ミッドナイトスワンを観ました

久しぶりに、そして初めてひとりで映画を見てきました。

ミッドナイトスワン、ネタバレに言及する表現があるので見てなくて見る予定のある人は見たあと読んでね。

自分の感想はうまくまとめられなかったけどこちらの記事を読んだら逆にまとまったので、ただの垂れ流し記録方式です。

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映画を見て、凪沙も幸せになってほしいのに…ととても悲しい気持ちを引きずってましたが、性別適合手術を受けた人が亡くなってしまうリスクは低いとのことなので、安心しました。
りんちゃんが亡くなったのは家庭内に居場所がなかったことと大好きなバレエを続けられなかったことが大きな要因で、性的マイノリティ(かも?)が理由とは全く感じませんでした。
確かに映画ではトランスジェンダーは亡くなって、そうでない人は生き残ってるけどどうなんでしょう…??

わたしはトランスジェンダーだから亡くなった、とは全く思わなかったです。

亡くなる人が複数人登場する作品で、亡くなった人の性別・国籍・共通点をわざわざ探すことはしてこなかったし、ただ単純に【一果とって大切な人が亡くなった】という出来事としてわたしはうけとめました。


わたしは心と身体の性別が一致している女性ですが、母性がないなら女でないと表現されてるならわたしも女ではないかもしれない。
母性の発露の演出については、女性が女性を演じて子供を引き取り育てるような作品で描かれるような母性と同じように違和感なく、「わたしはこんな愛情もてるかな?」って考えさせられました。
また、男性の姿で就職した部分も、本来の自分の意思や本質を曲げて何かをする決断をしたり、何かを諦める決断・行動をしたりすることは、映画や小説などのフィクションでも、実際の生活のなかでも大なり小なり誰にでもあること。
LGBTの方の苦しみや痛み、本来の自分でいられないことへの葛藤にくらべたらわたしが実生活で感じるものはほんとにちっぽけかもしれないけど、
「そういうことあるよね、誰もが本来の自分で生きていける世の中になってほしいよね」
とLGBTだからというより、全ての性別・立場の人に置き換えて受け止めました。

凪沙が身体が不自由になって荒んだ生活をしてしまっている部分については、独身・子どものいないわたしも、突然病気や事故にあって介護が必要になったとしても支えてくれる家族はいないし(親は先に亡くなる可能性が高い)、トランスジェンダー云々に関わらず、未婚率・少子化の進む現代に置いては誰しもが陥る可能性のある環境とも言えて。
そういった現代社会においても、短い間でもお互いに愛情をもって生活していた一果と凪沙だったからこそ、身体が不自由になってしまった凪沙に温かく接することができたのだと思いました。
(ボランティアのヘルパーさんが来てくれてたみたいだけど、凪沙が目が見えないことをいいことに?丁寧な介護は受けられていなかったようだし…そういうのも含めてトランスジェンダーかどうかに関わらず明日は我が身で考えさせられたというか。)

一果のお父さん(義理??)と凪沙がもみ合って胸が露出してしまうシーンも、女性に乱暴するなんて!と思ったり(この時点で草彅剛くんが演じる凪沙をきちんと女性として見て物語に感情移入してるといえる)、女性が女性を演じている作品でこんな表現するかな?と思う一方、広島の人間は凪沙を男性だと思ってることの強調表現とも捉えることができたし、都会では受け入れられつつあるLGBT(就職面接の場面では嫌悪は描かれてない、でも正しくは理解はされてない)と田舎ではまだまだ受け入れ難いとされている(母親の慟哭、一果の母のバケモノ発言)現状の対比にも思えました。

あとは、LGBTだったり生きづらさを感じている人が身近にいない(カミングアウトされていない?)わたしは、映画を通して凪沙や一果の気持ちに寄り添ってみようと思うけれど、実際に家族に、身近にいたらちゃんと受け入れてあげられるのかな?という提起にも感じられました。

凪沙を草彅剛さんが演じることについては、わたしも草彅剛さん主演の映画ということでこちらの映画に興味をもった部分があるし、女性が凪沙を演じても、トランスジェンダーの方が凪沙を演じてもよかったとは思うけど…
草彅剛さんの演技力と話題性?ファンの多さ?など総合的に考えて(演技力の評価ができるほど演技について知らないけど)適役だと思いました。

それにトランスジェンダーがトランスジェンダーを演じる・演じなければならないとなると、刑事ものは警察官、医療ものは本物の医者、病気や障害をテーマにしてたら本当に罹患した人や障害のある人が演じるということになって、それはもうドキュメンタリーでは??となるし…

恋愛ものでも、OLさんを演じる女優さんはOLさんではないし、それと一緒なような気がしました。
どんな立場の人でも、いろいろな立場の人を演じることができるのがフィクション作品のいいところですよね。
キャッツとか人間が猫を演じるのだし!

トランスジェンダーでも俳優として活躍できる土壌がないということを指摘されているのかもしれないけど、やはり現実世界で男性・女性・その他の性別がオープンにフラットに同じコミュニティを形成している環境は今の日本には稀で。
(少なくともわたしの生活環境レベルでの周りにはいない、知り合いにいる程度)
そういう現状を鑑みると「男性=男優」「女性=女優」「トランスジェンダー=トランスジェンダーの俳優」とならないのもしょうがないような気がします。

1人の役者がひとつの作品で幅広い年齢を演じることもあるし、男性の俳優さんが女性を演じたり(笹野さんのスカッとばあさん好きです)、女性の俳優さんが男性を演じることもあるし(二階堂ふみちゃんの翔んで埼玉とか)。
男性である草彅剛さんがトランスジェンダーの女性を演じることを「難しい役どころ」と紹介するのも、10代で30代を演じた女優さん(清野果耶さんかな)が「難しい役どころを演じた」と表現されるのと何ら代わりはないことだと思いました。

それに、この凪沙の役を素敵に表現できてまた、見てみたい!と観客に思わせるようなトランスジェンダーの俳優さんがいるかどうかにもよるような気がします。
(わたしは草彅剛さんの演技で凪沙という人を見てみたいと思いました)
また、そういう俳優さんがいたとしてトランスジェンダーであることをオープンにして演じたいかどうかということもあります。
(トランスジェンダーがオープンにしずらい特徴と現代の日本で捉えられていることもありますが、年齢非公開にすることで観衆に先入観を与えず、演じられる役柄の幅を広げている吉田羊さんのような女優さんもいます)

もちろん、社会の中でトランスジェンダーの方が自分らしさを隠さずに生きることができ、それがフィクションにも投影されて、映画や芸能の場でも男女・トランスジェンダー関わらず活躍できる世の中になることが一番の理想だと思うけれど。

そういうときっとまだまだ女性(身体的肉体的にも女性)だって生きづらさを感じる場面はあるし、日本における外国人、世界における有色人種…など様々に不平等を感じる立場の人はいるから、言い出したらキリがなく、ひとつの作品で全てとは戦えないから、ある程度絞る必要はあって。(テーマですね)
絞ったうえで、わたしのような普段映画を見ない人間が、初めて1人でチケットを買って映画を見て、凪沙や一果に思いを馳せ、性別適合手術について調べてみたり、こうして感想をだらだらとでも書かせてくれる作品になったということは評価されることなのではないかなぁと思いました。

また誰かの感想を読んで自分の中でいろんな気持ちが生まれたり、ふと思いついたことがあったら書き加えるかもしれません。

夜中のラブレターみたいにあとから読み返したら恥ずかしい感想かもね笑

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