創作大賞2024応募作品『白い花』
静かな夜だ。霧のような雨が朝から降り続いている。
私のアパートの向かいにある5階建てのマンション、204号室で男と女が口論をしている。もう1時間は口論をしているだろう。内容はわからないが、どうも心中穏やかではない感じだ。
突然、女が泣き出した。その場に力なく座り込んだ。男は女の前で立ち尽くしている。女はすぐに泣くのをやめた。男が床に転がっていたボックスティッシュを女に手渡した。女はティッシュを受け取り鼻をかんだ。男も女も黙っている。散々口論した後だ。お互い疲れ切っているに違いない。すくなくとも今はもう話すことなんてないのだろう。男が部屋を出て行く素ぶりをみせる。女は止める気配をみせない。男はどうしてだと言わんばかりに大きなジェスチャーを繰り返す。どうして止めないんだ、おまえはどうしていつも止めないんだ。
女が何かを言っている。聞こえない。あたりまえだ。ここは私の住むアパートなのだから。
男が部屋を出て行く。女は止めない。男が後ろを振り返る。女は俯いたまま。男がリビングのドアを大きな音を立てて出て行く。もちろん音は聞こえない。女は動かない。微動だにしない。もちろんここから細かい動きはわからない。しかしそんなふうに見える。俯いた女。長い髪が顔を覆っている。ああ、その顔が見たい。私は女の顔を一度だけ見たことがある。
あの日は良く晴れていた。太陽が眩しかった。私は一睡もしていなくて頭がぼおっとしているような、覚醒しているような、自分でもわからない状態だった。煙草を切らしていたからコンビニに買いに行くつもりだった。私は玄関を出た。アパートの錆びついた階段を下りた。ゴミ収集場の前を通り過ぎようとしたとき、向かいのマンションのエントランスから女が出てきた。長い髪。グレーのパンツスーツ。黒いハイヒール。歩くたびにコツコツと音が響いていた。私はすぐにわかった。これは運命だと。この人は神様が私に与えてくれた運命の人なんだ。顔がニヤけてくるのがわかった。手が震えた。下半身の自由がきかなくなった。体中の血液が流れ出して心臓に集まってくる。熱くてたまらなかった。私はそのとき決心した。この人を守ることを。女が私の前を通り過ぎた。足早に。私の顔を一度も見ずに。きっと照れているに違いないと思った。可愛い人。ああ、私の可愛い可愛い天使ちゃん。
男が部屋に戻ってきた。気味の悪い野郎。しつこい奴だ。私の天使ちゃんはおまえに興味なんてない。何回言ったらわかるんだ。まだ言ったことはないけれど。それでも今度、外でばったり出くわしでもしたら、きっと私は男を殴るだろう。殴るに違いない。この拳いっぱいに力を込めて、グゥで殴るだろう。いや、パァでビンタかもしれない。それともチョキで目潰しの方がいいか。私は喧嘩というものをしたことがない。人を殴ったことがない。いつも殴られる方だ。どっちにしたって、この男はなんだ。私の天使ちゃんに付きまとっている。最近この男と私の天使ちゃんは一緒に帰宅することが多い。いつも手を繋いで部屋に入ってくる。抱き合ってキスをする。私の天使ちゃんとキスをしている。ゆるすまじ。私は私の天使ちゃんの優しさにつけ込むこの男がゆるせないのだ。よし乗り込もう。今から私の天使ちゃんの部屋に行き、この男がどれだけしつこい奴なのか、私の天使ちゃんにとってどれだけ害があるのか、立証してやろう。そうと決まれば話は早い、そのままプロポオズだ、花を持って行こう、あいにく、花はないから、この花の絵を持って行こう。白い花。あの日見たんだ、私はあの病室の窓から、階下に広がる一面の白い花を見たんだ、薬漬けの毎日、痛みで眠れない夜、私は寂しさを紛らわせるために白い花を描いた、描いているときだけは痛みも寂しさをも忘れることが出来たから。この花を私の天使ちゃんにも見せてあげよう、きっと喜んでもらえるに違いない、いっしょに、私たちは喜ぶことができるのだ。さて着替えなくてはいけない、こんなヨレヨレのスゥエットではだめだ、スーツだ、でもスーツなんて持っていない、そもそも着たことすらない、仕方ない、たしかジャケットが一枚、押入れにあったはずだ、上着だけでも良くして見せたい、そうだ、これだ、でもこれも絵の具がいっぱいついている、私はこんなに赤ばかり使ってたっけ。
男が私の天使ちゃんに抱きついている、いや、男が抱かれている。私の天使ちゃんが泣きながら男に抱きついている。なんて優しい私の天使ちゃん、きっと、哀れな男を気遣って抱きしめてあげているんだろう、なんて心根の優しい私の天使ちゃん、キスまでしてあげている、なんて長いキスをするんだ、ほんとうに、ほんとうに、天使の中の天使、私の可愛い可愛い天使ちゃん。部屋の明かりが消えた。今頃男は私の天使ちゃんに乞うているに違いない、存分に乞うているいるに違いない、どうか私をゆるしてくださいって、ああ、私の運命の人、私の天使ちゃん、やさしいやさしい女神様、あなたはそれでも男をゆるすのですか。
今行くよ、この白い花を持って。
それにしても、なんて真っ暗なんだ。
私は私の手すら見えない。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?