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創作大賞2024応募作品『七月の踏切を渡る』

どこまでも続く原始そのままの蒼い空を見たとき、彼は真夏の球児たちを思った。青空の下、白球を追いかけるそのまっすぐな視線を想像した。視線の先には夢があった。夢には果てがなかった。そこには嘘がなかった。かつての彼もまた、球児だった。手のひらに豆をつくりながらバットを振った。自分の投げる白球の先にはグローブがあった。受け止めてくれる誰かの手があった。彼が声を出せば仲間も声で応えてくれた。白球でも言葉でも、キャッチボールが出来た。

7月23日。彼の腕時計は19時を回っていた。
彼は茜色に染まりきる前の空が好きだった。信号待ちの間、車内の窓から見える空は十分に美しかった。数分しか見られないその空に浮かぶ太陽は、彼の脳裏に水中を漂う桃を映し出す。桃は無色透明な水の中で優雅に揺蕩っている。かと思えば急流にさらわれ岩にぶつかり水面へ跳ね上がったりもする。桃は空気に触れて大きな胸をめいいっぱいに震わせる。パックリ破れた果肉から果汁が垂れている。桃の痛々しい姿は、自分自身の呼吸を楽しんでいるようにも見える。

彼は実家に立ち寄った帰りだった。
帰り際、母は久しぶりに会う息子に大量の桃を持たせてくれた。
「もう少しでお姉ちゃんの命日でしょ。あの子、桃が好きだったから」
エアコンの効かない蒸し風呂状態の車内で、助手席に置かれた大量の桃が放つ匂いは耐え難いものがあった。今朝のテレビで天気予報士が「今年1番の暑さになるだろう」と言っていた。彼は毎日同じことを聞いているような気がした。蒸し暑さと匂いと、母の自分を省みない性質は彼を苛立たせた。久しぶりに会った母はさらにちいさくなっていた。彼を見送るとき、外までついてきた。母は何も言わず手を振った。彼は「もう家に入っていいよ」と返した。車のバックミラーにはいつまでも母の姿が映っていた。

数分後、彼は踏切につかまった。
カンカンカン、カンカンカン。踏切の音がいつもより大きく聞こえた。電車の来る気配はまるでなかった。カンカンカン、カンカンカン。甲高い音が彼を余計に苛つかせた。前にも後ろにも車は止まっていない。人すら歩いていない。この踏切はつかまると厄介だった。なかなか電車が来ないから、大抵の人は待つのが面倒で回り道をした。しかし彼はこの踏切から見える空が好きだった。それは踏切と、遠くに見える鉄塔がいつもの空を画にしてくれるからだった。彼は人の手によって作られた直線と、空のやわらかな輪郭のない空間が混ざり合う画を、いつか描きたいと思っていた。

「母さんだって桃が好きだろ」

彼はふいに出た自分の言葉に驚いた。
いつだって母は姉や彼を優先にしてきた。彼は自分が母の犠牲の上に成り立っていると感じたとき、いつもやり切れなかった。10年前に父が亡くなってから母は急激に老けた。白髪染めをしなくなった。顔は皺だらけになった。そして5年前に姉が亡くなり、さらに小さくなってしまった。物忘れが頻繁におこるようになり、そのことで彼によく電話をかけてきた。

「おれは母さんにどれだけ嘘をついただろう」

カンカンカン。

カンカンカン。

カンカンカン。

彼の脳裏にいくつかの嘘がよぎった。

カンカンカン。

カンカンカン。

カンカンカン。

彼は自分が怒っているのか悲しんでいるのか悔しいのか、泣きたいのか笑いたいのかわからなかった。夕陽が眩しかった。少しだけ涙が出た。助手席の桃は夕陽に照らされて産毛を輝かせていた。その姿は変色しつつある果肉を楽しんでいるかのように見えた。
遠くから、電車がやってくる音がした。電車はあっという間に近づいてきて、凄まじい音をたてながら彼の目の前を通過していった。彼は轟音を聞いてる間、何も考えられなかった。ゆっくりと踏切のバーが上がった。彼が目線を上げると向こうの空で赤い風船がひとつ飛んでいるのが見えた。そして今にも淡紅色が水色を侵食しようとしている空に、風船はゆっくりと溶けていった。

「帰ったら桃を食べよう」

百均の皿に乗せて。
ちいさなフォークで食べよう。
その前にシャワーを浴びよう。
次の休みの日には、母といっしょに、姉の墓に手を合わせに行こう。

彼はアクセルを踏んだ。

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