳しい暴風雨に吹き飛ばされ、
行方不明になりますがその都度浜辺に打ち寄せられ、
元の安置されている場所へ還ってくるという話があります


しかし、そこへお参りすることが大変なため、現在の義経神社の地に鎮まりました。


神紋はササリンドウ

源氏が使っていた家紋がそのまま神紋になったのでしょう。

アイヌ民族からも認められた義経はハンガンカムイと呼ばれました


これはアイヌの創造神であるオキクルミカムイの再来であるとされたことが理由で名づけられました。

技術を伝えるだけでなく、若者を訓練し、部下に加え平泉からの同行者である
常陸坊海尊の連絡により、仲間が相当の数が集まったという情報が伝えられました。  

そして平取町を後にし、西海岸にて造船などの準備を行います。


平安時代末期の武将である常陸入道念西から大量の食糧の提供を受け大陸へ出発しました。

満州に渡った義経一行はロシア方面へ向かった痕跡があります


その痕跡はロシアのウラジオストックの北、ニコラエフスク市にあります。
市内の公園にはかつて石碑があり、「大日本源義経」という文言があったそうです


東部シベリア出兵していた方もその石碑の存在について公言されています。
現在では石碑がロシア側が博物館へ運び去っているとの事です


また、それ以外にも「ハンガン岬」という場所があります

 
ハンガン岬のハンガンとは、判官(はんがん)、もしくは義経がアイヌで呼ばれていた名前
「ハンガンカムイ」からきているのでしょう


現在ではハンガン岬という名前は使われていませんが、

シベリア海岸の船を泊めやすい場所にあったと言われています。

ロシアのウラジオストックから120キロ程のところに、

蘇城(スーチャン)という古城遺跡があり

この城には日本の武将が築いたという伝説が残っています。

その武将は中国本土へ攻め入り、王になったという伝説があります


当時の領土では、このあたりはロシアの領土ではなかったので、中国語の名前が残っていることはよくあります


さぁ、この義経伝説、いよいよ国内ではすまなくなってきましたね。
さらには、シベリア出兵していた人が、ニコラエフスク近郊でお芝居を見たそうです。

そこで戦いの場面が来ると日本流の鎧兜であらわれたそうです。
しかもササリンドウの紋をつけて


ササリンドウと言えば、北海道にある義経神社の神紋でもあり、
義経の、源氏の紋章です


これは昔から伝わっているもので誰が作ったかはわからないそうですが、
かつての武人が付けていたということになりますよね。
ここまでは、実際の土地や残された伝説についてお話をしてきました。
ここからは、肝心の源義経とチンギスハンの共通点について話をしていきますね。

義経の出生は1159年、一方でチンギス・ハンは1155年から1162年だと言われています。
チンギス・ハーンは幼少期など幼い頃の情報がほとんどないのです。
義経が自害し、歴史の表舞台から消えた後に入れ替わるように歴史上に現れるのです。
また、使用している紋章がかなり似ています。
こちらをご覧ください。

スクリーンショット 2021-11-21 213541

左は義経の紋章です。ササリンドウですね。

右がチンギス・ハンが使用していた紋章です。

とても似ていると思いませんか?


また、義経は馬術にも長けていました。傾斜45°の斜面も馬に乗って駆け下りていたそうです。

チンギスハンは遊牧民としたら…そりゃ馬にも乗れるでしょうね。

また、戦術も共通点があります。義経は奇襲を得意としていました。


チンギスハンも大事な局面では奇襲攻撃をしかけ、モンゴル統一への勢いをつけたそうです。


いかがでしょうか?この二人にも共通点もあり、信憑性が高くなってきたのではですか?


中国にある建靖寧寺記という碑文があります。


そこには、モンゴル語でこのような意味の文章が書いてあるそうです。

元の太祖は元々日本人である。兄の勘気に触れ蝦夷に渡った


そして、蝦夷での仲間を得て、満州へ渡った


そして、モンゴルの土地を治めた

       
そして、元という国号にした

という意味の言葉が彫ってあるそうで


元という国号は源からきているのではないかと考えられます
源を別の読み方をすると「げん」と読みます


そして、この碑の側面には鳥居が刻んであるのだそうです。

日本を感じさせますね。
最後に 元を治めた、チンギスハンの没する前に残したとされる言葉をご紹介します。

チンギスハン

こんな言葉を残しました。
「我、この大業を受けたれば死すとも今は恨みなし、ただ故山(こざん)に帰りたし」


大きな事をなしとげたから今死んでも何の恨みはない


ただ、故郷に帰りたい。


この、故山とは一体どこでしょうか、


これだけの伝説や地名等が残っていると、
ふるさとははるか遠く海を渡った島国であると思いませんか


日本の岩手県平泉より北に、しかもいたるところに伝説が残っている。
日本だけでなく、外国にも存在している


そしてチンギスハンの出生とも合致している部分がある。


伝説だと言われているにも関わらずかなり詳細に伝わっていますよね。
決してあやふやではない。


果たしてこれは本当に伝説でしょうか。
事実は小説よりも奇なり。


私は源義経とチンギスハンは同一人物である
これはまぎれもない事実であると信じています


教科書では平泉で亡くなっている

そう習ったからただの伝説だ!ではないですよね


起きている事実から物事を考えてみてはいかがでしょうか。



最後まで見ていただきありがとうございました。


動画でわかりやすく解説はこちら


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?