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エッセイ:この世界を愛せるか――宗教思想散策

造物主が万物の形をつくり出したそのとき、
なぜとじこめたのであろう、滅亡と不足の中に?
せっかく美しい形をこわすのがわからない、
もしまたそれが美しくなかったらそれは誰の罪?

オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』小川亮作訳

はじめに

 この世界、もちろん愛せるなら愛したほうが人生楽しそうな気はします。しかし世の中はとても愛する気が起きなくなるような悲惨な出来事に満ち溢れています。ウクライナやガザ、国内だと能登半島地震などの本格的な例を待たずとも、病気、労働、嫌な人間関係、そしてどんなに楽しい人生を送ったとしても、老いと死から逃れることはできません。世界はどうしてこんな風にできているのでしょうか。

グノーシスの誘惑

 もしこの世界が、偽の神の創った悪の世界だったとしたら?

 そういう宗教思想があります。グノーシス主義と呼ばれています。グノーシス主義は一つの宗教ではなく、複数の宗教に跨って存在する思想なのですが、この記事ではキリスト教のグノーシス主義の一番典型的なバージョンのことを指しています。キリスト教のグノーシス主義は現在では教団としては消滅してしまっている、キリスト教初期の異端です。その教説によれば、この世界を創った造物主は、この世界とは別にある至高神の世界でのごたごたの末に誕生したもので、自らを至高神だと勘違いしている偽の神であるということです。ちなみに至高神が新約の神、偽の神が旧約の神とされています。
 「グノーシス(γνῶσις)」はギリシア語で「認識」を意味します。この語の動詞形を使ったものに「汝自身を知れ(γνῶθι σεαυτόν)」という有名な神託があります。この記事の主たるテーマではありませんが、自分自身が至高神と同じ本性を有していることを認識することがグノーシス主義の要諦です。そうすることでこの世界を脱して、至高神の世界に帰還することができます。というわけで先に言っておくと必ずしもネガティブな思想ではなく、むしろ途方もなくポジティブな発想すらしています。人間と至高神が本質的に同一の存在だなんて…!
 しかし少なくともこの世界に対しては悲観的ですし、「偽の神」という概念には慰められます。これはこの世の悲惨さに説明を与えてくれるものです。神話学者のカール・ケレーニイは著書『プロメテウス ギリシア人の解した人間存在』において、プロメテウスの神話分析を通じて、人間は動物と異なり、ただ苦痛を苦しむだけなく、不正当によっても苦しむ存在であると論じています。「偽の神」という概念はこの二つ目の苦しみを軽減してくれます。偽の神が創った世界が悲惨であることに何の不思議もないからです。
 また、グノーシス主義と関連が深い思想に、「キリスト仮現論」というものがあります。歴史上に現れたイエス・キリストは肉体をまとった仮の存在であり、霊的な本体が別にある、というような思想です。グノーシス文献の一つである『ペトロの黙示録』では、イエスが迫害者たちに囲まれ、ゴルゴダの丘で磔刑に処されている場面において、イエスが磔にされている傍らで、もう一人のイエスがそれを見ながら笑っています。ペトロがこの異様な光景について「救い主」に尋ねると、次のような答えが返ってきます。

§26 救い主は私に言った、「あなたが見ている、十字架の傍らで喜んで笑っている人物は、活けるイエスである。しかし両手と両足を釘で打たれているのは、彼の肉的な部分、すなわち『代価』である。彼(活けるイエス)の模倣物として成ったものを彼らは辱めているのである。しかし、彼と私を見なさい」。

筒井賢治訳「ペトロの黙示録」(『新約聖書外典 ナグ・ハマディ文書抄』岩波文庫、pp. 107-108)

 「救い主」によると、磔にされているのは肉的なイエスであり、傍らで笑っているのは活けるイエス(霊的なイエス)とのことです。これがキリスト仮現論です。肉体のイエスは仮の姿です。

§30 彼は解放され、彼を迫害した者たちが仲間割れする様子を喜んで眺めているのである。彼は彼らの愚鈍さを笑っているのである。彼は、彼らが生まれつき目が見えないということを知っているからである。

同、p. 109

 活けるイエスは、迫害者たちが自分たちの迫害している人物はイエスの仮の姿であると気づいていないことを笑っています。しかも肉的とはいえイエスの処刑を「仲間割れ」と切って捨てるところがなかなか凄いです。グノーシス主義では物質世界は悪とされており、肉的イエスも「悪霊(ダイモーン)たちの長子」(§29)などと呼ばれ、迫害者たちと同類のものとして扱われています。もしかしたら活けるイエスが笑っている対象に肉的イエスすら入っているかもしれません。
 ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』において、ある盲目の老修道僧がアリストテレスの『詩学』の第二部を読もうとした他の修道僧たちを巧妙なトリックで毒殺する事件を起こします。アリストテレスの『詩学』第二部には「笑い」についての議論があります。その老修道僧によると、「笑い」は全てを嘲弄することで、人を懐疑に、つまりに信仰の敵に導くのだということです。
 確かに考えてみると「深刻な笑い」はありません。何かそのようなものを想像できたとしても、それは心から笑ってはいないと思います。笑いは物事を真正面から受け止めるというよりは、物事から距離を置き、程度の差こそあれ軽く扱うものです。その距離や軽さが人を懐疑に導くということなのだと思います。
 『ペトロの黙示録』の活けるイエスの笑いはこの世界をかなり、というか完全に突き放しているように思えます。真理の認識を得られない人々を憐れむどころかあざ笑っています。まるでこの世のことなどどうでもいいかのようです。軽すぎた世界。イエスすら肉的なほうは悪だという立場からすれば、この世界は軽いどころか自ら浮いて飛んでいくようなものなのでしょう。

自然神秘主義の光

 この虚無の世界を、その悲惨さも含めてはるかな高みから笑い飛ばす… その境地に至れれば確かに思い煩うこともなさそうです。しかし、この世界を諦めないでいることはできないのか…
 見出しの「自然神秘主義」という言葉は「自然」+「神秘主義」からできています。まず「神秘主義」とは、究極実在たる超越者との一体化を図る思想です。何を言ってるか分からないかもしれませんが、今から説明するタイプのものが一番分かりやすいと思うので続けます。そして「自然神秘主義」とは、自然に超越者を見出し、それと一体化する思想です。自然豊かな場所に行ったとき、自然との一体感を感じて、解放されたような晴れやかな気分になる、というのは経験がある人も多いのではないかと思います。自然神秘主義はさらに一歩進んで、自然の中に超越的な存在を見出します。

峯の色 谷の響きも 皆ながら 吾が釈迦牟尼の 声と姿と

 これは日本の曹洞宗の開祖であり、日本を代表する禅僧の一人である道元の和歌です。僕はこの歌は自然神秘主義的な歌だと思っています。峰には峰の精霊が、谷には谷の精霊がいる、というわけはなく、鮮やかな峰の色も、さらさらとした谷川の響きも、その全てが我が釈迦牟尼仏の顕れである、と歌われています。
 大自然に神秘を見出すというのは理解できる人も多いのではないでしょうか。この思想の利点は何と言っても実感のしやすさでしょう。本当はもっと決定的な合一体験が必要なのですが、まあ、何か大いなるものを何となく感じられればいいんじゃないかと思います。道元の開いた永平寺は福井の山中にあります。今は門前町もあるのでそんな大自然というわけではないですが、それでも市街地なんかよりはよほど自然がある場所です。道元当時は恐らくお寺しかなかったと思うので、そういう場所で渓声山色に仏を感じつつ禅に打ち込んでいたのでしょう。
 このように自然に神秘を見出すという発想は西洋にもあります。次の引用はイギリスのロマン派詩人コウルリッジの「深夜の霜」という詩の一部です。

だが、わが子よ、おまえは微風のように
湖水や岸辺の砂浜を、太古からの岩山の麓を
そして千変万化する雲の下をさまようのだ。
大空の雲は全体で湖とも岸辺とも岩山とも
化して地上を象る。したがっておまえが
見聞きすることになる美しい形象、澄明な
物音は、おまえの神が発する永遠の言語であり、
その言語によって神は万物のうちにご自身を、
ご自身のうちに万物を、永しえに示し給うのだ。

上島建吉編『対訳 コウルリッジ詩集――イギリス詩人選(7)』岩波文庫、2002年、p.173, 175 

 釈迦牟尼仏と神という違いはありますが、先ほどの道元の和歌と非常に似たような発想が見られます。ただ、形象も物音も神の永遠の「言語」とされているところにコウルリッジの思想が現れていそうです。
 僕はもともと山水詩や田園詩、風景写真、風景画の類が好きだったので、大自然に聖性を見出すのは自分の美的感覚からの帰結でもあるかなと思います。インドア派なので自分から出かけていくことはあまり多くはないですが…
 とはいえ必ずしも自然豊かな場所でなくても、空や星、月、太陽なんかは市街地でも見ることができます。あるいは道端に生えた草花とか、梅田駅前の道路のど真ん中に生えたスイカとかに自然の生命力の凄まじさを感じたりすることもできます。

終わりに

 この記事では自分の関心に従ってグノーシス主義の悲観的な面を主に取り上げましたが、救済論的に重要なのは、最初のほうに書いたように、人間が至高神と同一の本性を有しているということです。
 また、神秘主義も自然に限った話ではなく、「神との一体化」「宇宙との一体化」みたいな表現のほうがよく見られます。でも「自然」のほうが想像しやすく、しかも美的ですよね(宇宙も自然としては美的)。
 もちろん自然は人間にとって都合の悪い面も多々あります。しかしこの世界に事実として悲劇的な出来事がある以上、この世界を愛するためには、それも含めて受け入れなければならないと思います。とはいえまさにそれこそが難しいことではありますが…